市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第59講

59 わたしを超えて

あなたの慈しみはわたしを超えて大きく、
深い陰府からわたしの魂を救い出してくださいます。

(詩編 八六編 一三節)


わたしたちはいつも自分を規準にして人を判断し、自分と違う点を見つけると非難し、批判しています。自分を判断するときも、自分を物差しにして自分を見ますから、何も不都合なことは見えず、自分はいつも正しい人間に見えています。それが人間の本性のようです。それで、神に対するときも自分を規準にして、自分が理解できる枠の中で神を考えています。神の慈しみといっても、せいぜい自分が他人に示すことができる優しさとか親切さぐらいにしか考えていません。
そのような人間の思いに対して、主はこう言われます、

  「天が地を高く超えているように、
 わたしの道はあなたたちの道を、
 わたしの思いはあなたたちの思いを、
 高く超えている」。 (イザヤ書 五五章九節)。

父の慈愛の思いは、わたしたちの理解をはるかに超えています。イエスは「放蕩息子」の譬で、背く子に対する父の慈愛を語られましたが、それもなお人間界のことを比喩としている以上、父の慈愛をわたしたちの魂に直接示すことはできません。
わたしたちの魂が、わたしたちの思いをはるかに超える父の慈愛を知るのは、キリストの十字架の場で、聖霊により神の愛が魂に注がれるときです。魂が、「わたしはあなたのために死んだ」という十字架の言葉を聴くときです。その時、わたしが想像もしていなかった質の愛が、わたしを包んでいることを感じます。いや、わたしの存在そのものを支えていることを知ります。
もはや、わたしは自分を規準にして考えることはできなくなります。自分がどれだけ善いか悪いか、どれだけ立派であるか惨めであるか、そのような区別は問題でなくなります。十字架の場で知る神の絶対的な慈愛の前に、自分の相対的な価値は吹っ飛びます。それまで自分の善悪、幸不幸、過去将来にとらわれていた魂の不安と無明は、神の圧倒的な恩恵の支配の前に、押し流されてしまいます。この詩編の告白は、十字架の場において、溢れるように成就します。

                              (一九九四年六号)