市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第52講

52 人生の不条理

               ー 人生の不条理に苦しむ友への手紙 ー

神は・・・・理由もなくわたしに傷を加えられる。

(ヨブ記 九章一七節)


 あなたは今回自分が受けた仕打ちはまったく理不尽なもので、自分の方には何の理由もないので、納得できないのだと書いておられました。そうだと思います。人生の苦悩のほとんど全部が、そのように理由のない理不尽なものです。どのように辛いことでも、その理由が分かっておれば深刻な苦悩にはなりません。ほとんど解決していると言ってよいでしょう。理由がないから苦しむのです。
 相手から受ける理由のない仕打ちだけでなく、人生にはどうしても納得できない不条理が多くあります。あの人より数秒遅くそこにいたために車が自分に当たって生涯にわたる障害を受けたのはなぜか。あの人ではなくわたしにがんが出たのはなぜか。ある人が生まれながら障害を持っているのはなぜか。あの人は資産家の家に生まれたので人生を楽しんでいるのに、わたしは貧しい親から生まれたので生涯苦労ばかりするのはなぜか、などなど、人生の不条理にはきりがありません。たまたまの偶然が生涯の必然となるというような人生の不条理はどうしても納得できません。
 この不条理の苦悩から逃れるために、人間はさまざまな工夫をしてきました。その努力が宗教を生み出す契機の一つであると言えます。理由のない不幸を、前世の因縁とか先祖霊のたたりとかで説明して納得させようとしたりします。その中でもっともポピュラーな説明が因果応報です。たしかに「善因善果、悪因悪果」、「良い木には良い実、悪い木には悪い実」は、人生の一面の真理です。しかし、原因の善悪を何らかの基準を用いて一律に判断するようになると問題が起こります。基準は社会の道徳であったり、宗教的戒律であったりしますが、その基準に合った行為が善であって幸福をもたらし、その基準に反した行為が悪であって不幸をもたらすというのです。
 ところが、このような因果応報説によって偶然の支配や不条理から逃れようとする努力も、人生の現実の前に破綻します。完全に基準を守っている善人が不幸になり、悪を行う者が栄える実例はいくらでもあります。社会を支配する応報説に壮烈な戦いを挑んだのが、旧約聖書の中にある「ヨブ記」です。主人公のヨブは完全に神の戒めを守っている善人であるのに、災害で家族や全財産を失い、自分の身も疫病にかかります。それを見た友人たちは、ヨブに隠れた罪があるから禍いが臨むのだとしますが、彼らの応報思想に対してヨブは身の潔白を主張し、禍いの不条理を訴えます。「ヨブ記」も人生の不条理の謎を解決したとは言えません。不条理はすべての人生の永遠の重荷です。
 わたしはあなたに人生の不条理に対して納得のゆく説明をしようとしているのではありません。それはできないことです。わたしはあなたにもう一つ別の不条理があることを知らせたいのです。それは神の恩恵という不条理です。イエスが人生の不条理に苦しむ人々に示された神の恩恵を、あなたにも知ってもらいたいのです。
 イエスは「あなたがた貧しい人々は幸いだ。神の国はあなたがたのものである」と言われました。イエスが言われる「貧しい人々」とは、経済的に貧しい人のことではなく、神の前に誇ることが何もない人、神の定めを守ることができない人、「罪人」と呼ばれている人のことです。そのような人に神は無条件で「神の国」という幸いを与えておられるというのです。このように受ける側の善悪にかかわらず、無条件に良いものを与える神の業を恩恵といいます。これは、神の定めを守る義人には神の祝福があり、それを守らない罪人には裁きがあるという応報説によって人生の不条理を解決しようとしている宗教家にとっては、許しがたい理不尽です。まったくの不条理です。彼らはイエスを自分たちの宗教の根本を破壊する者として憎み、ついに殺すにいたります。
 わたしたちは人生の不幸にさいして不条理を感じます。それはマイナスの不条理です。しかし、わたしたちの存在はもう一つ別の不条理、プラスの不条理によって支えられているのです。創造者なる神が、わたしの側にそれを受ける資格も理由も何もないのに、救いを与え、命を与え、栄光を与えてくださるのです。わたしたちの存在自体がこの神の恩恵によるものであることを知るとき、人生のもろもろの不条理は、神の恩恵という栄光の不条理の中に呑み込まれてしまいます。あなたが今回の理不尽な苦しみを契機に、イエスを信じることによって神の無条件の恩恵の世界を知るにいたるように、わたしはせつに願っています。

                              (一九九三年五号)