市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第42講

42 唯一の献げ物

告白を神へのいけにえとしてささげ、いと高き神に満願の献げ物をせよ。
それから、わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。
そのことによってお前はわたしの栄光を輝かすであろう。

(詩編 五〇編一四〜一五節 新共同訳)


 日本には「苦しい時の神だのみ」という諺がある。生活が無事平穏で何の苦しみもない時は、神の助けなどは必要でなく、自分の力だけでやっていけると考えて、自分の思うままに生きている。ところが、自分の力が及ばないような問題に直面すると、急に神社などに行って、普段は全然付き合いのない得体の知れない神々に解決をお願いする。日本には商売繁栄、入試合格、恋愛成就、安産育児、病気平癒など、あらゆる分野の問題を担当する専門の神々がいて、苦しみのある人々に呼びかけている。人々は苦しいことがあると、このような専門の神々の社を訪れ、この問題が解決しあの願いが叶えられたら、これこれの献げ物をいたしますと、取引のような祈りを捧げたり、前払いの賽銭を投入れて祈る。そして、どんなに祈っても苦しい状況が続くと、「神も仏もあるものか」という捨て台詞を投げつける。
 日本だけでなくどの民族においても、人間が営む宗教にはこのような面が避けられないようである。イスラエルの民は古代の諸民族の中では、独特の宗教を持った民であったが、それでも犠牲を捧げて神を拝む宗教的営みが、このように自分の問題の解決のために神を利用しようとする性格になることから抜けきれなかったようである。イスラエルの預言者たちは、民の祭儀を中心とする宗教的営みの中に潜むこの倒錯を見抜いて、これを厳しく糾弾した。詩編五〇編は、このような預言者的な精神によって貫かれている詩編である。イスラエルの民を選ばれた神が顕現して、民を法廷に呼び集めて告発される(一〜七節)。その告発はまず第一に、民が犠牲の献げ物を献げて神を礼拝する時の倒錯に向けられる。彼らは神がそのような犠牲の献げ物を必要とされるから、それを献げてその見返りに神の祝福を得ようとしている。それは人間が自分を神と対等の立場に置き、神を自分の献げ物で動かそうとする思い上がりである。そのような思い違いに対して、神は人間の献げ物を必要とされないと断言される(八〜一三節)。
 人間が神の必要を満たすのではない。神は自らの中で満ち足り、その溢れる中から恩恵によって人間の必要を満たしてくださっているのである。人間が神に献げるものがあるとすれば、それは自分を無と認める告白と、その自分を存在させてくださっている神の恩恵に対する感謝だけである(一四節)。それだけが神に喜ばれる唯一の献げ物である。この告白と感謝とは一つである。ここで「告白」と訳されている言葉は、詩編の他の箇所では「感謝」と訳されていることが多い。さらに、それと同じことが「満願の献げ物をせよ」という並行句で表現される。この願いが満たされたら献げ物をしますという条件付きの献げ物ではなく、現在自分が存在すること自体を願いが満たされていることと感謝して、自分を感謝の献げ物とするのである。これが神と人間の本来の関係である。苦しみがあろうがなかろうが、まず神との関わりの中で自分を無とする人間本来の場所に来て、「それから」、苦しみがあれば神に助けを呼び求めるのである。神はそのような場から助けを呼び求めるように招いておられる。そして、そのように呼び求める者に、何の条件もつけず、「苦難の日、わたしはお前を救おう」と約束してくださっている(一五節)。
 このような関わり方の中で、わたしたちが苦難の時に神の助けを得ることが、神の栄光を輝かすことになる。わたしたちが自分を無と告白し感謝だけを献げている場では、苦難の時に受ける助けはすべて、神が無条件の恩恵によって注いでいてくださるものであることが明かとなり、神の恩恵だけが輝くことになる。イエスが示された神は、絶対無条件の恩恵によってわたしたちを扱われる父であった。キリストの福音はわたしたちをこのような場に導き入れる。キリストの十字架が自分のための死であるとする告白は、いま人間が神に献げることができる唯一の献げ物である。この告白によって、わたしたちは自分が死んだ場に来て、そこから神を呼び求めるので、苦難や死に対する勝利がすべて神からのものであることが明らかになり、神の栄光が輝くようになるからである。

                              (一九九二年一号)