市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第31講

31 心の病

わたしは罪をあなたに示し
咎を隠しませんでした。

(詩編 三二編五節)


 心に悩みがあって苦しい思いをしているとき、それを誰かに聞いてもらうと楽になります。聞いてもらったからといって、問題が解決したり悩みが解消するわけではありません。けれども、心の奥底の悩みを口に出して語るという行為そのものが、心の重荷を軽くするようです。誰にも聞いてもらえないと、その悩みは心の奥底に沈殿し、無意識の領域で傷となり歪みとなって、その人の人生に深刻な影響をもたらすことになります。
 このような事実を見ていますと、人の心という生きものは、外に向かって開かれていないと健全に生きていけないようです。心が外の世界とつながるために、人間には言葉が与えられています。ところが、人間は様々な動機から自分を隠そうとするようになります。外に向かって心を閉ざし、もはや言葉をもって心の姿を語り出そうとはせず、ひたすら自分の内側に閉じこもろうとします。これは心という生きものの本性に反する方向の姿勢ですから、これを続けると心は病み衰えます。悩みが解決しなくても、ただ聞いてもらうために語るだけで楽になるのも、それが心の病を癒やし、バランスを回復する方向の行為であるからでしょう。
 現代は心の病の時代と言われています。現代の競争社会の中でお互いの信頼関係は失われ、昔のような家族や共同体への所属意識も薄くなり、宗教的な支えも持てなくなっているので、人々は孤立して自分の中に閉じこもり、心を病む傾向が強くなっています。このような時代の病の中で聞くと、何千年も昔のイスラエルの魂の叫びが、問題の根源を示す新鮮な声として響いてきます。その魂は心の病を知り、その原因を探り、それを突破したのです。詩編三二編がその叫びです。
 その魂は自分の苦悩が神に心を閉ざしているところから来ることを知っていました。彼は「黙し続けて、絶え間ない呻きに骨まで朽ち果て」たのです。自分の存在の根源たる神に向かって語りかけようとせず、自分を隠そうとしている限り、その心は病み衰え果てるのです(三〜四節)。ところが、その方に向かって心を開き、もはや自分の罪と咎、すなわち神への背きを隠すことなく、それを言い表して語りかけた時、罪が赦され、神が自分を「救いの喜びをもって囲んでくださる」ことを体験したのです(五〜六節)。彼は心の病を癒やされた者の幸いを、体いっぱい賛美しないではおれないのです(一〜二節)。
 現代人は心の病が自分の中に閉じこもるところから来ることを知っています。けれども、誰に対して自分を閉ざしているのかを知らないのではないでしょうか。個々の人には心を閉ざすそれぞれの原因があります。しかし、個人の無意識の奥底に「普遍的無意識」というようなものがあるとすれば、現代文明の「普遍的無意識」そのものが、命の根源である創造者に対して自己を閉ざして病んでいるのではないでしょうか。

                              (一九九〇年三号)