市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第30講

30 心を確かにして

わたしは心を確かにします。
神よ、わたしは心を確かにして
あなたに賛美の歌をうたいます。

(新共同訳 詩編 五七編八節)


 人生にはさなざまな問題や苦難がある。問題が一つだけのときは、その問題に向かって体当たりすれば解決することもあろう。けれども、実際の人生においては、多くの問題が複雑にからみあって押し寄せてくる。一つの問題を解決しようとすると、そのために他の問題がよけいに駄目になるというように、自分の努力ではどうしようもない状況に陥ることがある。どちらを向いても出口がない、いわゆる「八方塞がり」の状況である。そういう時、わたしたちの心は直面する問題の複雑な相にとらわれ、あちらを向いてああでもない、こちらを向いてこうでもないと思い乱れる。こういう状況で最もいけないことは、わたしたちの心がさまざまな方向に分裂して、一つに定まらないことである。
 では、どうすればよいのか。四方八方どちらを向いても出口が塞がっているのであれば、上に向かうのである。その一つの方向に心を定めるのである。信仰者はその方向を知っている。この詩編の作者もそういう状況で、ひたすら神を呼び求めて祈っている。もう、右や左、前や後を見回すのではなく、心を定めてひたすら上に向かうのである。「心を確かにして」神に向かい、「わたしのために何事も成し遂げてくださる神」(三節)を賛美するのである。結果は予想することができない。解決がどのような形になろうとも、結果は神からのものとして受け取ると心を定めて、一切を神の手に委ねてしまうのである。このような信頼の心を、神は放置されることはない。
 この確かにされた心、一筋の信頼の心は「曙を呼び覚ます」(九節)。太陽はまだ出ていないが、夜の暗闇を破って東の空に光がさし始める。その曙のように、解決の事実はまだ起こっていないが、それに先立って、心の苦悩の暗闇の中に平安と希望の光が宿るようになる。信仰者はすでにこのことによって、神が信頼に応えてくださっていることを知り、生ける神が現実に働いてくださっていることを体験する。
 わたしたちの最後の敵は死である。死はその向こう側に何も見えない暗闇である。人間のいかなる努力も解決することができない矛盾である。しかし今や、キリストに結ばれて「イエスを死者の中から復活させた神」を信じて生きる者は、その信仰によって、死の暗闇の中に復活の希望をいう曙を呼び覚ましている。復活という事実はまだ起こっていない。それがいつ起こるのか、死後どのような形で復活を待つのか、わたしたちは知らない。けれども、初穂としてイエスを復活させて死者の復活を約束された神に、「心を確かにして」向かうことにより、内なる聖霊の証に助けられて、復活の希望をもってこの人生を生きることができるようになっている。キリストにある者は人生の苦難の中で、心を確かにして神を信頼するように鍛えられ、復活の希望を確かなものとされるのである。

                              (一九九〇年二号)