市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第27講

27 弱さを誇る

キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。

(コリント人への第二の手紙 一二章九節)


 人は自分の強さを誇りにして生きている。自分が持っている何らかの力を頼みとして誇っている。体力があって多くの仕事ができること、資力があって多くの財物を自由に支配できること、知力があって多くの知識を蓄えていること、権力があって多くの人を支配できること、そして気力があって多くの困難を突破して自己を貫くこと、このようなことを人は誇りとして生きている。これらの力は人がみな切に求めるものであり、それを持つ人を世は称賛する。人はその力を失うことを恐れ、その誇りを傷つけられて怒り、さらに大きな力を持つ他者をねたみ、力と力、強さと強さがぶっつかりあう世に生きている。
 けれども人生にはこのような力を失う時がある。病気になって体力を失い、事業に失敗して資力を失い、定年になって地位と権力を失い、老年になって知力や気力まで失う人もある。ひたすら力を追い求め、強さを誇りにしてきた人は、このような力を失った弱さに直面すると、どうしてよいか分からず、ただ悲嘆にくれ絶望するだけである。そのような弱さに陥らないように、人はあらゆる努力をするのであるが、いつかは何らかの形で弱さに直面することは避けられない。いずれ死がすべての力を奪うのである。これを避けることができる人はいない。
 ところが、ここに自分の弱さを誇る人がいる。弱さを誇ることができるのであれば、人生にはもう何も恐れるものはない。弱ささえ誇ることができるのは、強さの極致ではなかろうか。弱さを誇るというような強さは、どこから出てくるのであろうか。それは自分が持っている力から出てくるのでないことは確かである。それは自分の中に宿るキリストの力から来るのである。キリストを信じる者は、自分の弱さを誇る。
 キリストを信じる者とは、一切の自分の価値とか力を投げ捨てて、ひたすらキリストの慈愛と力に一身をゆだね、キリストに結ばれてキリストの力によって生きている者である。そうは言っても、自己主張を本性とする人間として、自分の力がある限り、自分の強さを誇りとする傾向は避けられない。そして自分の力を拠り所とし、自分の強さを誇りとしている分だけ、キリストの力は自分の身に現れることはできないのである。その自分の力が失われ、現実に弱さの中に身を置いた時はじめて、自分の力でなくキリストの力によって生かされているという事実が現れてくる。だから弱さを誇ることができるのである。
 キリストとは死から復活された方である。キリストの力とは、最終的には死者を復活させる力である。死者を復活させる力は、キリストの外にはどこにもない。この力が自分の身に宿り、死からの復活を現実の希望として生きることができるように、自分が弱さの中にいることを、むしろ喜んで誇るのである。その弱さの極致、もはや死だけしか残らないような場面で、キリストの力、すなわち復活の力は最も現実的な力となる。このような弱さをも誇ることができる人生に、キリストはすべての人を招いておられる。

                              (一九八九年六号)