市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第21講

21 見ないで信じる者

イエスはトマスに言われた、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」。

(ヨハネ福音書 二〇章二九節 新共同訳)


 復活されたイエスが弟子たちに現れた時、トマスはそこに居合わせなかった。それで他の弟子たちが「わたしたちは主を見た」と言った時、トマスは彼らの証言を信じないで、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言っている。
 現代の世界もキリスト復活の証言に対してトマスと同じ態度をとっている。現代の精神は科学的実証主義に立っている。人間の五感によって確証されないことは決して認めようとはしない。しかしこの科学主義は人間には信じうるという霊の能力があることを見落としている。そして信じることのほうが、五感で確証できることよりも人間にとってより重要で幸いなことが多い。
 復活されたイエスはトマスに現われ、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言い、さらに見て信じたトマスに「見ないのに信じる人は、幸いである」と言われた。「見る」ことは自分の外の対象に依存しているが、信じる者はもはや外の対象に依存することなく、自分の内に対象との関わりを保持している。
 復活されたイエスはしばらくの間弟子たちに見られたが、天に挙げられて見えなくなった。今や弟子たちの証言だけがある。そして、神はこのキリスト復活の証言(福音)を信じる者を救うことにされたのである。いま信じる者は約束の聖霊を受けて、自分の内に復活者キリストの証を持つ。見ないで信じる者は、十字架を通して賜る聖霊により、自分の内に復活者キリストを霊において見る。「世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る」(ヨハネ一四・一九)と言われているとおりである。
 世界はキリストの復活を信ぜず、死人を復活させる神を信じようとしない。この巨大な不信仰の氷塊を溶かすには、まずキリストの民の中に火が熱く燃えていなければならない。聖霊により復活者キリストを見る喜び、死者の中から復活するという希望、この火が激しく燃えていなければならない。現代の教会はどうであろうか。

                              (一九八八年 アレーテイア 二一号)