市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第19講

19 魂の転換

しかし主よ、あなたはとこしえにみくらに座し、そのみ名はよろず代におよびます。

(詩編 一〇二編一二節)


 詩編一〇二編を読み進んでいくと、この一二節で作者の魂の光景が一変してしているのに気づく。この言葉の前(一〜一一節)では、詩人の魂は苦悩の中からひたすら主に助けを呼び求めている。「わたしの日は煙のように消え、わたしの骨は炉のように燃え、わたしの心は草のように撃たれ・・・・」と、魂の苦悩の姿が、詩人が知っている象徴的表現を総動員して注ぎ出されている。病気か、突然の災難か、無実の罪で訴えられているのか、友の裏切りか、自分の罪の醜さか、その苦悩の原因が何であるのかは述べられていない。その原因が何であれ、その苦悩は「あなたはわたしをもたげて投げ捨てられました」という、神から見捨てられた魂の暗闇と絶望にまで達している。これはヨブの嘆きに通じる。また、「哀歌」の嘆きの表現にも通じるものがあるので、バビロンに捕らえ移されたイスラエルの嘆きとしても理解できる。
 ところが一二節を転換点として、その後(一二〜二二節)では詩人の魂は希望に満ちている。現実には苦悩と絶望の中にありながら、主が立ち上がって自分を解き放ってくださる時がすでに来ているように歌っている。シオンの再建が希望の内容になっているので、この詩編は捕囚のイスラエルの嘆きと希望を歌ったものと理解するのが自然であるが、苦悩から希望への転換という魂のドラマは、民族の場合も個人の場合も同じである。この詩人の魂の眼は、「しかし主よ、あなたは・・・・」の一言で、自分の苦悩の現実から離れて、主がとこしえに支配しておられる事実に向かう。人間の側の現実がいかに絶望的であろうと、「それでもなお」主がみくらに座してすべてを支配しておられることが事実であり、そのみ名が、すなわち真実とか慈愛とか創造者としての力というような主の御本質が変わることなく万事に及んでいる以上は、この苦悩の現実を超えて主の救いの業が実現する時のことが見えてくる。魂の姿は一転する。
 魂が悲哀、苦悩、絶望というような状態に陥るとき、どのような人間の言葉もそれを慰めたり、希望を与えたりすることができなくなる場合がある。信仰者の魂も同じように、苦悩や絶望に陥ることがある。ただ、信仰者は魂を転換させることができる場を知っている。彼は自分の苦悩の現実にではなく、キリストにおいて神がその慈愛と真実を現わし、罪の支配を克服する義を、死の支配を突き破る生命を顕して、御自身の支配を確立しておられる事実に目を向ける。キリストの十字架において、主が自分の悲哀と苦悩と、そして罪までも負ってくださっている事実を見る。キリストの復活において、死という絶望の中にいる自分にも与えられている復活の約束を聞く。このキリストに苦悩する魂をそのまま委ねていく時、魂の光景は一変する。苦悩の中に平安が、絶望の中に希望が生まれ、神からの慰めが魂を包み込む。まことに、「わが魂よ、主をほめよ」である。

                              (一九八八年六号)