市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第9講

9 若返って鷲のように

 こうしてあなたは若返って、わしのように新たになる。

(詩編 一〇三編五節)


 青年は未来を持ち、老人は過去を持つ。肉体の年齢にかかわらず、未来に生きる者は青年であり、もはや過去しか持たない者は老人である。誰もが高齢になっても若さを保持したい、若返りたいと願う。しかし、歳月は遠慮会釈なく未来を奪い、すべての人をもはや過去しか持たない老人に変えていく。仕事を生き甲斐にしてきた男は、定年で職場を去るとき未来を失う。容姿を頼りにしてきた女は、隠しようのない容姿の衰えにもはや未来が無いことを悟る。歳とともに病も多く、人の役に立つことよりも世話になることが多くなり、確実に近づく死の前にこれからの存在が無意味に感じられる。
 このような老年の現実の中で、どうすれば若返り、若さを保持することができようか。どうすれば老人が未来を持つことができるのであろうか。いくら健康に留意して趣味やその他の生き甲斐を求めて努力しても、進んでいく年齢は仮借なくこの世に属するものを奪っていく。もはや地上のものに未来を期待することはできない。未来はただ神の中にのみある。聖書にこのように書かれている。
   「年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れ果てて倒れる。
   しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、
   わしのように翼をはって、のぼることができる。
   走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない」。 (イザヤ書 四〇章三〇〜三一節)
 老人だけではない。青年も壮年も、未来を切り開く努力に疲れ果て、途方にくれて倒れることがある。人間が地上に未来を築こうとするかぎり、どこかで行き詰まる。老年でそれが露呈するだけである。人間の限りなき未来はただ神の中にだけある。「とこしえの神、地の果の創造者」だけが未来を与える方である。
 祈りによって自己をこの神に委ねる者は、地上の姿がどうであろうと関係なく、いつも上より新しい力を与えられて、その魂は鷲のように翼をはって天界に飛翔する。彼の未来はもはや地上にはない。彼は青年の時も、壮年の時も、そして老年の時も変わることなく、神をおのが未来として生きる。だから、地上の現実がどのように破れ果て、悲惨であっても、落胆したり、絶望したりしない。
 キリストにある者は、神が「地の果の創造者」であるだけでなく、「死人を復活させる神」であることを知っている。イエス・キリストを死人の中から復活させた神を信じる者は、神がキリストに属する者を復活させることを信じている。彼は青年の時も、壮年の時も、そして老年の時も変わることなく、ひたすら後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、死人の中からの復活にあずかるという目標を目指して走る。彼はいつも未来に生きている。それが彼の若さである。信仰者も髪は白くなり、顔には皺が刻まれ、体力は衰えていく。しかし彼は落胆しない。「たとい外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく」ことを知っているからである。

                              (一九八七年五号)