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第四節 「働きとしての神」の神学への補遺

神について語る

この終章では「働きとしての神」の働きの主要な三つの局面について、「第一節 万物を存在させる働きとしての神」、「第二節 救済の働きとしての神」、「第三節 人の内に働く神」の三つの節で語ってきました。このような形で「働きとしての神」について語る「働きとしての神の神学」の大要を語ったことになります。ここで「神学」《テオロギア》というのは、広く神《テオス》について人間が語ること《ロギア》を指しています。最後に本節で、所感を述べる程度になるでしょうが、この神学について考えている二、三の点について、補っておきたいと思います。
この「働きとしての神」の神学は、新約聖書のパウロの言葉、「福音はすべて信じる者を救いに至らせる神の力である」という言葉に基づく神学《テオ・ロギア》です。パウロは「神の力《デュナミス》」という語で語っています。力は何かに変化をもたらします。位置や速度や形を変化させます。力は働きにおいて現れ、働きは力を前提としています。パウロの言葉は、「福音はすべて信じる者を救いに至らせる神の働きである」と言ってもよいでしょう。

新約聖書には《デュナミス》とほぼ同じ意味で《エネルゲイア》という語も用いられています(この語はパウロだけに出てきます)。新約聖書神学辞典(英訳版)では、《デュナミス》は power, might、《エネルゲイア》は working, power, effective action と説明されています。パウロはこの二つの語をほぼ同じ意味で用いています。たとえば、フィリピ書三章二一節で「救いに至らせる神の力」が語られていますが、そこでの「力」の原語は《エネルゲイア》です。わたしは聖書を読み始めた頃、「神学は力学の一種だ」ということを痛感し、初期の著作にもそのことを書きました(拙著『マルコ福音書講解U』三七三頁)。今、新約聖書の講解を一通り終え(『福音の史的展開』二巻)、また、その新約聖書が証言する福音の場で、人が神を信じるということ、それが宗教とか信仰と呼ばれる人間の営みですが、それが何を意味するのか、その宗教とはどのようなものであるのかを追求した本書『福音と宗教』の最後になる本節で、そのまとめをおくことになります。もちろん、自然科学の物理学の中の力学のように、力のすべての質と量を正確に記述することはできません。前節の最後で述べたように、わたしたち人間は神の力、神の働きのすべてを究めることはできず、その前にひれ伏すほかはないのですから、自分が体験して考えたごく僅かの部分に思いを潜め、それを掘り下げて語るほかはありません。

これは福音の場で神の働きを語る神学ですから、「福音主義神学」というべきかもしれませんが、この語は本書の立場の表現としては使用を避けます。それはこの語がすでにキリスト教神学の一つの立場として慣用的に用いられているので、それとの混同を避けたいからです。一般の神学界では、「福音主義神学」というのはキリスト教神学の中でカトリック教会の神学に対抗するプロテスタント諸教会の神学を指しています。そして両方ともキリスト教という宗教の枠内での神学です。カトリック神学もプロテスタントの福音主義神学も、そして東方キリスト教のオーソドックス神学も含めて、すべて欧米諸国の体制宗教であるキリスト教の枠内の神学です。それに対してここで述べている神学は、キリスト教という宗教が成立する前に成立して告知されていたキリストの福音だけを信じる者の立場で、神を信じるということの内容と意味を語る神学です。キリストの福音とキリスト教という宗教の区別の上に立って、そのキリストの福音を信じる場で、神を信じることを語る神学です。ですから、キリスト教という宗教の枠内で神学しているプロテスタントの福音主義神学とは混同すべきではありません。
では、福音主義神学と呼ばないのであれば、どう呼んだらよいのでしょうか。適切な呼称が思い浮かびませんので、差し当たっては「働きとしての神の神学」と呼んでおきましょう。この神学は学としての体裁を整えていませんが、福音を信じて働きとしての神に自分を委ねて生きる一人の人間が、その福音の場で神を語る語り(ロギア)として聞いていただければ十分です。

最近、八木誠一『「はたらく神の」の神学』(二〇一二年、岩波書店)という題名の神学書が出版されています。この書は「神のはたらき」が人間の世界で現実化する構造を述べることを目的としています(同書のはしがき)。神の「はたらき」を主題とするこの著作からは示唆を受け、学ぶべきことは多くあります。とくに著者は『仏教とキリスト教の接点』(法蔵館)などの著作もあり、仏教の立場からキリスト教を見る見方に詳しく、啓発されるところが多くあります。とくに場とか統合という概念は、神を働きとして理解する神学にとって重要です。仏教的な立場を統合しようとする著者の立場からすると、神を存在としているのではないでしょうが、「はたらく神」とか「神のはたらき」という表現は、神と呼ぶ存在がまずあって、その神が主体としてはたらくという印象を避けることができません。すなわち、神を存在とか実体として思考する欧米のキリスト教神学の枠の中の神学であるという印象を与えています。「働きとしての神」を語るわたしも、この終章の中で「神の働き」という表現をしばしば用いていますが、それは正確には「働きとしての神の働き」、「神と呼ばれている働きそのもの」、すなわち人智を超えた根底的な働きの全体であって、その働き方を指しています。

唯一の神

人を救いに至らせる神の働きは一つではありません。その働きは実に多様で、無数にあり、多岐にわたります。わたしたちはその働きのすべてを究めることはできません。それにもかかわらず、わたしたちは「神は唯一である」と信じています。働きとしての神は、どういう意味で唯一なのでしょうか。端的に言うと、働きとしての神の唯一性は、単一ではなく統一であると言えるでしょう。ただ一つの働きではなく、無数の多くの働きが統合された「一」です。その一つに多数を含んでいる一です。
その多数の働きが一つに統合される際の統合のされ方も、わたしたち人間の理解や思いを超えています。その統合には、反対のもの、相矛盾する二つが一つの中にあるという統合の仕方もあります。たとえば、インドのシバ神は創造の神であり破壊の神でもあります。創造する働きと破壊する働きという相反する働きが一体の神の中にあるのです。このように古代人は、相反するものが一つに統合される「統一」があることを知っていました。ギリシア人は、人間の思考法において、相矛盾するものを一つに統合することを「弁証法」と名付けて、議論に用いていました。
わたしは、神の唯一性とは単一ではなく統一であると理解しています。すなわち、働きとしての神の働きは実に多様であり 、数え切れないほど多くあります。その中には相矛盾するものがあり、 人間はその一面を知って、反対の一面を知りません。わたしたちが知らない神の働きの面を、預言者は「隠された神」と呼びました(イザヤ四五・一五、四八・六)。こうして、働きとしての神には自分が知らない働きが多くあることを理解しておれば、その様々な特定の働きとその現れを神とする多神論的な宗教も、ホモ・サピエンスの営みとして理解して包摂することができるでしょう。
この働きにおける神の統一は、人格的統一の象徴で理解されました。働きとしての神が、その働きの主体として人間に働きかける時は、客体である人間に「わたしはあなたを」とか「わたしはあなたに」という語りかけで働きます。宗教も神学も人間の営みですから、人間が自分に働きかける根源的な働きを人格的な用語で語るのは当然です。同じ一人の人間が多彩で多様な働きをするように、唯一の神が、その働きを受ける人間の状況の多様さと、その状況に応じて、すなわち時宜に応じて働かれる働きの多様性となって現れます。このように、神を働きとして理解すると、その働きの多様性を統一として理解することが容易になります。
ところが神を存在として理解すると、その存在の本性《ウーシア》に反する働きを統合することはできなくなって、この世界に起こる矛盾する出来事を統合することが極めて難しくなります。ここで働きとしての神が一つの存在と理解されていく過程を瞥見しておきましょう。

働きから存在へ

イスラエルの民がバビロン捕囚という悲劇の中で到達した唯一神信仰は、ユダヤ教の基本信条となり、それがキリスト教とイスラム教に受け継がれて唯一神を告白する一神教宗教が世界に現れました。ユダヤ教はユダヤ人の民族宗教としての枠内にとどまりましたが、キリスト教とイスラム教は他の諸民族にも伝えられ、受容されて、世界宗教となりました。もともと聖書の神は、先に「ハーヤーする方」の項で述べたように(本書三六五頁参照)、働きとしての神です。ところが、その神のキリストにおける働きが諸国民の救済として宣べ伝えられて福音告知となり、その福音からキリスト教という新しい宗教がヘレニズム世界に成立した時、ギリシア文化の体質として、働きとしての神が存在として、究極の存在者として理解され、その存在の本質とか本性・実質《ウーシア》が問題にされるようになります。そのような神を究極の存在とする理解は、すでに紀元前二世紀にギリシア語に翻訳されていた「七十人訳ギリシア語聖書」で、「わたしは《ハーヤーする》者として《ハーヤー》する」というヘブライ語の表現が、「わたしは存在する者《ホ・オーン》である」と訳されていたことにも示されていました。このギリシア語聖書では、ヘブライ語聖書の「ハーヤーする神」、働きとしての神は、究極の存在者《ホ・オーン》となっているのです。
古代ローマ帝国の地中海世界において福音によって成立したキリスト教会は、この七十人訳ギリシア語聖書を正典として用いており、教会を代表する指導的な人たち(主教や教父たち)はギリシア文化と思想の教養をもった人たちですから、福音によるキリスト信仰がキリスト教という宗教になっていく過程で、そのキリスト教の形成にギリシア思想が強く影響することになったのは当然です。いわゆるキリスト信仰の「ギリシア化」(hellenization)が起こります。ギリシア思想は万物存在の根底となる究極の存在を追求し、その究極の存在と諸存在との関わり方を考察して論じるという「存在論」が中核となります。そのようなギリシア思想の民に与えられた聖書が、神は存在する者《ホ・オーン》であるとしたのですから、究極の存在である神の本性とか実質《ウーシア》が何であるかが問われ、主要な問題となります。
  この《ウーシア》というギリシア語は、「ある」という動詞(be とか sein に相当)の分詞形で、存在とか実体という意味ですが、新約聖書ではほとんど用いられていません。ルカ(一五・一二)が財産という意味で用いているぐらいです。ところが、キリスト教という宗教の形成過程で、教義の一致を求めて主教たちの会議(公会議)が開かれ、そこで神と等しいとされるキリストへの信仰を確立するために、神とキリストの実体とか本性《ウーシア》が問題となります。とくに一人の人であるイエス・キリストの中に神としての《ウーシア》と人としての《ウーシア》が同時に存在することが大問題となります。そして、人間の内に住んで働かれる聖霊を加えて、神、キリスト、聖霊の三者の《ウーシア》の関係が数百年にわたって公会議で議論され、ついに皇帝の決裁によって決定されます。その公会議の内容と経過については、本書二四頁以下の「コンスタンティヌス体制下のキリスト教」の項を見ていただくことにして、ここではキリスト教の教義はキリストの福音が、ギリシア思想の中で働きとしての神が存在として理解された結果であることを指摘するにとどめます。
 神を存在としてではなく働きとして理解すべきであると言うと、その働きには「わたしはあなたを何々する」という働きの主体、人間を働きの客体として働きかける統一した意志をもつ主体、すなわち人格的主体があるのではないかという反論が聞こえてきます。人格的主体は一つの存在であって、その存在の実質とか本性《ウーシア》が問われることになるのではないか、イエスが「父よ」と呼びかけた神は一人の人格的存在ではないのか、という反論です。たしかに神は人格的主体です。しかしその本性《ウーシア》は人間が知ることができないのですから、その主体は存在とはいえない、あるいは通常の存在という範疇には含まれない主体ということなります。ティリッヒがすべての存在を存在させている根底的な働きを「神を超える神」(God over God)と言ったとき、このような働きとしての神を指していたのではないでしょうか。諸宗教の神を超えて、存在する神々を存在させている根底の働きを指していたと考えられます。

キリスト教会における三位一体の教義

わたしはこの終章で「働きとしての神」を語る神学をまとめるのに、その主要な働きの面を三つにまとめて「第一節 万物を存在させる働きとしての神」、「第二節 救済の働きとしての神」、「第三節 人の内に働く神」、すなわち創造者としての神、救済者キリストとしての神、聖霊としての神の三つにまとめて語りました。キリストにある者として聖霊によって体験する働きとしての神は、このように語ることがもっとも自然な語り方になるのではないかと思います。新約聖書、とくに使徒パウロの語り方はこのようになっているのではないかと思います。二世紀に形成されたとされる使徒信条も、キリスト者の信じる神のこの三つの働きを三つの項目にまとめて言い表しています。
ところが、この働きである神を究極の存在として理解したギリシア人が形成したキリスト教という宗教においては、この働きの三つの面が実体化されて、それぞれの働きの間の関係が、三つの本質・実体《ウーシア》の関係の問題とされ、困難な問題を引き起こしました。ユダヤ教の継承者としてのキリスト教は、神の唯一なることを掲げています。キリストとしてのイエスも使徒たちも皆ユダヤ人ですから、神の唯一なることを当然として宣べ伝えています。その唯一の神が三つの実体を含むとはどういうことを意味するのか、それを表現するにはどう語ればよいのか、キリストを信じる者たちの間に、それぞれ違った考え方や表現の仕方が生じ、激しい論争が起こります。
キリストを信じる者たちの共同体がそれぞれ独立して歩んでいた間は論争で済んでいましたが、その共同体の信仰が祭儀と教義をもち、それを有効に執行する聖職者制度をもつキリスト教という制度的宗教となり、そのキリスト教がローマ帝国の国教となるにともなって状況が変わります。ある特定の宗教が一つの人間共同体の統合の手段とか基礎となっている場合、その宗教を「体制宗教」と言うことができるでしょう。ローマ帝国は一つの古代都市として、ローマという古代都市の統合の土台として宗教祭儀を行っていました。そのローマが多くの民族を支配する帝国を築いた時、ローマ統合の象徴であるローマの国家祭儀に参加する限り、諸民族の宗教を認めてきました。その中でユダヤ人(ユダヤ教徒)とキリスト教徒は、その唯一神信仰のゆえにローマの国家祭儀に参加しなかったので、ローマ市民の憎悪を受けることになります。政治的な理由でユダヤ教徒はローマ国家祭儀や兵役を免除されて合法宗教とされていましたが、ユダヤ教から分かれたキリスト教徒はローマの国家祭儀を拒否する者としてローマ帝国から迫害されることになります。しかし四世紀にキリスト教徒の強固な結束を帝国統合の基礎としようとしたローマ帝国によって帝国の国教とされるにいたって、状況は激変します。
キリスト教は巨大な帝国の体制宗教となりました。キリスト信仰の確かさとは関係なく、帝国の市民はみな洗礼を受けてキリスト教会に所属する者となりました。全国の教会の管理は、ローマ帝国の行政区に従って行われました。このような体制を、キリスト教史を扱った本書の第四章では、キリスト教を自分の支配の確立に取り込んだコンスタンティヌス大帝の名によって「コンスタンティヌス体制」と呼びました。この体制ではキリスト教会の一致は帝国統合の重要課題です。帝国の支配者である皇帝は、帝国統合の基礎であるキリスト教会の統合を重視することになります。皇帝はキリスト教会が意見の違いによって分裂することのないように、教会の指導者(主教)たちを集めて会議を開き、教義の一致を図ります。これが「公会議」です。公会議は皇帝が招集し、その結論を皇帝が裁可して決定し、勅令として公布する会議です。そして、この公会議で決められた教義が「正統」とされ、それと違う意見は「異端」とされます。異端は教会の一致を損ない、帝国の統合を脅かすものとして、権力者から迫害される立場になります。
その公会議の主要な問題は、唯一の神を信じる信仰の中でキリストをどう信じるかの問題です。働きとしての神性を存在として思考するギリシア人は、キリストも存在として理解したので、その《ウーシア》を問題として、キリストも神の実質《ウーシア》をもつ方と信じられました。そうすると万物を存在させている根底の働きとしての神、イエスが父と呼ばれた神と、神としての実質《ウーシア》をもつキリストとはどういう関係になるのかについて、異なる意見が争うことになります。一方の代表者アリウスは、キリストは万物の創造者である父なる神から生まれたのであるから、キリストは父なる神に従属するという立場を主張しました。それに対してアレキサンドリアの主教のアタナシオスが反対し、キリストは父なる神と《ウーシア》を等しくすると主張しました。この論争に決着をつけるために、三二五年にコンスタンティヌス帝によってニカイアに招集された最初の公会議(主教たちの会議)は、アリウスの主張を退け、父なる神とキリストは同等の《ウーシア》をもつ、すなわち《ホモウーシオス》(ホモは同じの意)であると規定しました。
そうすると今度は、イエスはキリストであるのだから、人間であるイエスが神であるキリストであるとすると、同じイエス・キリストに神と人間の二つの本性《ウーシア》が存在することになります。神と人間はその本性《ウーシア》は異なるのであるから、イエス・キリストにその相容れない二つの《ウーシア》があるということについて激しい論争が起こり、それが長年にわたって続きます。その混乱はアタナシオスが《ウーシア》(本質)と《ヒュポスタシス》(実体)を同一視したことにあるとして、バシレイオスらのカッパドキア三教父が父・子・聖霊は三つの《ヒュポスタシス》であり、一つの《ウーシア》(神性)を共有すると唱えて解決を図ります。これらの論争に決着をつけるために、四五一年にカルケドンに招集された公会議は、キリストには神性と人性という二つの性《フュシス》が「混合することなく、変化することなく、分割することなく、分離することなく」存在すると決議します。これらのニカイア公会議からカルケドン公会議までの数次にわたる公会議の決定に従う教義が正統とされ、その決定に従わないで違った教義をもつ教会や思想が異端とされ、皇帝の決定に背く者として追放されたりします。こうしてイエス・キリストは父なる神と同本質の本性を有する子なる神であり、人間の内に働く神である聖霊も同本質の本性を有する神と言い表され、ここに唯一の神に父と子と聖霊という、それぞれの《ヒュポスタシス》をもつ三つの位格(ギリシア語のヒュポスタシスはラテン語ではペルソナになります)があることになります。この三つの位格(ペルソナ)を有する一体の神を、キリスト教正統派の神学は「三位一体」(Trinity)と呼ぶことになります。

神は三位一体か?

本書は神を働きとして、その働きの主要な三つの面を、この終章の三つの節で、創造、救済、内住として語ってきました。しかし神の働きは実に多種多様であって、この三つに限ることはできません。人間は神の働きのすべてを究めることはできません。ここであげた三つの面も、あくまで働きとしての神の働きの主要な局面をまとめただけで、決してこれがすべてであると言っているのではありません。「福音はすべて信じる者を救いにいたらせる神の力(働き)である」として、すなわち福音を神の力として宣べ伝えた使徒パウロは、その神の力が信じる者の内に働く働き方を、そして世界に対して働く働き方を、その書簡の中でかなり詳しく述べています。
まず神という根源的な働きは、天と地にあるすべての存在を存在させている働きであること、これはすでにイスラエルの民がその長い歴史を通して到達していた創造信仰の表現であり、パウロは当然のこととして前提しています。たとえば、「見えない神の事柄、すなわち神の永遠の力(働き)と神性は、世界の創造以来、被造物によって理解され、神は明らかに認識される」と述べています(ローマ一・二〇)。さらに、キリストにおける人間救済のための神の働きについては、「キリストの御顔に輝く神の栄光」という表現で、キリストにおける神としての栄光に満ちた働き、十字架された復活者キリストという場に現された神の働きを指し示しています(コリントU 四・六)。ここで用いられている「キリストの顔」の原語はキリストの《プロソーポン》です。《プロソーポン》という語は顔とか面という意味の語ですが、役者がつける面を指す場合も多くあります。その場合、動作をするのは役者ですが、面が彼の役割を指し示しています。キリストにおいて働いておられるのは神です。神はキリストにおいて背く者を無条件で受け入れるという恩恵の働きをしておられるのです。そして神はキリストにある者にご自身の霊、聖霊を与えて、人間の内に働いてくださいます。この聖霊の働きについてパウロはその書簡で詳しく語っています。聖霊はキリスト者の内に働く神なのです(フィリピ二・一三)。この終章の第三節で述べましたが、その働きはとうてい語り尽くすことはできません。
神の働きは誠に多様多彩です。人間の目には矛盾するように見える面もあります。結局はパウロと共に、神の働きは究め尽くすことはできないと、ひれ伏す以外はありません。そのように神の力、神の働きを語るパウロの書簡の言葉がパウロの神学ということになります。総じて新約聖書は福音の証言として、キリストにおいて現れた神の働きを指し示しています。使徒たちが福音を宣べ伝えることによって神の働きを語った時、まだキリスト教という宗教はありませんでした。従って新約聖書は神を三位一体の神として語っていません。ここで見たように、三位一体という教義はあくまで、二世紀から五世紀にかけてのギリシア人が、神を存在として語った語り方によって成立したキリスト教会の教理です。ギリシア人以外の文化圏の民が、違った語り方をしたとしても、福音を信じて「キリストにある」ことは十分可能です。
わたしはここで三位一体の教理を否定しているのではありません。この終章でしているように、働きとしての神を、万物を存在させる根底の働き、人間を救済する働き、人間に内在する働きという三つの主要な働きにまとめるのは、ごく自然なまとめ方であり、新約聖書の福音証言にかなっていると思います。しかし、そのそれぞれの働きを実体化して、それぞれの《ウーシア》の関係を議論することは、公会議の歴史が示しているように、建設的なことではありません。実例を一つあげると、公会議で異端とされたネストリウス派が中国にまで福音を伝えた時、その記念碑である「大秦景教流行中国碑」が証言しているように、実に立派な福音信仰を伝えているのです(本書四二頁以下の「キリスト教の東漸 ー ネストリウス派を中心に」の項を参照)。わたしたちキリスト者は、それぞれの長年の歴史の中で形成してきた文化圏の中で福音を受け入れ、それにふさわしい形でキリストを告白するのが建設的であると考えます。必ずしも地中海世界のギリシア語文明が形成したキリスト教という一つの歴史的宗教の形に拘束される必要はありません。
福音は全世界に宣べ伝えられなければならず、どの文化圏の民も福音によって働きとしての神の語りかけと働きを受けて、キリストにおける救済と完成に向かわなければなりません。それぞれの文化がキリストを受け入れる時、キリストにおける神の働きはその文化をも変容していくことになります。こうして、働きとしての神を語る神学において、信仰と文化の関係が重要な主題となってきます。文化の神学が大きな課題となりますが、その前提として既成の各宗教が相対化される必要があります。キリスト教文化圏においては、キリスト教の絶対性が克服されて、キリスト教も相対的な一つの宗教であることが自覚されなけれななりません。その努力が近代のキリスト教会で進められてきたことを、本書第五章の「宗教の神学」で概観しました。本書も、新約聖書の福音証言の探求の成果の上に、キリスト教の相対性を論究しました(拙著『福音の史的展開』、とくにその終章「キリストの福音からキリスト教へ」を参照)。
ところがこれまでのキリスト教会が進めてきた「宣教」は、キリスト教への改宗、すなわちキリスト教以外の異教からキリスト教に改宗させる働きとなっていました。その改宗の表現が洗礼を施すことです。これはキリスト教を絶対的・普遍的宗教としていたキリスト教神学に基づく活動であったからです。それは、キリスト教をキリスト教として形成してきた神の働きそのものである福音と、キリスト教という歴史的宗教を区別せず、同一視してきた結果です。確かにキリストの福音はキリスト教会によって保持されて伝えられました。キリストの福音はキリスト教と別ではありません。しかし区別される必要はあります。福音の告知はキリスト教への改宗と同一視されてはなりません。福音は全世界の違った文化圏に根付かなければなりません。そのとき福音は、欧米のキリスト教文化圏とは違った形をとるかもしれませんが、それはこれからの問題です。その問題は次の世代に委ねることになります。福音の場に生きるキリスト者は、キリスト教という歴史的宗教を相対化することで、福音をキリスト教という宗教から区別して、キリスト教ではなく福音を世界の諸文化圏に告知しなければなりません。
わたしも一人の日本人キリスト者として、東アジア仏教圏(後述)の一角を占める日本という特異な文化圏における福音の進展を論及しなければなりませんが、その主題は時が与えられるならば附論として、その示唆的な概観だけでもしたいと願っています。その附論は「福音と仏教」ということになるでしょう。しかし、本論では福音と文化の関係の一般論に触れるだけにとどめることになります。

福音と宗教文化

ここで文化とは何かを論じることはできませんが、一つの人間の共同体が営む、人間の営為の全体であると言うことができるでしょう(本書第五章第六節のニーバーについての節で、二四三頁の「文化の問題」および 二五二頁の「付記」を参照)。文化は人間が人間としての生の諸価値の実現のために他者と自然に働きかける働きの総体です。言語は人間としての働きの基礎です。言語によって成り立つ知識、学問、科学、技術の総体、家族や国家や法律など社会の仕組み、文学、音楽、絵画などの芸術、それらの諸価値の保持と伝達のための教育、それらのすべてが文化です。その中でホモ・レリギオーススとしての人間が営む宗教的営みは、人間の営みとして文化の一つでありながら、他の分野の文化とは異なり、一つの共同体を統合する働きとして特異な立場を占めます。そのことは本書の第一章「宗教とは何か」で述べたところですが、宗教は人間の共同体を統合する土台となっています。この場合の宗教とは、人間を超えた超自然の働きに対する人間の応答行為の歴史的な形態、その人間と自然を超える力とか働きとの関わりを維持するための人間の営み、すなわち祭儀と神話と象徴による表現などによる応答行為の全体です。本書でいう「諸宗教」のことです。その宗教が一つの人間の共同体を統合する基礎になっています。それで仏教という宗教で統合された社会は仏教文化を形成し、キリスト教を体制宗教とする諸国はキリスト教文化の国と呼ばれます。世界はその宗教分布によって、ヒンドゥー教文化圏、仏教文化圏、キリスト教文化圏、イスラム教文化圏などに大別されることになります。
歴史の中に現れた諸宗教は人間の文化的な営みの一つです。原始的な部族社会の人たちが営むトーテム宗教から、各民族の民族宗教、さらに高度に発達した教理をもつ仏教やキリスト教・イスラム教などの世界宗教まで、人間共同体の歴史に現れた諸宗教はみな文化です。その人間の営みとしての文化は、その営みの分野によって、言語文化、学術文化、技術文化、教育文化、芸術文化、宗教文化などに分けられますが、その中で宗教文化は人間の共同体の統合の基礎になる文化として独特の位置にあります。この独特の位置は、それぞれの文化的な営みがなされる人間の働きの座によって説明することができるでしょう。
人間の身体は他の動物、とくに高度に進化した動物とあまり変わりません。人間と犬のDNAはほとんど同じで、ごく僅かのところで違っているだけです。しかし人間が他の動物と決定的に違っているのは、言語を使うことができるということです。言語によって人間は自分が経験したことを理解して意義づけ、それを表現して他の人間に伝えることができます。この能力をもつ人間集団、「ホモ・サピエンス」と呼ばれる人間集団は、身体的には変わらない他の人間集団(ネアンデルタール人など)を圧倒して生き残り、他の生物を支配して、この地球上の生物体系の頂点に立つにいたりました。

ホモ・サピエンスと呼ばれる現人類の存在と意義、およびその人類が形成した文明の全歴史を概観した『サピエンス全史 ー 文明の構造と人類の幸福』(二〇一六年、河出書房新社)という興味深い書がごく最近出ました。著者はオクスフォード大学出身のヘブライ大学の歴史学教授のユヴァル・ノア・ハラリという一九七六年生まれのイスラエル人です。ホモ・サピエンスが他の種の人類を押しのけて現在のような生物体系の頂点に立つに至った理由を、著者はこの種だけが見えない世界のことを語り伝えて、それを信じる多くの人の共同体を作ることができたからだとしています。ご一読を勧めして紹介しておきます。

人間(ホモ・サピエンス)には、言語によって理解し伝達する能力である知性だけではなく、外界の自然界の事物から何かを直感的に感じ取って応答する感性があり、さらに人間の通常の理解を超えた超自然的な働きや現象に応答する霊性があります。これらの知性とか感性とか霊性によって人間は外からの働きかけに応答しつつ、他の人間や自然界に働きかけています。この人間が人間の営みとして働きかける営みの総体が文化となるわけです。その営みは知性をもってなされますが、その中で感性から出るものが芸術となり、霊性から出るものが宗教となります。言語は民族ごとに違いますから、直接的にせよ間接的にせよ言語によって表現される文化は、民族ごとに異なり、ペルシャ文化、ヘブライ(ユダヤ)文化、ギリシア文化、インド文化、漢文化、日本文化など、多様な文化が成立することになります。
本書の主題である宗教について取り上げると、宗教も人間の文化の一つの分野として、民族ごとに異なる多様な文化の中で、多様な現れ方をしています。しかし歴史的に形成された諸宗教は、それが民族ごとであれ、複数の民族に受け入れられた宗教であれ、すべて人間の営みであることは変わりません。ところが宗教は一つの共同体の統合原理となるので、明確にか暗黙のうちにか、その共同体の成員に対して、無条件に従うべき絶対的な規範であると主張する傾向があります。宗教は自己を絶対化しがちです。この宗教の自己絶対化の本性が、人間の歴史に様々な波乱を引き起こすことになるのです。多様な宗教文化の積極的な意義を認めつつ、宗教の自己絶対化の主張を克服して諸宗教を相対化することで、宗教を文化における建設的な要素にすることが、本書の宗教相対主義の目標です。
諸宗教が多くの共同体の隔ての垣根になり争いの種にならないで、建設的な役割を果たすためには、それぞれの宗教が自己を相対化する必要があります。本書は、キリスト教を生み出した福音がキリスト教を相対化する力であることを論じてきましたが、他の宗教もその宗教の原動力になっている霊性の深みに到達することで、歴史的な形態を相対化しなければなりません。宗教間の建設的な対話は、各宗教の相対化の上に成り立ちます。諸宗教が自己を絶対化したままでは、他の宗教に対する改宗運動となるか、あるいは争いの種になり、力で相手を屈服させようとして戦争に至る場合も出てきます。宗教紛争は妥協を許さない原理的な争いになり、もっとも厄介な紛争になります。
福音は天地の万物を存在させている根底の働きが、人間の救済と完成のためにキリストにおいてなされた働きそのものですから、その働きによって存在している人間(被造物としての人間)の営みである文化とは次元が違います。福音は人間を救うための創造者の働きですから、その被造者である人間の営みを全面的に否定するのではなく、その宗教文化を包み込みながら、その働きを進めます。たとえば、仏教という宗教によって形成された仏教文化圏に告知される福音は、仏教が形成した仏教文化を頭から否定して、寺院や仏像や供犠など、そこで行われる礼拝行為の一切を拒否し、破壊するようなことはしません。明治維新の際、明治政府は天皇中心の統一国家体制を急ぐあまり、廃仏毀釈を行い仏教寺院や仏像を破壊しました。イスラム教のある原理主義者は、今は遺跡となった仏像まで爆破するという愚行を行っています。それらの行為はみな、諸宗教の一つが自己を絶対化して、他の宗教の絶滅を図って行う蛮行です。福音はどの宗教の民にもキリストへの帰依(キリスト信仰)を呼びかけますが、呼びかける民の文化を否定したりはしません。宗教文化をも含む文化を尊重します。
しかし、その福音の呼びかけに応じてキリストに帰依し、キリスト信仰に生きるようになったキリスト者は、自分を存在させ生かしている働きに身を委ねているのですから、もはや人の手が作った像やそれを祀る寺院や神社を必要としなくなります。偶像礼拝は、キリスト者の中では自ずから消滅します。自分自身が神の宮であり、そこに働く根源の働きに委ねている福音共同体には、形式的な宮や寺院、神像や仏像は必要ありません。神社や寺院建築、仏像などは、日本文化、仏教文化の歴史的表現として尊重されますが、キリスト者の霊性には関係がなくなります。キリスト者の霊性においては、人間の内に働く様々な超越者の働きが唯一の神の働きとして統一されています(フィリピ二・ 一三)。世界の歴史もキリストにおける救済の完成を目指すものとして統合されています(エフェソ一・八〜一〇)。このような人間の霊性における統合はすべて聖霊の働きです。パウロがその書簡で繰り返し「肉は殺し、霊は生かす」と言っているように、人間の本来の性質(パウロはそれを肉と呼ぶ)だけでは死に至るだけですが、働きとしての神から恩恵によって与えられる神の霊が、わたしたちの内にこのような統合を与えて、わたしたち人間を生かし、真の人格的統合を成し遂げます。
ティリッヒは「宗教は文化の意味内容であり、文化は宗教の表現形式である」と言っています。この場合の「宗教」は、本書でいう単数形の宗教、人間の奥底の霊性に起こる存在の根底との無制約的な関わりのことです(単数形の宗教については拙著『福音と宗教T』一〇三頁の「単数形の宗教と複数形の宗教」の項を参照)。そして、その宗教から生まれた諸表現である諸宗教(複数形の宗教)、すなわち様々な部族宗教、民族宗教、世界宗教はそれぞれの部族や民族、そして各宗教圏で多彩な文化を形成します。こうして宗教によって形成された諸文化は、それぞれの宗教によって形成された共同体において歴史となります。各部族宗教、各民族宗教、キリスト教、イスラム教、仏教などの世界宗教などはそれぞれの歴史を有し、人類の成長に寄与するとともに、その絶対化が隔ての垣根となって紛争を引き起こしています。各宗教(複数形の宗教)は、自己を相対化することで本来の位置に限界づけられて、お互いの間の対話を促進し、そこから宗教(複数形の宗教)を超える宗教(単数形の宗教)を追求していかねければなりません。宗教(複数形の宗教)は宗教(単数形の宗教)によって克服されなければなりません。現代において狭くなった地球はそれを要求しています。そのような世界にあってキリスト者は、福音を身をもって証言し告知する働きによって、キリスト教を含む諸宗教を相対化し、諸宗教を超える人間の霊性の完成と、そこから生まれる表現としての普遍的文化の形成に貢献する使命があると思います。

宗教と文化の関係について福音の場で思索することは、本書の第五章「宗教の神学」でキリスト教神学者の宗教に関する論述を紹介することで、その一端に触れました。しかし、欧米のキリスト教神学では、霊の現実であるキリスト信仰と諸宗教の一つであるキリスト教の信奉を十分区別できない用語の混乱から、その議論が明確でないという限界もありました。その中で、その章のニーバーとティリッヒを扱った節で、ドイツ神学の背景をもつ神学者が新しい文化環境の中で苦闘し思索したところから生まれた文化論をまとめておきました。わたしたちが福音と文化の関係を考える際の参考になると思います。