市川喜一著作集 > 第22巻 続・聖書百話 > 第88講

88 地はおのずから実を結ばせる

 「土はひとりで実を結ばせるのであり、まず茎、次ぎに穂、そしてその穂に豊かに実ができる。実が熟すと、早速鎌を入れる。収穫の時が来たからである」。

(マルコ福音書 四章二八〜二九節)


 イエスはたとえを用いて「神の国」のことを語られました。そのたとえにはガリラヤの農民が日常体験する「種」のたとえがよく用いられていますが、その中に「成長する種」のたとえがあります。イエスは「神の国はこのようなものである」と前置きし、「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない」と語り出し、その後に標題に掲げた言葉が続きます。「土」と訳されている語は、他では「地」と訳される語です。このたとえでイエスは、神の支配とは地から出る実である、と言っておられるのです。
 これは当時のユダヤ人が待ち望んでいた「神の支配」とは違います。当時のユダヤ教徒は、神の支配は天から現れると信じ、その時を待ち望んでいました。終わりの日に天から「人の子」が現れ、神に敵対する支配力を火で焼き滅ぼし、地の四方から神の民を集めて「神の国」を実現されると信じていました。このような黙示思想的な待望は、イエスも共有しておられたことが福音書に伝えられています(マルコ一三・二四〜二七)。しかしイエスは同時に、このたとえが指し示しているように、「神の支配」はすでに地に蒔かれている、すでに来ているのだと言っておられるのです。
 種から「まず茎、次ぎに穂、そしてその穂に豊かに実ができる」ように、地はおのずから実を結ばせます。どうしてそうなるのか人には理解できなくても、大地の生命力が実を結ばせ、収穫の時を来たらせるのです。黙示思想が天から現れる「人の子」の働きとしていたことを、イエスは地が結ばせる実の収穫の時としておられます。イエスはこのたとえで、ご自身の中にすでに聖霊によって到来している終末的な恩恵の支配(それが「神の支配」です)を指し示しておられるのです。それは今はからし種のように小さいが、やがて空の鳥が巣を作るほどの大きさになります。隠されているものであらわにならないものはありません。
 今キリストにあってわたしたちの内にも聖霊が働き、終末的現実が来ています。今は生まれながらの人間性の中に隠されていて、まだ双葉程度かもしれませんが、それは固有の生命力によって必ず実を結ぶに至り栄光の中に現れます。それがわたしたちの希望です。

                              (天旅 二〇一〇年2号)