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75 宗教は人のためにある

「安息日は人のためにある。人が安息日のためにあるのではない」。

(マルコ福音書 二章二七節)


 イエスが発せられたこの言葉は、宗教界に投じられた爆弾です。もしわたしたちがこの言葉の奥行きと広がりを理解するならば、それは人類の歴史に重くのしかかっている「宗教」の呪縛を破砕し、わたしたちを真に自由な人間とします。
 イエスはこの言葉を、ユダヤ教を代表するファリサイ派の律法学者たちに向かって発せられました。《トーラー》と呼ばれる律法は、彼らにとって神の命令として絶対です。人間はその命令に無条件に服従しなければなりません。そして、安息日律法は《トーラー》を代表する律法です。イエスはこの言葉によって、「《トーラー》は人のためにある。人が《トーラー》のためにあるのではない」と宣言しておられるのです。
 ユダヤ人にとって《トーラー》はユダヤ教という宗教そのものですから、イエスは「宗教は人のためにある。人が宗教のためにあるのではない」と言っておられることになります。宗教を何か超自然的な存在とか働きとの関わり、あるいは霊的存在としての人間の営みと広く理解するならば、そのような意味での宗教なしには人間は生きていけません。そのような意味での宗教は人類の歴史と共に古いものです。しかし、その宗教が祭儀と教義と倫理のシステムとなり、共同体の統合原理として絶対化されると、それは人間を外から拘束する枠となって、人間に服従と奉仕を強要します。「人が宗教のためにある」という状況になります。
 このような状況になっているユダヤ教の世界に、イエスは火を投じられました。イエスは、御霊による父との交わりの中で、いかなる状況の人間をも無条件で愛し救われる父の恩恵を告知されました。それが、《トーラー》を絶対化して、《トーラー》を基準として人間を裁き拘束する当時のユダヤ教という宗教と衝突したのです。宗教を絶対化することを宗教原理主義と呼ぶならば、イエスはこの原理主義と戦い、父の絶対恩恵の現実を根拠にして、ユダヤ教を相対化されたと言えます。
 現代の世界は、自分の宗教を絶対化する宗教原理主義に苦しんでいます。自分の宗教のためには人を殺してもよいという宗教原理主義は、まさに「人が宗教のためにある」という状況です。わたしたちは、御霊による自由の中でこの宗教原理主義を克服し、「宗教は人のためにある」を実現していく課題を負っています。

                              (天旅 二〇〇七年6号)