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74 キリスト教の外のキリスト信仰

 この山でもなく、エルサレムでもなく、霊と真理によって父を礼拝する時が来る。いや今がその時である。

(ヨハネ福音書 四章二一〜二三節 要旨


 イエスは神殿の外で父の恩恵の福音を告げ知らされました。神殿を支配している祭司たちの基準からすれば、到底神殿の祭儀に与り、清い者として神の祝福を受けることはできないとされた汚れた「罪人たち」に、そのままで父の無条件絶対の恩恵により、神の子とされて生きることができることを告げ知らされました。
 パウロは、ユダヤ教の外でキリストの救いを受けることができるという福音を、世界の諸民族に告げました。割礼を受けてユダヤ教徒となり、ユダヤ教の安息日や食事規定などの定めを守らなくても、キリストにあって神の民であることができると宣べ伝えました。
 その結果、ユダヤ教の外でキリストを信じた人たちの間に、ユダヤ教とは別の「宗教」としてキリスト教とキリスト教会が形成されるに至りました。そして、幾世紀を経てキリスト教が社会の唯一の宗教となるにともなって、キリスト教の外にキリスト信仰やキリストの救いがあるとは考えられなくなっていきました。
 ルターをはじめとする宗教改革者たちは、当時の唯一のキリスト教会であるカトリック教会の外に出て、信仰による救済を説きました。その結果、カトリック教会の外に諸教会・諸集会が成立し、キリスト信仰が教会の外の社会に浸透して、近代を形成しました。そしてついに、この国で内村鑑三がキリスト教会そのものの外でのキリスト信仰、すなわち「無教会主義キリスト教」を唱えるに至りました。
 今や世界は、諸文明や諸宗教が共存し対話しなれば存在できない時代に入っています。その中で、特定の組織体の教義と祭儀のシステムとしての「キリスト教」という宗教も、他の宗教と併存する相対的な宗教となっています。もしキリスト信仰が唯一の神が人類に遣わされた唯一の救済者への信仰であるならば、そのキリスト信仰はキリスト教の枠を超えて、キリスト教の外でも成り立つ信仰でなければなりません。
 わたしは、キリスト教の中で御霊によるキリスト信仰が燃え上がることを切に祈っています。しかし、キリスト教の外でもキリスト信仰がありうることを指し示すことが、現代の福音活動の一つの課題であると考えています。この視点から、サマリア教とユダヤ教という宗教の枠を超えた神礼拝を説く標題の聖句が、現代的な意義をもって迫ってくるのを覚えます。

                              (天旅 二〇〇七年5号)