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73 永遠の神、地の果ての創造者

主(ヤハウェ)は、とこしえにいます神、
地の果てに及ぶすべてのものの造り主。

(イザヤ書 四〇章 二八節)


  最近は物に満ち足りたせいか、心の問題とか霊的な現象に、世の人々の関心が向かっているようです。若い人たちも「スピリチュアル」なものを求めています。しかし、その霊的とかスピリチュアルなものとは、個人が自分の生活の中で体験する個々の現象であり、断片的なものに過ぎません。
 それに対してイスラエルの預言者は、自分たちが関わっている霊的実在者ヤハウェを、「とこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主」と自覚し、宣べ伝えるに至っていました。これは、数百年に及ぶ個人的・民族的な宗教体験が、民族の捕囚という苦難の中で到達した境地です。彼らは、自分たちの神ヤハウェは、時間のすべてを包括し、世界の一切を創造し統御する方であることを信じるに至ったのです。
 もし「神を信じる」といっても、それが自分の個人的な霊的体験の表現にとどまっているならば、それはそれで価値あることですが、世界はなおバラバラの断片の寄せ集めにとどまり、自分の存在と世界の全体を統合する意味を見出すことはできません。自分は、巨大な無意味の世界に投げ込まれた無意味な塵の一片に過ぎません。
 聖書の世界で「神を信じる」とは、世界を創造し、その中で起こるすべての出来事を統御する意志が存在することを信じることです。「とこしえにいます神」とは、世界の初めにいまして創造する方、世界の終わりにいまして万物を完成する方です。この方を知り、この方の意志に従って存在するとき、この塵のようなわたしの存在も永遠の意味を獲得します。このような神を信じることがなければ、世界はバラバラの断片に砕け散り、わたしの存在は無意味の暗黒にのみ込まれてしまいます。
 この神がわたしに「恐れるな、わたしはあなたを贖う」と言ってくださいます。無意味の暗黒に投げ込まれていることは恐怖です。この創造者なる神が同時に、わたしたちを無意味の恐怖と虚無から救い出して、時間のうつろいを超える永遠の意味を与えてくださる方であること、これがキリストの福音の内容です。イエス・キリストの福音は、世界の人々にこの神を告知します。キリストの十字架においてわたしの身に起こったことこそ、まさにこの創造者による贖いでした。

                              (天旅 二〇〇七年4号)