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71 殺されても殺さない

 悪に征服されることなく、善をもって悪を征服しなさい。

(ローマ書一二章二一節 私訳)


 最近、僅かの金を奪うために人を殺す事件が頻発し、そのニュースを聞くたびに暗然とします。幼い子供が殺され、学童が自殺することも多く伝えられるようになりました。その度に「命の大切さ」を教えなければと叫ばれますが、その声は空しく響くだけで、この社会には何にもまして命を尊ばせる原動力がありません。
 命を奪うことは究極の悪です。命を救い養うことは無条件に善です。命を奪うという究極の悪を正当化する根拠はどこにもありません。どのような崇高な目的や理念であれ、それを実現するために人を殺してもよいとは言えません。もしあるとすれば正当防衛だけでしょう。自分が殺されないために、殺そうとして襲う相手を殺す場合は、正当防衛として処罰されず、社会も認めています。
 しかし、その場合でも他者の命を奪うという悪をもって悪に対抗したことになります。自分も悪に巻き込まれ、悪に征服されたことになります。聖書は、キリストにある者に向かって、悪に征服されることなく、善をもって悪を征服するように求めています。同じことをイエスは、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と言われました。敵とか迫害する者には、自分を殺そうとする者も含まれます。標題のパウロの言葉も、主イエスの言葉もともに、極言すれば「殺されても殺さない」という人間のあり方を求めていることになります。これは善の極地です。
 それは人間には不可能だ、あるいは人間の本性に反するという反対が起こるでしょう。しかし、キリストの福音は人間をそのような質の命に生きるように変える神の力なのです。戦争や殺人に血塗られた歴史の中に、「殺されても殺さない」という原理に生きる人種を生み出してきたのです。このような人種の存在が、人類に「命の大切さ」を真に教えることになるでしょう。最近フランスは憲法に死刑を行わないという規定を入れました。これは国家が「殺されても殺さない」という原理に立つことを宣言したものです。日本も、自国のために他国の人を殺す戦争を放棄した「美しい国」です。人類の歴史の中に、絶対無条件に「殺さない」という原理が確立する日のために、わたしたちは福音に生き、福音を証言する使命があります。

                              (天旅 二〇〇七年2号)