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68 立ち帰って生きよ

 「わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。

(エゼキエル書 一八章三二節)


 これは、イスラエルの民がバビロンに捕らえ移された時期に活躍した預言者エゼキエルの言葉です。背いた民を裁き、異教の帝国バビロンに捕囚として送らざるをえなかった主なる神は、それでも捕囚の民を愛して、民が御自分のもとに帰ってくることを切に願い、このように預言者を通して語られます。「お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか」という言葉に続いて、標題の言葉が語り出されます。
 ここの死と生は体の死と生ではありません。死とは命の源である神から切り離された絶望的な人間の在り方であり、生きるとは神との交わりの中で人間の本来の姿を回復した在り方です。主なる神への背きによって死んでいるイスラエルの民に向かって、その死を悲しみ、立ち帰って生きるようになることを切に求められた神の愛を、主イエスは背く子の立ち帰りを切々と求める父の姿で描かれました。それは有名な放蕩息子のたとえだけではありません。しばしば厳しい倫理を求めていると誤解されるあの「山上の説教」も、実は父に立ち帰って、子として生きるようになることを切に求めておられる神の呼びかけに他なりません。
 いま人間社会には死臭が漂っています。親が子を殺し、子が親を殺します。人が死ぬという重大な結果に無頓着に、泥酔状態で車を走らせて凶器にする者が絶えません。改革の裏側に生じた格差の重圧に多くの人が呻いて自殺しています。兄弟殺しの戦争が絶えません。自分の宗教や主義主張のために無辜の隣人を殺戮しようとする者が増え続けています。
 神は死に囚われた人間の誰一人の死をも喜ばれず、立ち帰って生きるように願っておられます。主イエスが示されたように、父はどの一人の子も滅びることなく、「立ち帰って生きる」ように呼びかけておられます。父に立ち帰ること、父の無条件絶対の恩恵に立ち帰ること、それだけがわたしたちを死の捕囚から解放し、神の命に生きる者とします。人間社会を命の香りが漂う麗しい姿に回復します。キリストにある者は、父の恩恵と命に生きる神の子として、この父の呼びかけを伝える使命があります。

                              (天旅 二〇〇六年5号)