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54 水の上を歩く

 主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてあなたのもとに行かせてください。

(マタイ福音書 一四章二八節 一部私訳)


 弟子たちが湖で逆風の大波に悩んでいるとき、イエスが水の上を歩いて近づいてこられたという記事は、弟子たちがガリラヤ湖で復活されたイエスの顕現に接した体験を、イエスの地上での働きの時期に組み入れたものです。この記事は、ルカを除く他の福音書にもありますが、そのイエスに向かってペトロがこのように言って、水の上を歩いてイエスのところに行ったという記事はマタイだけにあります。
 水の上を歩いて近づいてこられ、「わたしはある《エゴー・エイミ》」という神的自己宣言の定式をもって、復活者としての栄光を顕わされたイエスに向かって、ペトロは、「主よ」と叫びます。この叫びは、復活者イエスに対する初期の信徒たちの信仰告白そのものです。ペトロは自分に現れた方に向かって、復活者であるあなたであれば、わたしにも水の上を歩いてあなたのもとに行かせることができます、わたしに命じて、そうさせてくださいと願います。イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方に進みます。しかし、強い風と荒れ狂う波を見て怖くなって、「主よ、助けてください」と叫びます。イエスはすぐ手を伸ばしてペトロを捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言って助け上げ、舟に運びこまれます。
 この記事はマタイのイースター説教です。このペトロの物語によって、マタイはわたしたちに復活の主と共に水の上を歩くように呼びかけているのです。復活されたイエスは、わたしたちに「わたしのもとに来なさい」と招いておられます。復活を信じ、復活者イエスと一緒に復活の命に歩むことは、水の上を歩くことと同じです。死者が復活するとは、イエスの場合もわたしたち自身の場合も、それを納得させる根拠は人間の側には何もありません。わたしたちは、自分の経験や合理的思想という舟から降りて、自分を支える何の根拠もない水の上を歩きます。それを可能にするのはキリスト信仰だけです。すなわち、御霊によって復活者イエス・キリストと結ばれて生きるとき、人間の側には何の根拠も支えもない復活信仰に生きることができるのです。自分の内側や世界の現実に目を向けると、何の支えもないことに気付いて怖ろしくなり、死の絶望の淵に沈みます。その時にもただ復活者キリストに目を注いで身を委ねるならば、その主が「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言って、聖霊という力ある御手を差し伸べて助けてくださいます。わたしたちは「キリストにあって」復活の命に生きるのです。

                              (天旅 二〇〇四年3号)