市川喜一著作集 > 第22巻 続・聖書百話 > 第10講

10 絶 信 の 信

わたしはあなたの信実によって歩みます。

(詩編 八六編 一一節 私訳)


 福音は聴く者に信仰を求めます。人は信仰によって義とされ、信仰によって救われると告知します。しかし、わたしたちは復活の報知にたじろぎ十字架の背理につまずきます。誰が山上の説教のイエスの言葉に従いきれるでしょうか。わたしたちはこの福音の前で自分の弱さと限界に絶望します。
 この絶望は信仰を誤解しているところから来ます。わたしたちは信仰をどんな不合理なことでもその通りに確信し、主であるキリストに誠意をもって忠実に従うことだと考え、理解できない自分の愚かさと忠実に従いきれない自分の弱さに絶望して信仰を放棄します。それは誤解です。信仰は自分の確信とか誠意とか忠誠の問題ではありません。福音が聴く者に求める信仰とは、そういう自分の側の信じる能力を放棄した場で、ひたすら神の信実に身を委ねる姿勢です。
 神は信実です。神は偽ることがありません。神の言葉は必ず実現します。いや、神の言葉が現実なのです。わたしたちは福音を神の言葉として聴き、それをそのまま事実として生きていけばよいのです。わたしたちが売買契約をした場合を考えてみましょう。わたしたちは相手が契約通りに品物を渡してくれると信じて代金を前もって支払います。この場合、支払いという行為の根拠になっているのは、わたしの信実とか誠意ではなく、相手の誠意すなわち信実です。この時わたしの誠意とか信実は問題ではありません。このように神の信実だけを根拠にして行為し生きることが信仰です。わたしは自分の信仰に絶して神の信実だけを根拠にして生きることを「絶信の信」と呼んでいます。
 イスラエルの民は自分たちの存在がただ神の慈しみと信実によるものであることをよく知っていました。それで詩編で賛美を歌うときは絶えず神の慈愛と信実を誉め称えました。標題の一節はその一例です。ここで神の民は神の信実によって生きるものであることが言い表されています。新約聖書では神の愛が前面に出ていて神の信実は目立ちませんが、それでも神の信実だけを拠り所にするように語るところは多くあります。イエスは「神の信をもて」(マルコ一一・二二直訳)と言われました。わたしはイエスのこの言葉を「神の信に生きよ」と訳し、絶信の信を指し示している言葉と理解しています。パウロも書簡の多くの箇所で神の信実だけを拠り所とすべきことを語っています。