市川喜一著作集 > 第19巻 ルカ福音書講解V > 第41講

空の墓

「空の墓」の記事の構成

 多くの注解や講解で、二三章五〇〜五六節の埋葬の記事は「受難物語」の最後の位置を占めています。そして、二四章一節から別の「復活物語」が始まります。墓への埋葬が人の生涯の終わりとなるのですから、埋葬の記事で区切るのは自然なことです。しかし福音書の場合は事情が違います。福音書はイエスが復活されたことを証言しようとして書かれた文書です。その証言において、葬られた墓が空になっていたという事実は、復活証言の重要な一角を占めています。墓での出来事は全体として一つの物語を構成しているのであって、「受難物語」と「復活物語」というように別々の二つの物語に分けることはできません。物語の内容からしても、二三章五五節から二四章一節までは、婦人たちがイエスの遺体に香料と香油を添えるために行動したことを報告するひとまとまりの記事であって、途中で切って別の段落に入れることは不自然です。とくに新共同訳が五六節の最後の「婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ」という文を章をまたいで別の段落に入れていることは、そうする理由がなく理解に苦しみます。
 本講解は新共同訳の段落区分に従って講解していますので、一応段落区分はそのまま掲げておきますが、二三章五〇節から二四章一二節までを一つのまとまりとして、「空の墓」の標題で「復活物語」の中で扱います。


142 墓に葬られる(23章50〜56節a)

 さて、ヨセフという議員がいたが、善良な正しい人で、同僚の決議や行動には同意しなかった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいたのである。(二三・五〇〜五一)

 ここで突然ヨセフという人物が登場します。「突然」というのは、この人物はこれまでどの福音書にも言及されていなかった人物であり、この埋葬の場面で突然舞台に出てくることになるからです。このヨセフという人物については、四福音書がすべて名前をあげて紹介していますが、その紹介の仕方には微妙な差異があります。ヨセフがアリマタヤという町の出身であることは四福音書共通です。しかし、その身分については、マルコが「身分の高い議員」としているのに対して、ヨハネは出身地をあげるだけで身分については何も言っていません。マタイは「金持ち」というだけで議員であることには触れていません。ルカは「議員」であることを明言するだけでなく、議員として最高法院での行動まで、「同僚の決議や行動には同意しなかった」と描いています。ルカはそのような行動の理由を、ヨセフが「善良な正しい人」であったからだとしています。というのは、ルカは神から遣わされた聖にして善い方であるイエスを、自分たちの権力の維持のために死刑の判決を下した多数派の議員たちは邪悪で不義であったとして(これはルカだけでなく共同体の当然の見方です)、その対比でヨセフを「善良で義なる人」だとしているからです。
 アリマタヤはエルサレムから北西へ四〇キロ、地中海沿いの町ヨッパのすこし東にあります。ヨセフは「アリマタヤ出身の名望ある議員」(マルコ一五・四三私訳)であったとされていますが、この表現はヨセフが最高法院を構成する三つの出身階層(祭司長、長老、律法学者)の中の長老階層に属する者であることを示唆しています。「長老」というのは、各地方の「名望ある」貴族階級の家柄の出身者で、地域代表というような資格の議員でした。祭司長や律法学者たちは神学上の理由からイエスに反対しましたが、神学議論から自由な長老たちの中には、イエスの人格に感動して、ひそかにイエスに同調する者もいたようです。
 ルカはヨセフを、議員でありながら「神の国を待ち望む者」でもあったとしています。この表現は敬虔なユダヤ教徒を広く指すこともありますが、ここではイエスが告知された「神の国」を待望する者、すなわちイエスを信じる者という意味だと考えられます。マタイ(二七・五七)とヨハネ(一九・三八)ははっきりと「イエスの弟子であった」と言っています。イエスを背教者としている最高法院の議員であるという立場上、公に言い表すことはできないが、ひそかにイエスを信じていたのです。ヨハネ(一九・三八)はヨセフを、「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たち(ユダヤ教指導層)を恐れて、そのことを隠していた」と描いています。

 この人がピラトのところに行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出て、遺体を十字架から降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られたことのない、岩に掘った墓の中に納めた。(二三・五二〜五三)

 そのヨセフがピラトのところに行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出ます。この行動は、マルコ(一五・四三)が描いているように、「勇気を出して」決行しなければならない行動です。イエスはユダヤ教の最高法院からは神を汚す背教の教師として死刑判決を受け、ローマ総督からは反逆者として処刑された人物です。そのような人物の埋葬を引き受けることは、自分もその仲間として扱われる覚悟を必要としました。それまでユダヤ人たちを恐れて、イエスの弟子であることを隠していたヨセフは、最後の場面で「勇気を出して」、大胆にもそのような行動に出たのです。
 ヨセフのこの行動は、福音の告知において重大な意義を持つことになります。当時のユダヤ教の定めでは、処刑された者は通常の埋葬は許されず、犯罪者墓地において行われなければなりませんでした。もしヨセフがイエスの遺体を墓に埋葬しなければ、当時の律法規定からすると、イエスの遺体は犯罪者墓地(墓地というより捨て場)に放棄されたかもしれず、「空の墓」という復活証言はありえなかったことになるからです。イエスの場合、異例の埋葬ができたのは、ヨセフという有力者が引き取ったからです。このヨセフの勇気ある行動のおかげで、イエスの埋葬は「ユダヤ人の埋葬の習慣に従って」(ヨハネ一九・四〇)行われた通例の埋葬となり、「空の墓」の証言が成立したのです。このような出来事のすべては、神の御計画によって起こっていることを感じます。

ここで「遺体」と訳されているギリシア語原語は、通常は生きている人の身体を指す《ソーマ》(体)です。福音書のイエスの埋葬記事では、すべて《ソーマ》が用いられています。ただマルコ一五・四五の一箇所だけで死体を指す《プトーマ》が用いられています。この箇所はピラトがイエスの死を確認するところで、ここでの《プトーマ》の使用は、イエスの死が仮死ではなく、ローマ側も公式に認めた完全な死であることを強調するためであると考えられます。

 「イエスのからだを渡してくれるように」というヨセフの願い出に対してピラトがとった態度は、マルコ(一五・四五)が報告しています。それによると、ピラトはイエスがもう死んでしまったのかと不審に思い、(十字架刑執行の責任者である)百人隊長を呼んで、死んでかなりたつのかと尋ね、百人隊長から報告を受けてから、ヨセフに遺体を下げ渡した、となっています。ヨセフは安息日が始まる日没前に葬りを済ませたいので、ピラトに遺体の引き渡しを願い出たのは三時とか四時というような時刻であったと推察されます(イエスが絶命されたのは午後三時過ぎと報告されています)。マルコによると、イエスは朝の九時に十字架につけられたのですから、比較的短時間で息を引きとられたことになり、ピラトは不審に思い、百人隊長に確認します。もしヨハネ(一九・一四)が伝えるように、イエスが十字架につけられたのが正午ごろであれば、ピラトの不審はますます当然のこととなります。ピラトは百人隊長の報告を受けて、イエスの死を確認して遺体をヨセフに下げ渡します。この記事は、イエスの死が仮死ではなく、ローマ側も公式に認めた完全な死であることを強調するためにマルコが入れた記事だと推察されますが、ルカはもうこのような確認は必要がないとしたのか、この間の経緯をいっさい省略して、直ちにイエスの「からだ」を十字架から降ろすところに続けます。マタイ(二七・五八)もほぼ同じです。ヨハネ(一九・三八)も同じです。
 イエスの「からだ」を十字架から降ろすときにヨセフ以外の人たちがいたかどうかは、福音書の記事からは確認できません。ヨハネ(一九・二五〜二七)は母マリアを含む四人の女性と愛弟子が十字架のそばに立っていたことを報告しています。また、ヨハネ(一九・三九)はニコデモが来たことを伝えています。多くの宗教画では、十字架から取り降ろされたイエスの前で泣く女性たちが描かれていますが、共観福音書はみな女性たちはイエスの十字架刑を「遠くから見ていた」としています。しかし、すぐ後の五五節の「イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届けた」の中に、イエスを十字架から降ろすところも含まれると解釈して、十字架から降ろすときには女性たちもいたとすることは可能です。
 ヨセフは、「ユダヤ人の埋葬の習慣に従って」、イエスのからだを亜麻布で丁寧に包み、「岩に掘った墓」の中に納めます。「岩に掘った墓」というのは、当時(前一世紀の半ば頃から七〇年のエルサレム陥落までの百年あまりの期間)エルサレムとその近郊だけで行われた特別な形式の墓で、山腹に洞窟を掘り、人が立てる高さの天井のある小部屋を作り、そこに遺体を安置し、香料や香油を添えて、近親の者が数日の間は追悼のために集まることができるようにした墓です。墓がこのような形式の墓であったために、「空の墓」という復活証言が可能になったわけです。ここにもイエスがキリストとして世に現れる時について、神の配剤がうかがわれます。

当時のユダヤ人の埋葬の習慣、とくに「岩に掘った墓」への埋葬については、拙著『対話編・永遠の命― ヨハネ福音書講解U』216頁「ユダヤ人の埋葬の習慣」の項を参照してください。

 この墓については、「まだだれも葬られたことのない」という説明がついています。この説明はマルコにはありませんが、ルカをはじめマタイやヨハネなど、後に成立した福音書にはみなこの説明がついています。これは、もし誰かが先に葬られていたのであれば、その墓にある骨がイエスのものでないことを証明しなければ、復活証言にならないからです。マルコ以後にこのような説明がつくようになった事実は、マルコ以後には共同体が告知する復活証言としての「空の墓」が、反対者から問題視されるようになっていたことをうかがわせます。

マタイは、「空の墓」の証言に対して反対者たちは弟子たちが遺体を盗んだという噂を流して対抗したという記事を書いていますが、これは「今日に至るまで(=マタイの時代まで)ユダヤ人の間に拡がっている」(マタイ二八・一五)この噂に対抗するためにマタイが構成した物語であって、ここでの推測と矛盾するものではありません。

 この墓については、マタイ(二七・六〇)だけがそれがヨセフの墓であったことを明言しています。しかし、ルカを含め他の福音書は誰の墓であったのかは触れていません。ヨハネ(一九・四一〜四二)は、安息日が始まろうとしていたので、たまたま近くにあった新しい墓に急いで葬ったというような説明をしています。エルサレムから四〇キロも離れたアリマタヤの住人であるヨセフがエルサレムに墓を持つことは不自然であるとして、マタイの記事を否定する見方も多いのですが、当時の敬虔なユダヤ教徒には、晩年にはエルサレムに住んで、終わりの日を待望する律法生活(=宗教生活)に入り、エルサレムに葬られることを理想とする者が多かったようです。アリマタヤのヨセフもそのような一人として、エルサレム近郊に自分の一族の墓を用意していたとしても不思議ではありません。

 その日は準備の日であり、安息日が始まろうとしていた。(二三・五四)

 「準備の日」というのは安息日の前日のことで(マルコ一五・四二)、安息日を律法の規定に従って生活することができるように、たとえば食品を予め調理しておくなど、諸々の準備をする日です。「準備の日」は安息日の前日ですから金曜日になります。イエスの十字架の死が「準備の日」すなわち金曜日であったことは、マルコもルカも明言し、とくにヨハネ(一九・一四、三一、四二)が繰り返し強調しています。日没が迫り、「安息日が始まろうとしていた」ので、ヨセフは埋葬を急ぎます。安息日には埋葬などの行動ができませんでした。

ところで、過越祭はニサンの月の一五日と決まっていますから、年によって曜日は違ってきます。マルコをはじめ共観福音書は「最後の晩餐」を(ニサンの月の一五日が始まる夜に行われる)過越の食事としているので、イエスの裁判と十字架刑は、夜が明けた同じ日の午前と午後に行われたことになります(ユダヤ暦の一日は日没からはじまります)。 ― 普通裁判とか処刑が大祭の日に行われることはないので、これが「最後の晩餐」を過越の食事ではないとする論拠になります。 ― そうすると、この年のニサンの月の一五日が金曜日ということになります。それに対して、ヨハネ福音書はイエスの十字架刑は、神殿で過越の小羊が屠られている午後に行われたとされています。すなわち、過越祭の前日(ニサンの月の一四日)であり、その日が金曜日になります。このように、共観福音書とヨハネ福音書では、イエスの十字架は金曜日であることは同じですが、その日付は一日食い違っています。この問題は、当時の日付と曜日の関係が確実に知られていないことと、十字架が何年の出来事であるかが確定されていないことから、未解決のままです。

 イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、家に帰って、香料と香油を準備した。(二三・五五〜五六a)

 復活証言では「イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たち」が重要な役割を果たしています。とくにマグダラのマリアが重要です。彼女らはイエスが十字架上で苦しまれて息絶えられた事実を「遠くに立って見ていた」のですが(二三・四九)、おそらくヨセフがピラトのところに行ってイエスの遺体を渡してくれるようにと願い出たときから、「ヨセフの後について行き」、ヨセフと一緒にイエスを十字架から降ろし、イエスのからだを亜麻布で包み、ヨセフがイエスを墓に納める有様を見届けたものと考えられます。
 墓にイエスの遺体が安置されるのを見届けた上で、女性たちは「家に帰って、香料と香油を準備」します。日没になって安息日が始まると、店は閉まり買い物はできなくなるので、彼女らは急いで買いに走ったことでしょう。マルコ(一六・一)は日曜日の早朝に買ったとしていますが、日の出前後の早朝に買ったとするより、ルカのように安息日が始まる前に急いで買ったとする方が自然です。
 墓に葬られた遺体に香料や香油を添えることは、当時の埋葬の儀礼において重視されていました。「イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たち」は、慕ってやまない師が悲惨な死を遂げたことに多くの涙を注いだことでしょう。せめて今自分たちにできることを精一杯しようとして、墓に納められたイエスの遺体に香料や香油を添えようとします。彼女らは持てるものを捧げて高価な香料や香油を買い求めたのでしょう。ヨハネ(一九・三九)によると、イエスのからだを十字架から降ろすときに、秘かにイエスを信じていた議員のニコデモが「没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり」を持って駆けつけています。イエスの墓にはすでに香料が置かれていたことになりますが、女性たちは自分たちのイエスに対する思いから、そうしないではおれない心情で香油を用意します。この女性たちの思いが、日曜日早朝の空の墓の発見につながります。