補論 「最後の晩餐」伝承の形成と展開
はじめに ― 用語について
わたしはこれまでにルカ以外の三福音書の講解で「最後の晩餐」の記事を講解してきました。今回のルカ福音書講解が「最後の晩餐」を扱う最終の機会となりますので、この機会に議論の多い「最後の晩餐」と、最初期の共同体でこの「最後の晩餐」の伝承に基づいて主イエスの死を記念する儀礼として行われていた「主の晩餐」について、わたしなりの理解を試論の形でまとめておきたいと思います。この試論は、おもに次の二著作との対論に基づいています。
J・エレミアス『イエスの聖餐のことば』(田辺明子訳、日本基督教団出版局 1967)
J・ラツィンガー(教皇ベネディクト一六世)『ナザレのイエス 第二部』(英語版 Igunatius Press, San Francisco 2011)
前者は現代のプロテスタントの新約聖書研究が「最後の晩餐」について提供するもっとも学術的に緻密な研究と言ってよいでしょう。
後者は(個人的著作であることを強調していますが、やはり現教皇の著作として現在のローマカトリック教会の見解を代表しいる と見てよいでしょう。以下の試論では、前者は「エレミアス」、後者は「ラツィンガー」として引用します。
「最後の晩餐」の日付とその性格
イエスが「引き渡される夜」、地上での最後の夜に弟子たちとされた食事、すなわち「最後の晩餐」が、ユダヤ人が除酵祭の第一日に祝う「過越の食事」であったのかどうかが争われています。それは、この最後の食事の日付が共観福音書とヨハネ福音書では違うからです。これはすでに見てきたことですが、日付の違いは最後の食事の性格を理解する上で重要なことですので、繰り返しにはなりますが、ルカ福音書講解の枠を出て「最後の晩餐」の本質を考察するこの試論で改めて取り上げておきます。イエスがエルサレム神殿が用いた公式の暦とは別の暦を用いていたとすることで、この亀裂を埋めようとする試みは多く提出されてきましたが、最近の重要な提案として、エレミアス(23頁)もラツィンガー(109頁)も、イエスは一年の各日が同じ曜日になる太陽暦を用いていたとするA・ジョオベールの説を引用し、かなり詳しく紹介しています。しかし、両者ともジョオベールの説を、「問題が残る」(ラツィンガー)とか
「空想的」(エレミアス)として退けています。
エレミアス(19頁以下)は、「最後の晩餐」の日付が一日違うという問題についての、歴史上の教会の姿勢を次のようにまとめています。
中世のローマカトリック教会及び宗教改革者の見解 ― 共観福音書が正しい。ヨハネはこれと対応して解釈されるべきである。。
ギリシア正教会の見解 ― ヨハネが正しい。共観福音書はこれと対応して解釈されるべきである。
宗教改革以後の時代に広くゆきわたった解釈 ― 共観福音書もヨハネも正しい。こう解釈するための様々な説が紹介されます。
エレミアス自身は、「最後の晩餐」は過越の食事であったことを綿密に論証し、それに対する反論も丁寧に反駁しています。すなわち共観福音書の記述を歴史的事実であるとして、ヨハネの記事をそれに合わせて解釈しています。たとえば、ヨハネ福音書の一三・一の「過越祭の前に」という句や一九・一四の「過越祭の準備の日」という句も共観福音書の日付に合わせて解釈しています(やや無理な解釈に感じられます)。しかし、一八・二八の「汚れを受けないで過越の食事をするために、彼らは総督官邸には入らなかった」という記述は、どうしても「過越祭の準備の日」を指し、共観福音書に合わせて解釈することができず、「ヨハネ福音書は首尾一貫していない」と結論しています。このことは、エレミアスの博学をもってしても共観福音書の日付を確立することはできず、ヨハネ福音書の日付の可能性を認めざるをえないことを示しています。また、ラツィンガーも最近のマイアーの左記の浩瀚な著作を引用紹介して、資料の証拠はヨハネの日付に傾いているとし、共観福音書も初期の伝承ではヨハネと同じく最後の晩餐の伝承に過越の食事であることを示唆する内容がなかったことを認めています。ラツィンガーは「古い過越儀礼は行われることはなかった―その時が来たときには、イエスはすでに死んでおられた」と書いて、ヨハネの日付を受け入れています(ラツィンガー114頁)。
John P. Meier, A Marginal Jew: Rethinking the Historical Jesus, (Anchor Yale Bible Reference Library, 1991) とくに同書 Vol.1, Ch.11 A Chronology of Jesus' Life の386頁 B. The Date of the Last Supper and of the Cruci- fixion of Jesus を参照。
「最後の晩餐」伝承の形成
わたしは、歴史的事実としてはヨハネ福音書の日付が正しいと考えています。したがって、その食事は正式の「過越の食事」ではなかったはずです。ユダヤ教徒がニサンの月の一五日以外の日に過越の食事をすることはありえません。その上で、たとえその食事が過越祭の前日であり、過越の食事でなかったとしても、イエスがご自分の死を過越の光の中に置かれた事実は変わらないと理解しています。イエスは最後に自分の死を覚悟してエルサレムに上る時期を過越祭の時とされました。そして、いよいよ過越祭が近づき準備の日となったとき、弟子たちと最後の食事をされ、その席でご自身の死が新しい過越を実現する死であることを指し示す言葉、先に見た「わたしの体、わたしの血」の《マーシャール》を語られます。イエスが告知された「神の国」の福音は、父なる神の無条件の赦しであり、絶対の恩恵の告知であるのだから、いけにえを要求するような神を前提とするこのような言葉(パンと杯の言葉)は実際にイエスが語られたものであることを疑問視する議論が、神学者の間にはあるようです。しかし、イエスは絶対無条件の恩恵の告知がユダヤ教指導層に受け入れられず、ユダヤ教を汚す者として死に定められることを見据えて、ご自分の使命を「主の僕」として自覚されたとき、この「パンと杯の言葉」のような言葉を語り出されたことは、福音書が伝える通り事実であったとするべきです。この言葉は、決して最初期共同体の信仰が生み出した言葉ではありません。しかし、その伝承は最初期共同体の状況によって少しずつ違った形で伝えられることになります。
この出来事が最初期の共同体で語り伝えられていく過程で、様々なバリエーションを生み出すことになったと考えられます。その伝承が最初に文書に書き留められた形がパウロ書簡(コリント第一書簡一一章二三〜二五節)に見られます。パウロは、コリントの集会に伝えた伝承について、「わたし自身、主から受けたものです」と言っています。「主から受けたもの」という表現の意味については議論がありますが、伝承の内容をなす言葉はエルサレム共同体とかアンティオキア共同体から受けたものであっても、それは主イエスから出たものであることは明らかであるから、「主から受けた」と言ったのか、あるいはそれを異邦人諸集会に伝えることは、復活の主から直接委ねられたと言っていると理解してよいでしょう。主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。(コリントT一一・二三〜二五)
この文言にはそれが過越の食事であることを示唆する要素はありません。パンとぶどう酒を用いる普通の食事について語られていると理解することができます。パウロはエルサレムで(またはアンティオキアで)ごく初期の形の「最後の晩餐」伝承を受け取り、それを異邦人諸集会に伝えたものと考えられます。異邦人のキリスト信仰者にとってはユダヤ教の過越祭の習慣は無縁であり、最後の晩餐のときの中核をなすパンと杯の言葉だけが伝えられ、それぞれに「わたしの記念としてこのように行いなさい」という典礼的な制定語が付け加えられています。パウロの書簡は五〇年代半ば頃の成立ですから、七〇年代以降に成立した福音書と較べると、最初期前期(三〇〜七〇年)の異邦人共同体の信仰生活を知る資料として貴重です。福音書が成立流布するまでのパウロ系異邦人諸集会は、一同が「集まるとき」主イエスの死を記念する「主の晩餐」をユダヤ教の過越の食事とは無関係な形で祝っていたと見られます。最初期のエルサレム共同体はなおユダヤ教の枠内にあり、過越祭のときには過越の食事を守ったこと、しかし周囲のユダヤ教徒の過越祭とは異なり、、断食をともなう夜の目覚めの祈りであったことについて、エレミアス(190頁)の「原始キリスト教の過越祭」の項を参照してくだ
さい。なお、そこで触れられている「十四日教徒」の断食の習慣や、一世紀末の小アジアのキリスト教会がユダヤ教過越祭の日に断食していた(エレミアス345頁)ことなどは、最後の晩餐伝承と過越祭との重なりと、最後の晩餐伝承に断食伝承が含まれていたことを指し示しています。
最後の晩餐伝承が以上のような経過で形成されたとすると、最後の食事の席で語られたはずの「これはわたしの体、これはわたしの血」という重要な言葉がヨハネ福音書では伝えられていないのはなぜかという問題が残ります。たしかにヨハネ福音書も、命のパンについてのイエスとユダヤ人との間の対話(ヨハネ六・五二〜五九)で、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」という同じ主旨の対話が伝えられています。しかしそれがなぜ「渡される夜」の出来事として伝えられていないのかという問題は残ります。それはヨハネ福音書理解の問題となりますので、その点については拙著『対話編・永遠の命―ヨハネ福音書講解T』256頁以下の「補論―ヨハネ福音書とサクラメント」を参照してください。
マルコ・マタイ型の最後の晩餐伝承は、パレスチナ・シリアのユダヤ教内キリスト信仰の中で形成され伝承されたものと考えられます。ルカも一部この伝承を継承していますので、この共観福音書伝承がイエスの歴史的事実を伝えているとする立場では、イエスと弟子たちとの最後の晩餐はユダヤ教徒が除酵祭の第一日に祝う過越の食事であったことになります。西方教会では長年の間この立場が継承され、最後の晩餐は過越の食事であるとの理解の中で、この出来事が解釈されてきました。エレミアスの『イエスの聖餐のことば』は、この立場のもっとも厳密で包括的な学術的提示であると言えるでしょう。しかしそれは、歴史的事実は共観福音書伝承の中に求められるという前提でなされています。しかし、ここで見たように、共観福音書伝承がパレスチナ・シリアのユダヤ教内キリスト信仰の立場で形成されたものであり、必ずしも歴史的事実を伝えているものではないとするならば、その立論は共観福音書伝承の厳密な提示であっても、必ずしも歴史的事実を論証するものにはならないことになります。現在の欧米の神学において史的イエス(イエスの働きと生涯の歴史的実像)を追究する営みは、ほとんどが共観福音書を基本的資料として行われています。たとえば最近の重要な貢献とされるE. P. Sanders, The Historical Figure of Jesus ,1993 でもこの前提は変わりません。しかし、ヨハネ福音書はイエス信仰の霊的内実を提示する神学的側面だけでなく、イエスの出来事の目撃証人から出た文書として、イエスの生涯と働きの歴史的事実を伝えているという側面があることが軽視されてはなりません。すでにE・シュタウファー「イエス ― その人と歴史」(高柳訳・日本基督教団出版部 1957)が、ヨハネ福音書が提示する枠組みを用いてイエスの生涯を記述しています。 最近の研究では前出 John P. Meier, A Marginal Jew: Rethinking the Historical Jesus, Vol.1, Ch.1, A Chlonology of Jesus' Life がヨハネ福音書の記述を重視してイエスの生涯の年代を構成しています。最後の晩餐の歴史的実像をめぐる論争は、改めてヨハネ福音書の資料的価値を見直させます。
新しい過越の成就
イエスは生涯最後の過越祭で、ユダヤ教の過越の食事を祝うことはありませんでした。実は前年の過越祭のときもエルサレムには上らずガリラヤにおられます(ヨハネ六・一〜四)。ヨハネ福音書は明確に最後の晩餐が過越の食事でないことを明言しています。それを過越の食事として語り伝えた共観福音書でも、過越の小羊は登場せず、イエス自身は食事を断つことを宣言されたという形で、イエスが過越の食事をされなかったことを示唆しています。古い契約の民イスラエルがその契約を記念する過越の食事をしているとき、イエスはすでに死んで、その遺体は墓の中に横たわっていました。イエスは生涯最後の過越祭において、もはや古い契約祭儀を反復することなく、「神の国」で過越が成就すること、その成就において「神の国」が到来することを見据えて、ご自身をそのための過越の小羊として差し出されます。「これはわたしの体、わたしの血である」という言葉は、まさにイエスがご自身を過越の小羊として差し出しておられることを指し示す言葉です。事実、 ― ヨハネ福音書が証言するように ― 過越の準備の日に神殿で過越の小羊が屠られているまさにその時刻に、エルサレム郊外のゴルゴタでイエスは十字架につけられ、血を流されていたのです。聖霊によって復活されたイエスを体験した最初期共同体は、同じ聖霊によってこの十字架されたキリストを自分たちのために屠られた過越の小羊として、その出来事を新しい過越の成就として示されました。その理解は、パウロの手紙の一節において次のように伝えられています。「いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか」。(コリントT五・七〜八)
「キリストはわたしたちの過越の小羊として屠られた!」。この告白はけっしてパウロ一人の個人的理解ではありません。それは最初期共同体の共通の告白であり、最初期共同体は十字架された復活者キリストによって新しい過越、終末的な過越が成就したことを理解したのです。パウロ系の異邦人諸集会は、もはやユダヤ教の過越祭を行うことはありませんでした。過越祭は年に一度ですが、キリストの民は「集まるとき」ごとにパンを裂き杯を回して、自分たちのために屠られた過越の小羊である主イエスを「記念し」、その死の救済的意義を世に告知したのです。それは新しい過越の成就でした。ユダヤ教の過越祭では種入れぬパンが用いられたことを予型として、パウロは新しい過越祭を祝うキリストの民に「古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで」、「わたしたちの過越の小羊として屠られた」主イエスを礼拝する新しい「過越祭を祝おうではありませんか」と呼びかけています。「主の晩餐」
最初期の共同体は、「主イエスが引き渡される夜」弟子たちに語られたパンと杯の言葉を繰り返し聴き、その言葉によって十字架され復活された主イエス・キリストの出来事が救いであり命であることを思い起こすために、パンを裂き杯を回す食事を共にしました。信者たちは「《エクレーシア》に集まる時」にこの主イエスの出来事を記念するために、このような性格の食事を共にしました。それは実際の食事であって、パンとぶどう酒以外の料理も食卓に並んでいたはずです。その食事が《エクレーシア》(集まり)の中心行事であり、それに聖書の解釈や講話、祈りや賛美が伴っていました。この食事のことをパウロは「主の晩餐」と呼んでいます。先に(用語の説明で)見たように、「晩餐」と訳されているギリシア語は《デイプノン》ですが、これは普通一日の仕事を終えた後にとられる主要な食事です。使徒時代の共同体は、数名または十数名ぐらいの人が個人の家に集まって食事を共にする小規模の集団でした。コリントの集会は例外的にガイオの邸宅にコリント在住の信者が多く集まっていた可能性があります。このような食事の集まりが、どのような頻度で行われていたのかは確認できません。
パウロは、「主の晩餐」の核心をなすパンと杯の言葉を「主から受けた」ものとして伝えていますが、パンの言葉と杯の言葉のそれぞれに、「わたしの記念としてこれを行え」という指示の言葉を付けています。先に見たように、「最後の晩餐」伝承の最古層を反映していると見られるマルコ福音書には、この指示の言葉はありません。この指示の言葉は、最後の晩餐伝承が共同体に伝えられていく過程で加えられて、パウロが引用する形になっていたものと考えられます。指示の言葉がパンの言葉だけにあるルカ福音書の形は、パウロが引用する形よりも古い伝承を反映していると考えられます。「記念」と訳されているギリシア語原語は《アナムネーシス》です。「わたしの《アナムネーシス》のために」とは何を意味するのかについても多くの議論があります。エレミアスは、この表現が古代のギリシア・ローマ世界で行われていた死者の記念祭の基金設定のための定型から来ているとする説を詳しく紹介して検討し、その結果その説を退け、この指示の言葉はむしろパレスチナの記念の定型から来ていると主張し、旧約聖書や初期ユダヤ教の用例を多く引用しています。その上でエレミアスは、パレスチナ型の伝統では《アナムネーシス》(覚えること、想起)の主語はいつも神であることから、「主の晩餐」の場合も、「これを行いなさい、神がわたしを覚えられるために」という意味であると主張しています。そして、「神がメシアを覚えられて、メシアが再臨し御国を到来せしめるために」を意味していると主張しています(エレミアス386頁以下)。しかし、そのような意味が含まれる可能性は否定できませんが、「主の晩餐」の核心がパンと杯の言葉である以上、次節のパウロの意義づけが示しているように、やはり主イエスの死の救済史的意義を想起するためという意味が中心であると理解してよいでしょう。
パウロはパンと杯の言葉を伝える「主の晩餐」伝承を引用した後、パンを食べ杯を飲む行為の意義を語る次のような言葉を付け加えます。「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」。(コリントT一一・二六)
パウロは、このパンを食べこの杯を飲むことは「主の死を告げ知らせる」行為だというのです。「主の死を告げ知らせる」とは、イエスが十字架につけられて死なれたという歴史的事実を告げ知らせるという意味ではありません。「主《ホ・キュリオス》」、すなわち復活して神の栄光の座にあげられた主《ホ・キュリオス》にしてキリストである方が、パンと杯の言葉が指し示しているように、わたしたちのために死なれたのであり、その死によって新しい契約が結ばれたという救済史的出来事を世に告げ知らせているのです。それは、神が「十字架された姿のキリスト」によって世を救われるという福音の言葉を行為によって指し示すこと、すなわち象徴行為による福音の告知という意味をもっています。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである」。(ヨハネ六・五三〜五五)
これは「主の晩餐」という象徴行為が指し示す霊的現実を端的に表現した言葉です。その豊かな内容はヨハネ福音書(六章)の講解に委ねなければなりませんが、ここでは「わたしの記念として、これを行え」という指示の言葉なしで、パンと杯の言葉の霊的内容を語るという福音告知の仕方が、新約聖書自体の中にあるという事実を指摘しておきます。ヨハネ福音書には「これを行え」という制定語がないことについて詳しくは、拙著『対話編・永遠の命―ヨハネ福音書講解T』256頁の「補論―ヨハネ福音書とサクラメント」の項を参照してください。
パウロが「主の晩餐」の象徴的意義を語る文(二六節)の末尾に、「主が来られるときまで」という期限を示す句がつけられています。使徒時代の共同体は「主の来臨」《パルーシア》を熱烈に待ち望んでいました。パウロは、少し前に書いたテサロニケ第一書簡でもこのコリント第一書簡でも、この《パルーシア》待望を明確に語っています。「主が来られるとき」には、もはや「このパンを食べこの杯を飲む」ことは必要でなくなります。本体が到来したときには、それを指し示す象徴行為は必要ではありません。イエスは、「神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない」とか「神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」と言っておられます。使徒時代の共同体は、復活されたイエスが主《ホ・キュリオス》として栄光の中に来臨されるとき、この方に属する自分たちは「霊の体」を与えられて、主と一緒にメシアの饗宴にあずかることになるとして、その日を待ち望んでいました。しかし、今は主イエスは天にいまし、自分たちは地上におります。そして、地上にいる限り、わたしたちは「このパンを食べこの杯を飲む」ことによって「主の死を告げ知らせる」営みを続けていくことになります。この営みの期限を語るこの「主が来られるときまで」という句は、この象徴行為が「主の来臨」を指し示す行為でもあることを語っています。聖餐
「主の晩餐」の意義とその実行の仕方について、パウロはコリントの集会に詳しく書き送っています。(コリントT一一・一七〜三四)。それを見ますと、それが実際の食事であるため、「食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末」となり、無秩序に陥り、「主の晩餐」本来の性格を見失ってしまう危険にさらされていました。日常の食事を「主の晩餐」として主を記念する営みとすることについては、拙著『聖書百話』64頁「28 食卓の信仰」を参照してください。