市川喜一著作集 > 第19巻 ルカ福音書講解V > 第9講

118 律法学者を非難する(20章45〜47節)

 民衆が皆聞いているとき、イエスは弟子たちに言われた。(二〇・四五)

 ここでルカはマルコに従い、律法学者たちに対する批判を置いています。ただ、マルコ(一二・三七後半〜三八節)が「大勢の群衆がイエスの教えに耳を傾けた。イエスは教えの中でこう言われた」としているところを、ルカは「弟子たちに」言われたとしています。「民衆が皆聞いているとき」に言われたのですから、民衆への警告にもなりますが、ルカはとくに弟子たちへの警告としています。ユダヤ教会堂と厳しく対立しているマタイ(二三・一〜三六)は、この箇所に「律法学者たちとファリサイ派の人々」に対する批判と非難のあらんかぎりを集めて、彼らを「偽善者」、「地獄の子」と呼び、「わざわいだ」という預言者的断罪の言葉を投げつけています。それに較べると、もはやユダヤ教律法との深刻な問題を抱えていない状況と時代に書いているルカは、マルコの記述をそのまま継承するだけで十分としたのでしょう。以下の律法学者たちに対する批判は、(ごく僅かの用語の違いはありますが)ほとんど字句通りにマルコと一致しています。

 「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」。(二〇・四五〜四七)

 イエスと律法学者たちとの根本的対立は、すでに福音書の全体が描いてきました。ルカ福音書でも第二部の「旅行記」の中で「ファリサイ派との対立と対決」が取り上げられていました(一一・一四〜五四)。それはイエスの「恩恵の支配」とファリサイ派律法学者たちの「律法の支配」の対立でした。しかし、いま神殿での最後の対決の締めくくりとして、イエスが律法学者に投げかける批判は、もはやこのような根本問題ではなく、彼らの偽善という面に限られます。
 「彼らは長い衣を着て歩きまわり、広場で敬礼されることや、会堂の上席、宴会の上座に座ることを好み、寡婦の家を食いあらし、見栄で長い祈りをする」。「長い衣」は律法学者の身分をあらわす衣で、特に長く、ゆるやかにたれています。これを着て歩いていると、どこでもすぐに律法学者であることが分かるので、一般の人々から「ラビ(先生)」として特別の敬意をこめた挨拶を受けることになります。
 ユダヤ人の宗教生活と社会生活全般の中心になるシナゴーグ(会堂)では、律法学者は「上席」に、すなわち聖書が納められている聖ひつ前方の長椅子に、会衆に向き合って座ります。宴会があれば「上座」に座って、その地域社会で最も重要な特別の人物として扱われることを当然とします。このように彼らは自らを、神の御心を示す律法に精通し民衆を指導する立場にある者であるとしながら、実は「寡婦」に代表される小さい者、弱い者に「背負いきれない重荷を負わせる」だけで、律法の重荷を負いきれないで苦しむ者たちを見下げているだけです。
 彼らの中には特別な立場にいることを利用して、実際弱い立場の寡婦の家から強欲に資産を奪うようなことをする者もいたのかも知れません。彼らが「長い祈り」をして宗教に熱心であるように見えるのは、内にある強欲を隠して人々から立派な宗教者であると認めてもらいたいからに過ぎません。彼らは外面では律法を厳格に守る信心深い者と見せかけていますが、実際は神が求めておられる最も大切なへりくだった魂とか慈愛の心から遠く、「偽善者」、「目の見えない案内人」にすぎない、とイエスはされます。彼らは神の御心を知っていると誇っているだけ、彼らの偽善は「誰よりも厳しい裁きを受ける」ことになると断罪されます。
 ここで注目されるのは、律法学者に対するこの最後の対決の中で、彼らの偽善が攻撃されているだけで、彼らの教えそのものは批判されていないことです。このことはマタイでは、「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである」(二三・二〜三)という形で述べられています。「彼らの言うこと」、すなわちファリサイ派律法学者の教義はすべて守り行うべき正しいものと認められています。しかし彼らは「言うだけで、実行しない」。教義はあるが、それを実現する力がない。そこに偽善が生れます。福音はファリサイ派の教義を否定するのではなく、それを成就完成する力として来たのです(マタイ五・一七)。ファリサイ派ユダヤ教は旧約の長い歴史の到達点です。キリスト教はこのファリサイ派ユダヤ教を母胎として生まれ、これを完成することによって乗り越える信仰です。福音がもたらす聖霊の力によって初めて、律法は成就され、偽善は克服されることになります。ファリサイ派ユダヤ教は福音にとって最も身近な環境であるだけに、それを克服し乗り越えるのに激しい戦いと強烈な力を必要とすることになります。ここに、特に「弟子たちに」対して「気をつけなさい」と呼びかけられる理由があります。

ファリサイ派ユダヤ教が旧約の長い歴史の到達点であることについては、拙著『マルコ福音書講解U』100頁の「パリサイ派」の項を参照してください。