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106 金持ちの議員 (18章18〜30節)

イエスと議員との対話

 ある議員がイエスに、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねた。(一八・一八)

 この物語はマルコ(一〇・一七〜三一)にあり、マタイ(一九・一六〜三〇)もそれを継承していますから、三つの共観福音書すべてに伝えられていることになります。ただ、マルコでは「ある人」とあり、マタイも同じですが、ルカは「議員」としています。もしこの人が「議員」であれば、この対話がエルサレムへの旅の終わりの方に置かれている理由も分かりやすくなります。「議員」にはいろいろな意味がありますが、最高法院の議員を指す場合が多いので、そうだとするとこの対話はガリラヤよりもエルサレムに近い地域が適切となります。最高法院の議員はエルサレムまたはその近くの地域の者が多かったと考えられるからです。
 三つの共観福音書はみな、この人が裕福であったことを強調しています。マルコは「たくさんの財産を持っていた」と表現し、マタイも同じですが、ルカは「大変な金持ちであった」と、すこし表現を変えています。マタイ(一九・二二)だけがこの人を「青年」としています。「議員」はたいてい年配者です。「青年、若者」が大きな資産を(相続などで)持っていることは不可能ではありませんが、「議員」には資産家が多いので、この方が自然です。
 この物語では質問した人が金持ちであることが重要で、議員であるかどうか身分は問題ではありません。ルカはこの人物が金持ちであることを納得させるために「議員」とした可能性も考えられますが、実際にどのような立場の人物であったかは確認できません。議員の中にもニコデモやアリマタヤのヨセフのようにイエスを秘かに信じていた人もいたのですから、ここで「議員」がこのような質問をしてもおかしくはありません。
 「議員」であれ「青年」であれ、ここではこの人物が真面目なユダヤ教徒であることが重要です。当時のユダヤ教徒にとって究極の目標は「永遠の命を受け継ぐ」ことでした。もともとイスラエルの宗教はヤハウェと契約したイスラエルの民の救済と栄光が目標でした。ヘレニズム期には滔々たるギリシア化の波に抵抗して「父祖の信仰」を維持しようとする運動からファリサイ派が生まれますが、相手の土俵で戦うことでファリサイ派の信仰はギリシア的な個人の救済に重点を置く宗教に変質していきます。イエスの時代のユダヤ教の主流となっていたファリサイ派はヘレニズム・ユダヤ教(ギリシア化したユダヤ教)でした。また、当時のユダヤ教では黙示思想が行われ、やがて神の支配が実現する世が来るという終末的待望がありましたので、その「来るべき世」で与えられる命が「永遠の命」と呼ばれ、自分がその「永遠の命」を受け継ぐ者となることがユダヤ教徒個々人の宗教生活の目標となっていました。

ヘレニズム・ユダヤ教については、拙著『パウロによるキリストの福音V』410頁の「ヘレニズム・ユダヤ教」の項を参照してください。

 ユダヤ教は実践的な宗教です。ここで議員が「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねていることは、ユダヤ教徒の彼にすれば当然です。哲学的なギリシア人や仏教徒のように観相や悟りの境地を尋ねるのではなく、何をすることが必要かと尋ねます。
 議員はイエスに向かって「善い先生」と呼びかけて、この人生根本問題を尋ねています。議員はユダヤ教の指導層に属します。しかし、長年の人生体験もユダヤ教の実践も彼にこの根本問題についての解決と確信を与えることができませんでした。イエスは数々の力ある業(奇跡)によって神から遣わされた人物であることを示していると考え、自分の宗教的根本問題を解決してくれる「善き師」と見たと思われます。この方に尋ねたら、神の道(神が求めておられる永遠の命に至る方法)が示されるかもしれないと考えたのでしょう。このような思いは、同じく議員であるニコデモがイエスのもとに来て、「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたがたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」と言ったのと同じでしょう(ヨハネ三・二)。
 イエスは議員の質問に答える前に、彼が「善き師」と言った言葉を取り上げて、どこに答えを求めるべきかを指し示されます。

 イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」。(一八・一九)

 イエスは自分を「善い者」とすることを拒まれます。神だけを「善い者」として、一切の善を神に帰し、ご自身を含め人間に善を帰すことを厳しく退けられます。イエスは自分を無として、神をすべての価値の源泉とされます。自分を無とされるゆえに、神に満たされておられる、それがイエスの人格の秘密です。
 イエスは、質問した議員が「善い先生」から永遠の命を受け継ぐ道を教えてもらってそれを実践し、永遠の命に至ろうとしていることを見抜いておられます。イエスを「善い先生」として、その教えによって永遠の命に至ろうとするところに、なお人間の働きによって永遠の命に至ろうとする質問者の立場が見え透いており、それが根本的に間違っていることを指摘しようとされます。

 「『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」。(一八・二〇)

 「何をすればよいか」と問うのであれば、それはあなたがすでによく知っているはずだ、とイエスはお答えになります。ユダヤ教徒であれば、人がなすべきことはモーセ律法によって神から示されていることを知っているではないか、とイエスは言っておられるのです。
 ここにあげられている五つの戒めは、順序は違いますが「モーセの十戒」の後半にある人間関係についての戒めです。マルコ(一〇・一九)があげてる戒めのリストとは数も順序も少し違いますが、マルコ版は出エジプト記二〇・一三〜一四に従い、ルカの方は最初期共同体の訓戒(ローマ一三・九)に従っているようです。どちらも、モーセの十戒では神との関わりを扱う前半の最後に置かれている「父と母を敬え」という戒めを最後に加えています。しかし、そのような違いは、ここでは問題ではありません。「何をすればよいか」ということは、あなたはすでに知っているではないか、という点が重要です。

 すると議員は、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。(一八・二一)

 忠実なユダヤ教徒である議員は、この戒めを子供の時から守ってきたのは事実でしょう。しかし、戒めを守ることでは、永遠の命を受け継ぐ保証にならないことを、彼自身がよく自覚しています。戒めを守ってきた自分に、永遠の命を受け継ぐ確信がないからこそ「善い先生」にその道を尋ねたのです。

 これを聞いて、イエスは言われた。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」。(一八・二二)

 イエスは議員に、自分の財産を貧しい人たちに施す慈善の業が一つ足りない、と言っておられるのではありません。神の前に自分が持っているもので立とうとする立場そのものを完全に放棄するように求めておられるのです。地上には自分のものを何ひとつ持たず、ただ天にだけ価値あるものを持つ者、すなわち完全に「貧しい者」となって、イエスの仲間になり、イエスに従ってくるように求めておられるのです。「永遠の生命を受け継ぐ」とか「神の国に入る」ということは、自分が為したことや自分が所有しているものによるのではなく、イエスに従い、自分を無とするイエスの在り方に合わせられることによるのです。それはやがて、「イエスに従う者に賜る聖霊」(使徒行伝五・三二)によって現実に体験することになります。
 ここのイエスの言葉は、実際に全財産を売り払って貧しい者たちに施すことを永遠の命を受け継ぐための条件としておられるのではなく、それができない自分の無価値、無能力に気づかせ、自分を恩恵に投げ出すように、恩恵の場を指し示しておられるものであることは、同じルカがすぐ後に挙げている金持ちのザアカイの事例(一九・一〜一〇)からも分かります。徴税人の頭で金持ちであったザアカイは、エルサレムに向かうイエスがエリコの町を通られたとき、「今日はあなたの家に泊まりたい」と言われたイエスを喜んで自分の家にお迎えします。普段は罪人としてユダヤ人社会から除け者にされている自分を無条件に受け入れてくださるイエスの心(それは神の無条件の恩恵の表れです)に感動したザアカイは、財産の半分を貧しい人たちに施すことを自発的に申し出ます。イエスはこのザアカイに「今日、この家に救いが訪れた」と言っておられます。このように財産を売って施すことは、恩恵によって救われた結果であって、恩恵に入るための条件ではありません。

 しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。(一八・二三)

 この議員の場合は、それができない自分を恩恵に投げ入れることができず、永遠の命を受け継ぐ資格を獲得できないことを「非常に悲しみ」ます。大きな財産をもち、ユダヤ教社会で名誉ある地位を築いている議員は、その全財産を売り払い貧しい人たちに施し、無一物になって無名のガリラヤの大工の弟子となり各地を巡回する(=放浪する)ような生活に入ることはできません。それができない以上、永遠の命を受け継ぐ保証が得られないとするならば、自分は到底その資格は得られないと思い、「非常に悲しみ」ます。しかしもし彼が、それができない自分を無価値・無資格の者として、「できないわたしを助けてください」と、イエスの前に、すなわちイエスが告知される神の絶対無条件の恩恵に投げ出しておれば、後にイエスが言われたように、「人にはきないことも、神にはできる」のですから、彼が永遠の命を賜っていることを喜ぶことができるような道が開けたことでしょう。
 マルコでは「悲しみながら立ち去った」となっています。おそらく議員はその場から立ち去ったのでしょう。ルカは、もはや議員の行動は以下のイエスの言葉には関係がないとして省略したのでしょうか。以下の対話は、議員が立ち去った後のイエスと弟子たちとの対話になります。

イエスと弟子たちとの対話

 イエスは、議員が非常に悲しむのを見て、言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」。(一八・二四〜二五)

 議員が非常に悲しんで立ち去っていくのを見て、イエスは(おそらく彼が立ち去った後)語り出されます。このイエスの言葉は、神の国の祝福を宣言されたあの「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである」(六・二〇)という言葉の裏側になります。二つの語録は表裏一体の言葉として、富に対するイエスの姿勢を伝えています。
 たしかに貧しいこと自体が神の国に入る資格となるのではなく、マタイが「霊において貧しい者」としたように、イエスの言われる「貧しさ」は神の前での貧しさ、すなわち自分の無価値、無資格を自覚して神の無条件の恩恵だけに身を委ねる姿勢をさしています。同様に、富もそれ自体が神の国に入る資格となるものではなく、またそれを妨げるものでもありません。富を持つことを誇り、富に自分の祝福の根拠を置く人の在り方が、その人を恩恵の支配から締め出すのです。この場合の富は、物質的な財産だけでなく、地位や名誉や教養や学識など、人間が価値あるものとするすべてです。このような「富」は、人間の本性的な自我性を強め、撞き固めます。金持ちや地位の高い人は、ほとんどが傲慢です。
 このような意味で富める者が神の国に入る(=神の支配の現実を体験する)のはきわめて難しいことです。神の国は恩恵の支配だからです。このように自分の価値に頼る者は、神の無条件の恩恵に身を委ねることはできません。それに対して実際に貧しい者は、自分に価値あるものを見つけようとしてもできないのが普通ですから、差し出された神の恩恵に喜んで身を委ねることになります。実際、キリストの福音が宣べ伝えられたとき、それを受け入れて信仰に入ったのはほとんどが貧しい階層の人たちでした(コリントT一・二六〜三一)。
 実際には富める者が神の国に入ることの難しさを、イエスは「らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」というイエス独特の戯画的なたとえで表現されます。「針の穴」というのはエルサレムの城壁にあったごく小さいくぐり穴を指しているという説明もありますが、そうだとすると戯画はいっそう具体的なイメージになります。

 これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言うと、イエスは、「人間にはできないことも、神にはできる」と言われた。(一八・二六〜二七)

 「それでは、だれが救われるのだろうか」と言ったのは、マルコでは弟子たちとなっていますが(マタイも同じ)、ルカは「聞いた人々」としています。すぐにペトロが発言していることからも、弟子たちがこれを聞いたことは確かですから、議員が立ち去った後の対話は、弟子たちと取り囲む人たちとの対話ということになります。
 ルカはただ「聞いていた人々」というだけで、どの言葉を聞いたのか特定していませんが、質問にこめられた驚きと、次のペトロの発言からすると、イエスが議員に「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる」と言われた言葉を指していると考えられます。もし永遠の命を受け継ぐには、そのような英雄的な行動が必要であるならば、いったい誰が救われるのだろうか、という驚きを思わず口にしたのでしょう。
 その驚きに対してイエスはお答えになります。その言葉は、マルコでは「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」となっています。マタイでは「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」となり、ルカでは「人間にはできないことも、神にはできる」とあり、だんだんと簡潔になっていっています。表現は少しずつ違っていますが、主旨は同じです。「人間にはできない」と「神にはできる」の対照です。
 イエスは、そのような英雄的な行動は人間にはできないことであると認めておられます。それにもかかわらずあえてそうするように議員に求められたのは、議員が自分の無能力・無価値を認めて、神の恩恵の力に身を委ねるように導くためでした。もし議員が恩恵に身を投げ出しておれば、神が議員にそのような行動をする力をお与えになり、議員は内から溢れる神の力、聖霊の愛に促されて、自分では思いもよらなかった施しの生活に入っていき、その中で永遠の命の確かさと喜びを持つことができたのです。恩恵への感謝と神の愛に溢れて、進んで持ち物を施す生活に入っていくことができたのです。それは必ずしも全財産を売り払い施すという形ではないかもしれません。ザアカイのように半分を貧しい人たちに施すという形になったかもしれません。恩恵の場では、神は決してこれだけの行為をせよとお命じにはなりません。恩恵の場に生きる者は、内から溢れる命に促されて善をなすのです。
 この「人間にはできないことも、神にはできる」というお言葉は、よく奇跡を祈り求める場で用いられます。これ以上は人間の力は及ばない、後は神の奇跡を待つだけという場面で、信仰と祈りを励ますために用いられます。たしかに、イエスが病気をいやされ、生まれながら見えない人を見えるようにするなど、多くの力ある業をなされたとき、この言葉が実証されています。しかし、この言葉が語られなければならない本来の場は、ここに見られるような救済の出来事が起こる場です。人は自分で無価値・無資格を認めて、すなわち自我を打ち砕いて、神の恩恵に身を委ねることができません。神がそれを可能にしてくださるのです。
 では、神はどのようにして自我を打ち砕くという人のできないことを成し遂げてくださるのでしょうか。それは反抗を力ずくで撃ち砕いて成し遂げるという仕方ではなく、人間の弱さを自らに引き受けるという、人間が思い浮かべることもできないような意外な仕方で為して遂げられたのです。それがイエス・キリストの十字架です。イエスが十字架の上に血を流して死なれた時、それはわれわれ人間の罪のためであった、すなわち、自己の価値を主張して、神の恩恵にひれ伏そうとしない人間の自我性という根源的な罪を自らに引き受けての死であったのです。神はイエスの十字架において人間のかたくなな自我心を打ち砕かれました。今、イエスを信じてその十字架に合わせられる者は、自我の砕けを恩恵として賜るのです。

 するとペトロが「このとおり、わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました」と言った。(一八・二八)

 自分の財産を売り払ってイエスに従うようなことはできず、悲しみながら立ち去った議員に較べ、「このとおり、わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました」と、弟子たちを代表してペトロが言い出します。この言葉はほぼマルコと同じですが、マタイはこの後に「では、わたしたちは何をいただけるでしょうか」という言葉を加えています。マタイは弟子たちを、当時のユダヤ教の報償思想の枠の中にいる人物として描いています。
 ペトロをはじめ弟子たちは、たしかにイエスの地上の働きの時期から家族や家業を犠牲にして、各地を巡回されるイエスにつき従ってきました。しかし、その犠牲はなお部分的でした。彼らにはなお帰って行くことができる家や家業が残されていました。事実彼らは、イエスがエルサレムで十字架上に死なれたあと、ガリラヤに帰って家業の漁師に戻っています。彼らが「すべてを捨てて」、すなわち家族と家業のすべてを捨てて、イエスをキリストと宣べ伝える働きに従事するようになったのは、エルサレムから逃げ帰ったガリラヤで復活されたイエスに出会い、そのイエスから召命を受けた時でした。ガリラヤにおける働きの最初におかれている湖畔でのイエスとの出会いの記事は、復活者イエスの顕現の体験から出ていて、そこの「すべてを捨ててイエスに従った」(五・一一)という言葉は、この時のペトロの行動を指しています。その時、彼らは家族と家業のいっさいを捨ててエルサレムに移住します。ここのペトロの言葉は、地上のイエスの働きの時期の言葉ではありますが、イエス復活後の弟子たちの姿にいっそう正確に当てはまります。

このガリラヤでの復活者イエスとの出会いの体験とエルサレム移住については、拙著『福音の史的展開T』の序章「復活者イエスの顕現」、とくに「第四節 弟子たちのエルサレムへの移住」を参照してください。

 イエスは言われた。「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける」。(一八・二九〜三〇)

 ペトロの発言に対して、イエスは「アーメン、わたしはあなたたちに言う」という重い表現で、イエスに従う者が受けるものについて語り出されます。
 マルコでは、「わたしのため、また福音のために」すべてを捨てた者について語られています。マタイでは「わたしのために」だけです。おそらくこれが「語録資料Q」に伝えられていたイエスの言葉でしょうが、イエスの復活後の状況では「イエスのために」働くことは「福音のために」働くこととなっていましたから、この語録を自分の時代の福音活動に適用しようとしたマルコが、この「福音のために」を加えたと見られます。「福音のために」がマルコの編集句であることは広く認められています。それに対して、ルカは「神の国のために」としています。ルカはイエスの働きもイエス復活後の福音活動も「神の国を福音する」という表現で指し示しています。イエスに従い、世に福音を告知する働きは「神の国のために」働くことと表現されます。
 「わたしのために」、「福音のために」、また「神の国のために」捨てるもののリストは、各福音書で少しずつ違っていますが、その違いは特別な意味をもつものではなく、家族や家業や資産など、この世の生活で手放すことができないとされているものを指しています。「神の国」を受け継ぐために、イエスに従い福音の働きをするために、人が「それだけは手放すことができない」と強く執着しているものを捨てる者が受け継ぐものを、イエスは二つ約束されます。
 その二つは、「この世で受ける」ものと、「後の世で受ける」ものという形で指し示されます。「後の世」と訳されている語は、原語では「来たるべき世《アイオーン》」という形であり、それは現在の「この世《アイオーン》」と対比して、終わりの日に神が世界にもたらされる新しい世《アイオーン》を指しています。ここではっきりと「二つの《アイオーン》」という、当時のユダヤ教黙示思想の枠組みが用いられています。《アイオーン》というギリシア語は本来「時代、世代」を意味する語ですが、ユダヤ教黙示思想では終末的な時代区分を指す用語として用いられ、「神は二つの《アイオーン》、すなわち今のこの《アイオーン》と次ぎに来る《アイオーン》の二つを創造された」とされました。「今のこの《アイオーン》」では、律法を守る義人は今の世を支配する悪の権力によって苦しめられているが、やがて到来する「来るべき《アイオーン》」では神の支配が確立し、義人は栄光に入れられるとされていました。ユダヤ教の枠内で福音を語るマタイは、「新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる」と、ユダヤ教黙示思想の表現をそのまま用いています(マタイ一九・二八)。先に「永遠の命を受け継ぐには何をすべきか」と尋ねた議員との対話においても、議員は「永遠の命」を来たるべき《アイオーン》における命という当時のユダヤ教における意味で用いています。
 イエスは、神の国のためにすべてを捨てる者に来たるべき世での命、すなわち永遠の命を約束されますが、もしそれだけであれば義人に来たるべき世での栄光と命を約束している黙示思想と変わりません。約束を受け継ぐ根拠が律法の順守からイエスに従うことに変わっています(それはたしかに大きな違いです)が、この世での苦難と来たるべき世での栄光という黙示思想の枠組みから一歩も出ていないことになります。来たるべき世での永遠の命だけでなく、今のこの世での「報い」を約束されるところに、黙示思想を超えるイエスの独自性があります。

「来たるべき世」では《アイオーン》が用いられていますが、「この世」では《カイロス》が用いられています。用語は違いますが、黙示思想的内容は変わりません。

 イエスの「神の国」告知においては、終末的な神の支配がすでにこの世界に突入してきています。神の支配は恩恵の支配としてすでに始まっています。イエスが告知される恩恵に身を委ねる者は、その神の恩恵の豊かな現実に入っています。イエスの十字架・復活以後の福音告知においては、福音を信じる者には聖霊が与えられて、聖霊の交わりの中で、神の家族として豊かな新しい人間関係が始まります。そのことが「その(捨てたものの)何倍もの報いを受け」と表現されます。マルコ(一〇・三〇)は「迫害と共に」という句を加えていますが、マタイとルカはそれを入れず、受けるものの豊かさだけを強調しています。この「今の世」で受ける報いの豊かさが、イエスが黙示思想を乗り越えておられることを指し示しています。