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第一二章 失われたものが見つかる

       ― ルカ福音書 一五章 ―

はじめに

 ルカは、手許に持っている三つのたとえをまとめて「旅行記」の中に置きます。この一五章に収められている「見失った羊」、「無くした銀貨」、「放蕩息子」の三つのたとえは、失われたものが見つかった喜びを主題としている点で共通しています。「見失った羊」のたとえはマタイ(一八・一二〜一四)に並行記事がありますが、たとえの形はかなり違っていて、共通の資料から取られたのかどうかは問題があります(後述)。後の二つは明らかにルカの特殊資料からと見られます。この三つは、ルカが福音書でまとめる以前に、ひとまとまりのたとえとして伝承されていた可能性があります。
 ルカは、このマルコにはないひとまとまりのたとえ集を、マルコの物語の枠に拘束されない「旅行記」に置きます。そのさい、どういう状況でこれらのたとえが語られたのかを説明する文(一五・一〜三)を冒頭に添えます。罪人たちと食事をすることに対するファリサイ派の人々や律法学者たちの批判に答えるという状況は、すでにガリラヤでの活動の時期にもありましたが(五・三〇〜三二)、ルカは自分だけが持っている特殊な資料を用いるために、改めて状況を説明する言葉を添えて、自由な物語空間である「旅行記」に置いたと見られます。


94 「見失ったひつじ」のたとえ(15章1〜7節)

 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。(一五・一〜三)

 共観福音書では、イエスの周りに集まった人たちは、たいてい「徴税人や罪人」という組み合わせで描かれています。まれに「徴税人や娼婦(遊女)」という組み合わせもあります(マタイ二一・三一)。「徴税人」というのは、ローマ皇帝に納める税の徴税を請負っている「徴税請負人」の下で徴税の実務を担当する人たちで、当時のユダヤ教社会では、汚れた異邦人の手先になっている汚れた者であり、同胞の苦しみを食い物にして私腹を肥やす者として忌み嫌われていました。「罪人」というのは、特定の律法規定に違反した者というのではなく、その職業上律法を無視した汚れた生活をせざるをえない階層の人たちを指しており、徴税人や娼婦が代表しています。
 このような階層の貧しい人たちを「罪人」と呼んだのは「ファリサイ派の人々や律法学者たち」でした。彼らは自分たちが解釈する律法規定を厳格に守る者が「義人」であり「清い者」、神からの祝福にあずかる資格のある者であるとし、自分たちを「義人」として律法への熱心を誇っていました。そして、生活の必要から従事している職業上、また病気や障害から貧しい生活を強いられて、律法を学ぶことも守ることもできず、また守ろうともしない者を「罪人」、「汚れた者」として蔑んでいました。彼らは、罪人に触れると汚れに感染するとして、近づくことも避けていました(七・三九)。まして一緒に食事をすることなど、ありませんでした。
 話を聞こうとして近寄って来る徴税人や罪人を避けることなく、自分の仲間として迎え入れ、食事まで共にされるイエスを見て、ファリサイ派の人々や律法学者たちは「つぶやき」、イエスの態度を、汚れを避けようとしない、義人にあるまじき行為として批判します。ここで「近寄って来た」と訳されている動詞の形(不定過去)は、この場面が特定の出来事ではなく、ガリラヤでも繰り返されたであろう一般的な状況であることを示しています。
 このようなファリサイ派の人々や律法学者たちの批判に答えるために、イエスはたとえを語られます。「次のたとえ」(原文では「このたとえ」)は単数形で、直接には「失われた羊」のたとえを指していますが、この章の三つのたとえはすべて、彼らの批判に答えるためのたとえとして読まなければなりません。ルカはこの導入文(一〜三節)を置くことでこの三つのたとえを、実際にはそれがどのような状況で語られたものであるにせよ、イエスとイエスに従う弟子たちの共同体が、ユダヤ教律法からすれば排除すべき人たちを受け入れていることに対するユダヤ教側からの批判に答えるたとえとしています。

 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう」。(一五・四〜六)

 このたとえには、マタイ(一八・一二〜一四)に並行記事があります。しかし、(以下に見るように)用いられている文脈が異なり、たとえの形もかなり違っています。「〜しないであろうか」と問いかけて聴衆の共感を引き出す語り方は、ルカの特殊資料にあるたとえの語り方の特色です(一四・二八と三四、一五・四と八)。それでこのたとえは、マタイと共通の資料である「語録資料Q」からではなく、初めからルカの特殊資料にひとまとまりとなって伝えられていた三つのたとえをルカがそのまま用いている可能性が高いと考えられます。
 ルカでは羊飼いが羊を「見失う」のですが、マタイでは羊が群れから「迷い出る」と表現されています。いずれにせよ群れから離れた羊は、野獣に襲われたり、牧草にありつけなかったりして滅びる運命にあります。羊ごとに名を呼んで世話をしている羊飼いにとって、それは耐え難いことです。九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないではおれません。この羊飼いの姿に、イエスは「失われた者」に対する御自身の切実な思いを重ねておられます。その思いが、ユダヤ教社会では「罪人」として、「失われた者」として排除されている人たちのところに行かせ、彼らとの交わりを持とうとされるのです。そして、そのイエスの思いに、御自身に背いて離れ去っている者に対する父なる神の無条件の慈愛が響いています。
 すでに聖書(旧約聖書)に、神の民を羊の群れにたとえ、その世話を委ねられた牧者(羊飼い)であるイスラエルの指導層がその責任を果たさないので、群れを慈しまれる所有者の神が、牧者である指導層に対して厳しい裁きを語られる預言があります(エゼキエル書三四章)。その中で、神は預言者を通してこう語っておられます。

 「見よ、わたしは自分自身の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す」。(エゼキエル三四・一一〜一二)

 この「見失った羊」のたとえを語られたとき、イエスは実際の羊飼いの行動をモデルとされたのでしょうが、同時にこの聖書の言葉が指し示す神の思いに迫られておられたのではないかと思います。
 ルカは、実際に羊を見つけた羊飼いの喜びを、「そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう」と、羊飼いの具体的な行動で生き生きと描いています。群れから迷い出た羊は、弱り果てて歩くこともできなくなっています。羊飼いは見つけた羊を「担いで」、すなわち肩に担いで前足と後ろ足を胸の前で交差して握り、大喜びで家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて祝います。この部分はマタイの並行記事にはありません。マタイは「もし、それを見つけたら」の後に、「迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう」と、仮定の場合の結論だけを語っています。
 マタイは「迷い出た羊」のたとえを、イエスが子供を祝福された物語(一八・一以下)の中に置き、この結論の適用として、「そのように、これらの小さな者(子供)が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」と言っています。それに対してルカは、このたとえを「罪人」を迎えて食事をされるイエスに対する批判に答えるという文脈に置いていますので、この見失った羊を見つけた羊飼いの喜びを、「悔い改める一人の罪人」についての喜びを指し示すたとえとして、次のように結論を語ります。

 「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」。(一五・七)

 ルカはその福音提示において「悔い改め」を重視しています。「悔い改め」と「悔い改める」という用語は、新約聖書全体で五三回出てきますが、その中で二三回はルカ文書に出てきます(新共同訳で)。ルカは、マルコ(二・一七)が伝えている「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」という重要なイエスの言葉に、「悔い改めさせるため」を加えて、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」としています(五・三二)。その箇所の講解で触れたように、この「悔い改め」を罪人がその律法違反の生活を悔いて、律法を順守する「義人」になることを意味すると理解するのは、イエスの恩恵の福音を台無しにする誤解です。ここの「悔い改め」は、預言者がイスラエルに「悔い改め」を迫ったとき用いた《シューブ》(立ち帰り)の意味に理解しなければなりません。今や神の無条件絶対の恩恵が現れたのだから、自責や絶望というような自己の殻の中に閉じこもっていないで、立ち上がり、自分から出て、神に立ち帰り、この神の恩恵に自分を投げ入れなさい、という意味に理解しなければなりません。ルカがこのような意味で「悔い改め」を用いていることは、三つ目の有名な「放蕩息子」のたとえで明確に語られます。

ルカにおける「悔い改め」については、拙著『ルカ福音書講解T』199頁以下の段落25の講解、とくに209頁の「悔い改めさせるために」の項を参照してください。

 自分は律法を守って正しい生活をしているのだから悔い改める必要はないと、自分の正しさ(義)に寄り頼んでいる「義人」たちは、神の恩恵を必要とせず、イエスが告知される神の絶対無条件の恩恵を無視します。事実は、人間はすべて神から遠く離れていて罪の支配下にあるのに、それに気づかず、神の恩恵によって神との交わりに立ち帰ることを拒んでいるのです。神の働きを受けるようになることを、必要でないとして神に立ち帰らないのです。そのような人たちについては、天には喜びはなく、彼らの行く末を心配する沈黙があるだけでしょう。
 それに対して、たった一人でもイエスの恩恵の告知に身を投げ出して神に立ち帰る者があれば、天に大きな喜びがある、とイエスは言われます。その一人はいつも、自分の義を言い立てることができない「貧しい人たち」、ユダヤ教世界で「罪人」と呼ばれている人たちの一人です。ルカは、このような「罪人」に温かい目を注いでいます。