市川喜一著作集 > 第18巻 ルカ福音書講解U > 第27講

第一一章 来るべき世の突入

       ― ルカ福音書 一三章(一〇節)〜一四章 ―

はじめに

 ルカは、「旅行記」ではマルコの枠から離れて自由に、マタイと共通の「語録資料Q」と彼だけがもっている独自の資料を配置していますが、ルカがどういう原理でそれらの資料を配置してこの「旅行記」を構成しているのか、その構成原理を理解することは困難です。様々な説が提案されていますが、広く研究者を納得させる説得的な理論は見つかりません。本講解における区分も、一応の試案であり、読者の便宜のためのものに過ぎません。
 先の区分(一二・一〜一三・九)では、イエスの「神の国」告知の終末的な側面、すなわち終わりの日の裁きが迫っていることを主題としてまとめられていると見て講解を進めました。その後を承けて次ぎの区分(一三・一〇〜一四・三五)では、イエスの「神の国」告知のもう一つの面、すなわち「神の国」の現実がすでにこの世界に突入してきているという主題でまとめられているように見られます。
 この区分は、前半(一三・一〇〜三五)と後半(一四・一〜三五)に分かれ、それぞれ安息日になされたいやしの出来事から始まり、「神の国」の到来を指し示すたとえや語録が続いています。前半と後半の配置に対応関係を見る説もありますが、かなり無理なようです。


85 安息日に腰の曲がった婦人をいやす(13章10〜17節)

 安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。(一三・一〇)

 安息日に会堂に入って教えるのは、ガリラヤでの活動期間中の習慣であって、エルサレムへ向かう短い旅の途中の出来事とは考えにくいことです。ルカは、マルコにはないこの独自資料を、マルコの枠から離れて自由に素材を用いることができる「旅行記」に置いたと考えられます。会堂での出来事が語られるのは、ルカ福音書ではここが最後です。

 そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。(一三・一一)

 「病の霊に取りつかれている」という表現は、病気の種類とか原因を描写するものではなく、病人に対する古代の一般的表現であると考えられます。この理解は、以下のいやしの記述に霊を追い出す動作はなく、単純な病気のいやしの記述だけであることからも補強されます。「十八年間」は、病気の期間が長く、人の力ではどうしても治らなかった病気の重さと執拗さを強調しています。

 イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。(一三・一二〜一三)

 その長患いの女性をイエスは呼び寄せ、「あなたはその病気からもうすでに解き放されている」(直訳)と言って、その女性に手を置かれます。すると、十八年間もどうしても腰をのばすことができず曲がったままだった女性が、たちどころに腰がまっすぐになり、喜びのあまり、イエスの手を通してなされた神の御業を大きな声で賛美します。

 ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない」。(一三・一四)

 会堂長は会堂での礼拝を取り仕切る責任者です。会堂での律法違反を見過ごしにすることはできません。ユダヤ教律法では、安息日にしてはならない働きとか仕事が事細かく規定されていて、病人に対する治癒行為(医療行為)も仕事の一種として、それが命にかかわる緊急の場合以外は許されていません。この場合も、十八年間もこの状態だったのですから、今日でなくてもよいわけで、イエスがこの女性をいやされた行為を安息日律法違反として咎めます。
 しかし、この会堂長はイエスのいやしの力を認めていたのでしょうか、イエスを咎めず、群衆(会堂に集まったユダヤ人会衆)に「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない」と言います。イエスのいやしの働きをお願いすることができる日は六日あるのだから、その間に来て病気を治してもらうがよい。安息日に治癒の働きをすることは律法違反であるから、それをすることも求めることも許されていない、と言います。

 しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」。(一三・一五〜一六)

 この会堂長の言葉に対して、イエスはその思い違いを指摘されます。ここで「主《ホ・キュリオス》は言われた」となっているのは、「偽善者たちよ」という複数形の呼びかけと共に、これが最初期共同体が対立するユダヤ教会堂に向かって投げかけている批判の言葉が、地上のイエスの言葉と重なっていることをうかがわせます。
 イエスは批判者たちが安息日にしていることを引き合いに出して、彼らの偽善をつかれます。安息日には結び目を解く作業も、その種類と程度によって禁止されています。そういう禁止規定があっても、あなたたちは自分の牛やろばは飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか、とイエスは彼らの安息日の行動を指摘されます。そうであれば、「十八年もの間サタンに縛られていたアブラハムの娘」は、安息日であってもその束縛から解いてやるべきではないか、と反論されます。ここで「サタン」は、人間を束縛するあらゆる霊的な力の総体を象徴する名です。
 批判者たちは、自分の牛やろばについては安息日であっても結び目を解くのに、同じくアブラハムの子孫であり同胞であるこの女性について、安息日律法を盾に、イエスがサタンの束縛を解かれることに反対する、そこに彼らの偽善があります。
 イエスはこの女性に「あなたはその病気からもうすでに解き放されている」と宣言しておられます。この段落では、「解く」という動詞が鍵語になっています。つながれている家畜が解かれることと対比して、病気の霊に取りつかれ、サタンに縛られている女性が、イエスによってその束縛から解き放たれることが主題となっています。この段落は、病気の霊の束縛から人を解放されるイエスの働きを伝えると同時に、宗教の拘束から人を解放されるイエスを告知する段落となります。
 安息日律法は、ユダヤ教という宗教を代表する典型的な律法規定です。週の七日目の安息日にはいかなる仕事もしてはならない、というモーセ十戒の言葉を日常生活の中で実現するために、どのような行動が仕事として禁じられ、どのような行動が許されるかが、ラビたちによって議論され、定められていました。それは炊事から医療の行動にいたるまで、事細かに規定されるようになっていました。
 ところで、宗教には自己を絶対化する傾向があります。宗教規定を守ること自体が目的とされ、その規定を守ることが人間にとっての善とか幸福よりも優先される傾向があります。ここの会堂長の姿勢もその典型です。この傾向が極端まで進むと、宗教規定が完全に行われる社会を実現するためには、それに抵抗する者を殺し抹殺すべきであるという思想に至ります。イエスは神の恩恵の絶対性のゆえに、この宗教の絶対化に反対されます。安息日律法の順守よりも優先されるものがあることを、安息日にこの女性をいやすことで示されます。
 イエスが安息日に病人をいやされたことは、ルカ福音書では三回伝えられています(ここと六・六〜一一、一四・一〜六)。どの場合もイエスは、安息日律法というユダヤ教規定の順守よりも、苦しむ者への神の恩恵の働きを示すことを優先しておられます。ところが、ユダヤ教を絶対とする律法学者やファリサイ派の者たちは、イエスを聖なる宗教を汚す者として、イエスに対する殺意を固めていきます。

 こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。(一三・一七)

 イエスの時には反対者は殺意を抱きますが(六・一一、マルコ三・六)、ルカはこの伝承を彼の福音書に用いるとき、それをユダヤ教律法に対する信仰の勝利の賛美、また群衆のイエスの力への賛美にして、この結びの言葉を置きます。
 この段落は、神の支配がイエスの中にすでに現実に到来していて、その神の支配が病気の霊の支配から、また宗教の枠の拘束から人間を解放していることを示しています。