市川喜一著作集 > 第18巻 ルカ福音書講解U > 第26講

84 「実のならないいちじくの木」のたとえ(13章6〜9節)

 そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか』」。(一三・六〜七)

 いちじくはイスラエルの象徴です。イエスは最後にエルサレムに入られたとき、実のないいちじくの木を枯らすという象徴的な奇跡を行われました(マルコ一一・一二〜一四)。この記事は、マルコとマタイにはありますが、ルカにはありません。その代わり、ルカはマルコとマタイにはないこの語録を伝えて、イスラエルに対する警告としています。
 園丁が「ご主人様」と呼んでいるこのぶどう園の所有者は、そこに植えたいちじくの木がいくら待っても実をつけないので、そのいちじくの木を切り倒せと命じています。このたとえで「ぶどう園」は世界を指し、いちじくは世界の中で選ばれて特別の使命を与えられたイスラエルを指しています。世界の主である創造者なる神は、選ばれたイスラエルに実を求められましたが、イスラエルは神が期待される実を結びませんでした。それで、神はイスラエルを滅ぼすことに決められた、というのです。
 すでに洗礼者ヨハネはイスラエルの民に、「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」と叫んでいました(三・九)。洗礼者ヨハネと一緒に活動を始められたイエスは、かたくなに悔い改めようとはせず、イエスに対する殺意をもって臨むイスラエルに対しては、すでに「切り倒せ」という神の断罪の宣言が下されていることを見ておられました。それは神殿崩壊の預言となって現れます。もうこれ以上無駄に土地をふさがせておくことはない、と主人は判断しています。

 「園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください』」。(一三・八〜九)

 この「切り倒せ」という主人の命令に対して園丁は、手入れすれば来年は実がなるかもしれないという可能性をあげて、「今年もこのままにしておいてください」と懇願します。イエスはエルサレム神殿の崩壊を避けられないものと預言しておられますが、イスラエルが滅びることは望まれず、その滅びに対しては涙を流しておられます(一九・四一)。
 この園丁の姿からは、イスラエルのために執り成しの祈りをするパウロの姿が連想されます(ローマ九〜一一章)。パウロは、「神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束」という諸々の特権を与えられたイスラエルが、福音を拒否し、イエスをキリストと認めないかたくなな罪を糾弾しつつも、「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています」と、命がけで執り成しています。
 パウロは、今一部のユダヤ人が福音に敵対しているのは、それによって福音が異邦人に及ぶためであり、異邦人の数が満ちるとき全イスラエルが救われるという希望をもって、イスラエルのために執り成しをしています。パウロは、神の賜物と召しは変わることがないことを「接ぎ木のたとえ」で語っています。パウロの祈りは、パウロの生存中には実現しませんでしたが、わたしたちキリストの民は、全イスラエルがキリストにあって救われることを祈り続けなければなりません。