市川喜一著作集 > 第18巻 ルカ福音書講解U > 第24講

82 訴える人と仲直りをする(12章57〜59節)

 「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官のもとに連れて行き、裁判官は看守に引き渡し、看守は牢に投げ込む。言っておくが、最後の一レプトンを返すまで、決してそこから出ることはできない」。(一二・五七〜五九)

 この区分(一二・一〜一三・九)の主題である終わりの日の裁きが迫っていることを、イエスはさらに一つの比喩を用いて群衆に語られます。すなわち、「あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くとき」のことが比喩として用いられます。「最後の一レプトンを返す」とあることから、おそらく借金などの民事訴訟で裁判所に出頭する体験が比喩として用いられているのでしょう。「あなたを訴える人」(債権者)と一緒に裁判所に向かうとき、途中でその人と和解して、裁判官に訴えられなくても済むように努めるのが最善の方法です。いったん法廷に持ち込まれると、厳密に法律が適用されて、(当時の法律では)全額負債を払いきるまで牢に入れられることになります。そのことを比喩として、イエスはイスラエルの民に、終わりの日の裁きが来るまでに、訴える者と和解するように説かれます。
 ここで、訴える者とは誰か、役人と裁判官と看守とは誰を指すのか、というような詮索は無用です。たとえ話の中の一つ一つの項目に具体的な事物を適用して物語を構成すること、すなわちたとえを寓喩的に解釈する必要はありません。イエスは、裁判が始まる前に和解する必要があることを示すためだけに、民事訴訟を比喩として用いておられのです。
 終わりの日の裁きは神の裁きです。したがって和解は神との和解です。その日が迫っている今こそ神との和解を求めるべき時です。ところが、イスラエルの民は今がどのような時であるかを悟らず、何が正しいかを自分で判断できず、神との和解を問題にもしないでいます。これは、先の雲行きを見分けることと比較して、「どうして今の時を見分けることを知らないのか」と言われたのと同じです。
 五八〜五九節は(多少用語は違いますが)同じ内容の並行箇所がマタイ(五・二五〜二六)にあり、「語録資料Q」から取られていると見られますが、五七節はルカ独自のものです。ルカが「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか」と呼びかける相手は、異邦の諸国民です。世界は神の審判に向かう途上にあります。この今の時に、すべての人間は神と和解する必要があります。元のたとえでは、どうすれば和解できるかは触れられていませんでした。しかし、ルカはこの福音書で「罪の赦し」の福音を告知しています。神はイエス・キリストによってわたしたちの負債を赦しておられます。ルカはこの福音を背景に、世界の人々に自分が赦しを必要とする者であることを判断するように呼びかけます。