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77 「愚かな金持ち」のたとえ(12章13〜21節)

 群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」。(一二・一三)

 当時のユダヤ教のラビは、律法の専門家としてユダヤ教社会での法律家(弁護士)でもありますから、遺産相続の紛争などでラビに相談することは普通でした。モーセ律法には遺産相続に関して規定があります(民数記一一・八〜一一、三六・七〜九、申命記二一・一五〜一七)。この発言者はイエスを権威のある立派なラビと見て、兄弟の間で起こった遺産相続のもめごとをイエスに相談し、その裁定によって遺産を得ようとします

 イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」。(一二・一四)

 この訴えに対して、イエスは自分の使命は、法律によって人々の間の紛争を裁いたり調停したりする法律家のそれではないと言って、その求めがお門違いであると諭されます。イエスはご自身を「神の支配」を告知するため、終わりの日の恩恵の支配を告知するため、命の道を指し示すために、神から遣わされた者であるとされます。誰かが「永遠の命を受け継ぐためには何をすればよいのでしょうか」と訊ねるならば、イエスは真剣に答えてくださいます。しかし、地上の富の問題は世の法律家に委ねられます。
 自己主張がぶつかりあうこの世では、正義や公正が貫かれるために「裁判官や調停人」など法律家が必要です。イエスに従い、父の慈愛に生きる弟子の間では、「裁判官や調停人」など法律家の出番はないはずですが、御霊に従いきれない肉(生まれながらの人間本性)から生じる紛争のために、法律家の世話になるような場合が出てきます。しかし、それはイエスの弟子としては未熟の証しです(コリントT六・六〜七)。イエスはわたしたちの「裁判官や調停人」ではありません。

 そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」。(一二・一五)

 人間には生得的な欲求があります。食欲や性欲は生存を維持するために生まれながらに身についている欲求です。そして、自分が欲求する物を自分の支配下に置いておきたいという所有欲があります。これも自然の欲求でしょう。しかし、その所有欲が自分の生存に必要なものという限度を超えて、自分の快楽や満足や誇りのために、少しでも多くと際限なく膨れあがるとき、それは「貪欲」となります。
 貪欲にも、その対象や状況の違いによって、いろいろな種類、様々な形があります。しかし、この貪欲こそ、あらゆる不義や暴虐の根です。イエスは「どんな貪欲」も、命の道を歩む者には危険であるから、注意を払い、用心して遠ざかるように警告されます。そして、その理由を「たといたくさんの物を持っていても、人の命は持ち物にはよらないのである」(協会訳)と語り出されます。
 新共同訳は「財産」と訳していますが、ここの「持ち物」は「財産」よりも広い意味で、人が自分のものとして所有しているすべてのものを指しています。それが何であれ、人はいくら貪欲に多くの物を手に入れて自分の支配下に置いても、人の命は自分が持っている物によって豊かにされるものではなく、保証されるものでもありません。人間は自分の命を、自分の所有物として、自分の支配下に置くことはできないのです。命は全然別のところから来ます。そのことをイエスはたとえで教えられます。

 それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と』。しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた」。(一二・一六〜二〇)

 たとえ話の意味は明白で、とくに解説の必要はないでしょう。この金持ちは自分が所有する多くの財産で、これからの自分の命が保証されたと安心しています。しかし、人の命を決めるのは彼自身ではありません。人間は自分の生まれる時と死ぬ時を決めることはできません。それを決めるのは、彼に命を与えた方、創造者なる神だけです。そのことがこのたとえで印象深く語られています。
 このことはすでにユダヤ教の知恵文学も自覚していました。たとえばシラ書(一一・一八〜二九)にこれとよく似たたとえがあります。イエスはそれをさらに聴衆に身近な農業のたとえを用いて語られます。自分が死ぬ時を決めることができない人間が、自分の持ち物で「これから先何年も生きて行く」ことが保証されたと考える愚かさを、「愚かな者よ」という神の呼びかけで指し示しています。神がこの男に「今夜、お前の命《プシューケー》はお前から取り去られる」と言われたというのは、この男が「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ」と言った日の夜に死んだことを、神がなされた出来事とするためです。
 このたとえは他の福音書にはなく、ルカの特殊資料から取られています。ルカはこのたとえ話をここに用いて、終わりの日の裁きを前にして、地上の富に寄り頼むことの愚かさを語る印象深い段落を構成しています。そして、この段落の結びとして、この段落の意義を要約する言葉を置きます。

 「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」。(一二・二一)

 「このとおりだ」というのは、この金持ちの男のように愚かな生き方をしているのだ、という意味です。「神の前に豊かになる」ことは、すぐ後で「尽きることのない富を天に積む」という表現で語られています(一二・三三)。この金持ちの男のように、地上で自分のために大きな富を蓄えても、神が喜ばれる形でその富を用いないならば、命が取り去られて神の前に出るとき、何も持たない者として退けられるだけです。その人の地上の生涯は無意味なものとなり、その人の生き方は愚かなものであったことになります。
 では、どうすれば神の前に豊かになることができるのか、地上の富はどのように用いるべきなのかという問題について、ルカは他の箇所で繰り返し取り上げて語っています。すぐ後の三三〜三四節のお言葉はマタイにも並行箇所がありますが、ルカの特色も出ています。また、「不正な管理人のたとえ」(一六・一〜一三)や「金持ちとラザロ」の物語(一六・一九〜三一)など、富に関するイエスの発言を伝えるルカだけの記事に、地上の富に関するルカの見方がよく出ています。
 総じてルカは地上の富について厳しい見方をしています。そのことはすでに「平地の説教」冒頭の「幸いの言葉」にも見られました(六・二〇〜二六)。ルカは「幸いの言葉」の中に、マタイにはない「富める者の不幸」の言葉を入れて、富める者を断罪しています(六・二四〜二五)。「来るべき世」が到来して神の支配が実現するとき、地上で(今のこの世で)富める者は不幸になるという終末的逆転の思想が、ルカには見られます。富に関するルカの見方については、適切な箇所でまとめて扱うことにします。