市川喜一著作集 > 第18巻 ルカ福音書講解U > 第10講

68 ベルゼブル論争(11章14〜23節)

ベルゼブルとの結託

 イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した。しかし、中には、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言う者や、イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた。(一一・一四〜一六)

 この段落は、マルコ(三・二〇〜二七)にもマタイ(一二・二二〜三〇)にも並行記事があります。マルコにはありませんが、ルカは(そしてマタイも)この論争のきっかけとなったイエスの悪霊追放の奇跡を最初に置いています。当時は、病気や身体障害は悪霊の仕業だと考えられていましたから、イエスが悪霊を追い出されたことに対する批判は、イエスのいやしの奇跡全体に対する批判でもあります。
 イエスがなされた力ある業(奇跡)に、一般の民衆は素直に神の働きとして驚嘆しますが、その中に批判的な目で見る人々がいます。マルコでは、「エルサレム下って来た律法学者」が「あの男はベルゼブルに取りつかれ、悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と判定したとなっています。これはイエスの行動を監視するために派遣された監察団の判定です。これは群衆の中の批判的なつぶやきとは違い、将来最高法院に律法違反を告発するときの材料になる重要な判定です。しかし、ルカはこのようなユダヤ教内の意義は伝える必要がないと判断したのか、群衆の中の批判的なつぶやきとして伝えています。また、異邦人読者には耳慣れない「ベルゼブル」という名前に「悪霊の頭」という説明を加えています。
 イエスに対する批判は二つの形で行われています。一つは、イエスが行われる奇跡の事実そのものは否定できませんから、その奇跡を悪霊どもの頭による働きであると説明することです。もう一つは、悪霊の追放は他の霊能者もしていることで、イエスが神から遣わされメシアであることを証明するには、「天からのしるし」が必要であるという批判です。この批判に対しては、後(二九〜三二節)で取り上げられます。ここではまず第一のベルゼブルの力で悪霊を追い出しているという批判に答えます。
 「ベルゼブル」は本来古いシリヤの神の名であり、「ベエル・ゼブール」、すなわち「家(神殿)の主人」の意味でしたが、イスラエル人はこれを嘲って「バール・ゼブーブ」(蝿の神)と呼び、次第に悪魔を指す名として用いられるようになったものです。宗教当局者はイエスをこの「ベルゼブル」、すなわち悪魔に取りつかれていると判定しました。神の律法を汚す者がどうして神の霊を持つ者であろうか、彼が奇跡を行うとしても、それは悪霊どもの頭が行う奇跡にすぎない、という判定です。ところがイエスは、彼らが「ベルゼブル」という悪魔の名を用いたのを逆手にとって、これをアラム語の「ベエル」(主)とヘブライ語の「ゼブール」(住居)とに分解し、内輪で争う家や国の譬を用いられます。

内輪で争う国や家のたとえ

 しかし、イエスは彼らの心を見抜いて言われた。「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか」。(一一・一七〜一八)

 たとえの意味は明白で、説明の必要はないでしょう。内部抗争に明け暮れる国や家が荒廃し、倒れていったことは、歴史や世間の事実が示しています。ここでイエスは、神に敵対する勢力の総体を「サタン」という名で指し、頭が手下を追い出すというような内輪争いをすれば、サタンの支配は崩壊するではないかと反論されます。そしてさらに、批判者の仲間、すなわちユダヤ教団内部で行われている悪霊追い出しの事実を取り上げて、こう言われます。

 「わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる」(一一・一九)。
 当時のユダヤ教では、祈祷師とか霊能者が悪霊を追い出すということをしばしば行っていました。その実例は、使徒言行録一九章一三〜一六節に具体的に紹介されています。イエスはこの事実を取り上げて、彼らの悪霊追放を認めて、イエスがなされる悪霊追放をベルゼブルの力に帰すことの矛盾を突かれます。
 この反論は、群衆の中の批判的なつぶやきに対するものというよりは、やはり律法学者が代表するユダヤ教団への反論と理解する方が自然です。イエスがこのような反論を律法学者になされたことは十分ありえますが、この反論には、復活後のキリスト信仰共同体がユダヤ教会堂勢力からの批判に対してしている反論が重なっています。奇跡を行われたイエスに対して、ユダヤ教側はイエスを「魔術師」とか「詐欺師」と呼んで排斥しました。これはかなり後の時代のラビたちにも続いています。最初期の共同体がイエスの名によって悪霊を追い出す奇跡を行ったとき、ユダヤ教側からそれをベルゼブルの力によるものとする批判があり、それに対してキリスト信仰共同体が、ユダヤ教内の悪霊追放の儀式などの事実を取り上げてしている反論が重なっていると見られます。

神の支配は到来している!

 「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。(一一・二〇)

 イエスは批判者の矛盾を突いて反論されるだけでなく、今現に起こっている事実に基づいて、重大な宣言をされます。イエスは、ご自身が悪霊を「神の指で追い出している」以上、「神の支配はあなたたちのところに来ているのだ」と宣言されます。ここの《バシレイア》は、領域を示唆する「神の国」よりも、サタンの支配を打ち破った結果として「神の支配」の方が適切だと考えられます。
 マタイ(一二・二八)の並行箇所では、「神の霊で」となっています。ルカの「神の指で」とどちらが原形であるのか議論がありますが、おそらく聖書の擬人的な表現(出エジプト記八・一五)をそのまま用いているルカが原形ではないかと見られます。出エジプトの時に神がイスラエルのためになされた大いなる働きが、今イエスの手によって成し遂げられ、出エジプトを終末的に成就する出来事が目の前で起こっている、とイエスは言っておられるのです。マタイは、イエスがなされた奇跡の業は聖霊の働きによるのだという最初期共同体の理解を表現していると考えられます。
 イエスは弟子たちを派遣するとき、「神の支配はあなたがたに近づいた」と告知せよ、とお命じになりました(一〇・九)。ところがここでは、「神の支配はあなたたちのところに来たのだ」と宣言されます(動詞は過去の出来事を指すアオリスト形)。弟子たちが告知した「神の支配」は、やがて来る終末的な審判と栄光の顕現ですが、ここでの「神の支配」は聖霊の働きによる終末の現臨です。イエスの「神の支配」告知にはこの両面がありました。そして、イエスの「神の支配」告知を継承した最初期共同体のキリスト告知にもこの両面があり、弟子たちは今現に自分たちの内にあって聖霊として働かれるキリストと、そのキリストがやがて栄光の中に世界に顕現される終末的完成を告知したのでした。

 「強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する」。(一一・二一〜二二)

 イエスは、ご自身の中に「神の支配」が到来していることを、さらに一つのたとえを用いて語られます。今イエスが神の指で悪霊を追い出しておられる事実は、強い人(サタン)が武装して自分の屋敷(世界)を守っていたが、「もっと強い者」であるイエスが世に来て、サタンの武装を解除し、捕らわれていた人々を解放しておられることを意味する、とこのたとえは語っています。

 「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」。(一一・二三)

 マルコはこのベルゼブル論争の最後に「聖霊を冒?する罪」の段落(マルコ三・二八〜三〇)を置いています。マタイはそれに従っています(マタイ一二・三一〜三二)。マルコははっきりと、イエスが「聖霊を冒?する者は永遠に赦されない」と言われた理由を、人々が「彼は汚れた霊に取りつかれている」と言ったからであるとして、そのつながりを明示しています。ところが、ルカは聖霊を冒?する罪を別の文脈に置き(一二・一〇)、別の語録でベルゼブル論争を締めくくります。
 この語録は二つのイメージを用いています。一つは、敵と味方に分かれて戦う戦争のイメージであり、もう一つは神の民の招集と離散です。「神の支配」の進展はサタンの支配との戦いです。この戦いにおいてどちらつかずはありえません。今神の指で悪霊を追い出しておられるイエスの側につくか、その働きを悪霊の頭によるものとして敵対するか、どちらかです。この語録でイエスは、そして最初期共同体は、ユダヤ人たちにイエスの側につくように呼びかけています。
 そして同時に、今神から遣わされて世に来られたイエスの呼びかけに呼応してイエスの陣営に集合しない者は、神が最終的に御自身の民を集めようとされている働きを妨げ、民を散らしていることになると警告します。