市川喜一著作集 > 第18巻 ルカ福音書講解U > 第6講

64 喜びにあふれる(10章21〜24節)

聖霊による喜び

 そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした」。(一〇・二一)

 弟子たちに何を喜ぶべきかを諭されたイエスは、続いて御自身の喜びを語り出されます。この文脈で「そのとき」というのは、福音告知の活動から帰ってきた弟子たちからイエスがその成果の報告をお受けになった時を指すことになります。「そのとき」、イエスはその成果はサタンの支配が打ち砕かれたことのしるし、すなわち神の支配到来のしるしであるとして、その現実を見る(体験する)喜びに溢れて語り出されます。
 その喜びは「聖霊による喜び」です。喜びにも様々な種類があります。大抵は外から来る喜びです。欲しいものが手に入ったとか、自分の願望を満たすものが与えられたとか、外の状況に依存した喜びです。しかし、喜びには別の種類の喜びもあります。すなわち外の状況に依存しない喜びがあります。何を取り去られても、何も与えられなくても、自分を取り巻く状況がどうであろうと関係なく、内から溢れてくる喜びがあります。信仰の喜びはそのような種類の喜びです。それは内にいます聖霊から来る喜びです。
 福音書でイエスが喜ばれたことを語る箇所はここだけです。喜びとか悲しみ、怒りとか失望など、人間の内なる感情は、直接のぞき見ることはできませんが、その人の表情とか仕草である程度は見ることができます。弟子たちは報告したときに示されたイエスの表情からイエスの喜びを感じて、このように伝えたのでしょう。このことを伝える弟子たちは、イエスの復活後聖霊を受けて、聖霊による喜びを体験していますから、イエスの喜びも聖霊による喜びとして語ることができました。聖霊は喜びの霊です(ガラテヤ五・二二)。弟子たちは、今自分たちが味わっている聖霊による喜びは、実はイエス御自身がもっておられた喜びに他ならないとして語ることができました。そのことをヨハネ福音書は、イエスが最後の夜に「わたしの喜びをあなたたちに与える」と言われた約束の成就であるとしています(ヨハネ一五・一一、一七・一三)。イエスが喜びの人であったことを見逃してはなりません。

啓示の出来事

 イエスの喜びは、天地の主である父が、「これらのこと」、すなわち知恵ある者や賢い者に隠されていた救いの奥義を、幼子のような者であるイエスの弟子たちに啓示された(啓(ひら)き示された)ことに対する賛美から来ています。ここで「隠す」《アポクリュプトー》と「示す(啓示する)」《アポカリュプトー》という(発音は似ていますが意味が)正反対の動詞が用いられています。前者は、覆いを掛けて隠すことであり、後者は覆いを取り除いて隠されていたものを顕わにすることです。神が隠し、かつ顕わにされるのです。ここにはその用語は出て来ませんが、神が隠しておられる秘密が「奥義」《ミュステーリオン》です。人間の救済に関わる神の御旨とか御計画は、賢者といわれる人たちが懸命に探求しても、神が隠しておられるのですから、知ることができない「秘密、奥義」でした。その奥義が今イエスの名によって福音を告げ知らせている弟子たちに、すなわちガリラヤの漁師など市井の民に、その福音の言葉によって神が働かれる出来事の中で「啓き示されている」のです。
 これは「御心に適うこと」でした。パウロも同じことを言っています。パウロは、「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする」という預言者の言葉(イザヤ二九・一四)を論拠として引用した上で、「知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる」と挑戦し、「神は世の知恵を愚かなものにされたではないか」と宣言します。世の知者・賢者が神の奥義を知り得ないのは、神が隠されたからだということになります。それで、「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教(福音の告知)という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」と続きます(コリントT一・一九〜二一)。福音を告知して、それを幼子のように信じる者を救うことが、神がよしとされる方法(=御心にかなうこと)なのです。それで、この神の救いの奥義を示されるのは、人間的に知恵や能力の高い者ではなく、無学な者、無力な者が多くなるのです(コリントT一・二〇〜三一)。
 このような福音活動の流れの中にいるルカは、パウロが語っていることは実はイエスから始まっているのだとして、このイエスの語録を伝えます。このイエスの喜びの声に、啓示という出来事の深い意味が響いています。啓示は知識の伝達ではありません。啓示は、それを受ける者の人間存在を根底から揺さぶるような出来事であり、神からの働きかけの出来事、存在の震撼を伴う体験です。使徒たちが証言する福音を幼子のように信じるとき、聖霊によって復活者キリストの栄光と、キリストにおける父の無条件絶対の恩恵が啓示され、わたしたちは喜びに溢れ、もはや以前の自分ではあり得なくなります。

父を知る者

 「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません」。(一〇・二二)

 イエスは続いて、この啓示の出来事において御自身がどのような位置を占めるのかを語り出されます。イエスは、「すべてのことは、父からわたしに任せられている」と宣言されます。この宣言は、復活者イエスにふさわしい宣言です。復活されたイエスは、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と宣言しておられます(マタイ二八・一八)。これまでに見てきたように、この「七十二人の派遣」の記事が復活後の弟子たちの体験から出ているのであれば、このイエスの宣言はマタイの宣言のルカ版ということになります。ルカ版では続いて、「すべてのことを父から任せられている」復活者イエスが、子として父を知り、父を啓示する唯一の者であることが語り出されます。
 この啓示の伝達を語るのに、ここでは世間での父親と息子の関係が比喩として用いられています。世間では父親は息子に家業とか技術のすべてを伝えて家業を継がせます。息子の能力とか人間を知り尽くしているのは、生涯をかけて息子を教えてきた父親だけであり、父親の実像とその価値を知る者はそのように父親の一切を継承した息子だけであり、またその息子が自分の父親を知らせようとして選んだ友人だけです。このような世間の父親と息子の関係を比喩として用いて、神が御自身を啓示しようとされるとき、イエスはご自分がこの息子の立場、すなわちただ一人神に知られ、かつ神を知る者として、世に神を啓示する者であると宣言しておられるのです。

この節が世間の父親と息子の比喩であることについては、J・エレミアス『イエスの宣教―新約聖書神学T』111頁以下の「第六節・啓示の伝達」を参照してください。

終末到来を見る者の幸い

 それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである」。(一〇・二三〜二四)

 「七十二人の派遣」に関わる区分の最後に、弟子たちだけに語られたイエスの語録が置かれて、この区分が締めくくられます。これまでに見てきたように、この「七十二人の派遣」記事が、復活されたイエスを見て、そのイエスによって派遣された弟子たちの体験を反映しているものであれば、ここで「あなたがたの見ているもの」とはイエスが復活されたことによって成就した終末の現実であり、「あなたがたが聞いているもの」とはそれを告知する声です。
 ここの「多くの預言者や王たち」は旧約の預言者たちやイスラエルの王たちを指しています。預言者たちは時代に向かって神の言葉を語りましたが、同時に終わりの時に実現する神の支配の栄光をはるかに望み見て、その到来を語りました。イスラエルの王たちは、部分的に、また一時的に神の支配を地上に打ち立てましたが、それも過ぎ去り、それが来るべき神の支配の予表に過ぎないことを、諸王の歴史が指し示しました。イスラエルの預言者や王たちは、神御自身が支配される「来るべき時代」の到来を味わうことは許されず、それを待ち望まざるをえませんでした。そのように、預言者たちや王たちがその到来を見たいと切望し、到来を告げる喜ばしい声を聞きたいと切に願っていたものがついに到来したのです。
 今、復活されたイエスに出会い、その栄光を拝し、そのイエスから遣わされて、復活者イエスがなされる力ある業を体験している弟子たちは、預言者たちによって約束され、王たちによって予表されていた終末の時代を体験しているのです。その現実を見ているのであり、その到来を告げる喜ばしい声を聞いているのです。それはなんと幸いなことか、とイエスは言われます。
 ところで、この語録が復活後の弟子たちの福音告知活動に関わるものであるならば、このような言葉を地上のイエスが語られたことはありうるのかという問題が生じます。それは、福音の使者を受け入れなかったガリラヤの町に対する断罪の言葉も同じです。イエス復活後の福音告知活動において、霊感を受けた預言者が、「アーメン、わたしはあなたたちに言う」という定式で、主イエスの言葉を語り、それが主イエスの言葉として共同体に伝承されたことは十分ありうることです(並行箇所のマタイ一一・一七にはこの定式が使われています)。では、どれが記憶によって伝えられた地上のイエスの言葉であり、どれが復活後の預言者による宣言であるのかは、正確に区別することは困難です。ヨハネ福音書において地上のイエスの言葉とヨハネ共同体の証言が「継ぎ目なく」重なっているように、共観福音書においても、地上のイエスの語録と、霊感を受けた預言者たちによって告知されたイエスの言葉は、「継ぎ目なく」重なっており、厳密に区別することは困難な場合があります。また、わたしたちの信仰にとっては区別する必要はないと思います。復活後の状況にいるわたしたちには、両方とも現在わたしたちに語りかけるイエスの言葉として受け取ることができるからです。ここの「見る目は幸い」は、ガリラヤの町への断罪の言葉と並んで、内容からして復活後の共同体が受けた啓示の言葉であると理解せざるをえませんが、わたしたちは福音書でそれを主イエスの言葉として読むことをためらいません。それは復活者イエスからの言葉ですから、イエスの言葉には違いありません。ルカもそのような意味で、これらの最初期共同体の伝承をイエスの言葉としてその福音書に書き留めたと考えられます。