市川喜一著作集 > 第18巻 ルカ福音書講解U > 第4講

62 悔い改めない町を叱る(10章13〜16節)

イエスを拒むガリラヤの町

 「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところでなされた奇跡がティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰の中に座って悔い改めたにちがいない。しかし、裁きの時には、お前たちよりまだティルスやシドンの方が軽い罰で済む」。(一〇・一三〜一四)

 コラジンは新約聖書ではここにだけに名を上げられている町で、その場所はどこにも記述されていませんが、すでにエウセビオスやヒエロニムスはカファルナウムから北へ二マイルほどのところだとしています。現在ではカファルナウムから北三キロのケラーゼという村であろうとされています。また、カファルナウムからガリラヤ湖北岸を東に五キロほど行ったところにベトサイダがあります。ベトサイダはガリラヤ湖東北岸の漁業の町であり、親ローマの領主フィリポスによってギリシア風の町として整えられていました。ベトサイダはペトロとアンデレとフィリポの出身地です。
 このガリラヤの町を断罪する段落(一〇・一三〜一六)は、マルコにはなく、マタイとルカがほとんど字句通りに同じ文を用いて伝えています。ということは、この段落は「語録資料Q」から出ていることを示しています。
 ところで、福音書には(もちろん「語録資料Q」にも)イエスがコラジンへ行かれたとか、コラジンで奇跡を行われたという記事はありません。イエスがベトサイダで行われた奇跡については、目の不自由な人をいやされた一例だけがマルコ(八・二二〜三六)にありますが、マタイとルカはこの記事を欠いています。マタイとルカが依拠した「語録資料Q」にこの記事はなかったのでしょう。そうすると「語録資料Q」は、イエスが奇跡を行われたことが知られていないコラジンとベトサイダについて、奇跡を見たのに悔い改めない町として激しい断罪の言葉を投げつけていることになります。
 この事実は、「語録資料Q」を生み出したパレスチナとシリアのユダヤ人の福音活動で、これらの町でイエスの名によってめざましい奇跡を行ったのに、イエスをメシアとして受け入れず、かえって彼らを迫害したことに対する、彼らの激しい断罪の言葉ではないかと推察させます。この推察は、次のカファルナウムについての言葉でいっそう強められます。

 「また、カファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ」。(一〇・一五)

 ガリラヤ湖西北岸のカファルナウムは、これまでに見てきたように、イエスのガリラヤでの福音活動の拠点です。イエスはここに住まいを定め、そこからガリラヤの各地に出向いて「神の国」の福音を告げ知らせる活動を進められました。カファルナウムでも行き先の各地でも多くの病人をいやされたので、その評判は高く、イエスが在宅されることが分かったときには、カファルナウムの人々が病人を連れてイエスのところに押し寄せてきていました。そのようなカファルナウムの民に向かって、イエスがこのような終末的な断罪の言葉を投げつけられたというのは理解困難です。
 カファルナウムを断罪するために引用されている「お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ」という言葉は、バビロンの滅亡を預言するイザヤの預言(イザヤ一四・一三〜一五)から取られています。マタイはこの引用の後に、「お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである」という言葉を続けています。ルカはこの「かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む」という文を、イエスから遣わされた使者を拒む町への裁きを宣言するところで用いているので(一〇・一一)、ここでは用いていません。とにかく、このような断罪の宣言はイエスの活動時期ではなく、復活されたイエスによって派遣された弟子たちを拒むようになったカファルナウムに対する言葉として理解可能になります。

使者を拒む町への断罪

 コラジン、ベトサイダ、カファルナウムなどに対する断罪の言葉について、マタイ(一一・二〇)は、「イエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた」と書いて、イエスの言葉として伝えています。それに対してルカは、イエスから遣わされた使者を拒む町に対する「かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む」という断罪の言葉(一〇・一一)の具体例として、コラジン、ベトサイダ、カファルナウムへの断罪を続けていることになります。「お前は禍だ」で始まるルカのテキスト(一三節以下)は、必ずしもイエスの言葉としてではなく、拒絶に出会った使者たちの嘆きの言葉として読むことも可能です。ルカの構成の方が、もとの「語録資料Q」の構成に忠実ではないかと推察されます。
 マタイは「イエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた」と書いていますが、コラジン、ベトサイダ、カファルナウムに向かって語られている言葉は、「叱る」とか、悔い改めを促すような勧告程度の言葉ではなく、「かの日」、「裁きに日」における断罪の言葉です。イエスがガリラヤで「神の国」の福音を告知されたとき、熱狂的にイエスを迎える民衆に(とくにカファルナウムの人々に)、イエスがこのような町全体を断罪するような言葉を投げつけられたとは想像できません。その点、ルカの構成が示しているように、復活されたイエスが遣わされる使者を拒む町に対する終末的な断罪を宣言する言葉として理解する方が適切です。
 イエスの復活後、パレスチナ・シリアの地でユダヤ人に復活者イエスをメシアとして宣べ伝えたユダヤ人の福音活動はきわめて強い黙示思想的な傾向を示しています。それで、その告知が拒絶されたとき、その町に突きつける断罪の宣言がきわめて強い黙示思想的終末審判の色彩を帯びることになります。
 ガリラヤの町に対する断罪の言葉が、イエスが行われた奇跡を見ながらイエスを信じなかった者たちへの断罪ではなく、イエスが派遣された使者の使信を信じなかった町への断罪であることは、これが使者を拒む町への対応の仕方を指示した言葉(一〇・一〇〜一二)と、使者の権威を語る次の一六節の言葉に囲まれて置かれている事実からも確認できます。

 「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである」。(一〇・一六)

 この言葉は、七十二人の使者を派遣するさいに語られた、使者を受け入れる町と拒む町への対応の仕方(一〇・一〇〜一二)の根拠を語っています。とくに、使者を拒んだ町に対する断罪(一〇・一三〜一五)の根拠を語っています。使者を受け入れる者は、使者を遣わした方(復活者イエス)を受け入れるのであり、使者を拒む者は、使者を遣わした方(復活者イエス)を拒んでいるのです。この原理が、使者を遣わされたイエスの言葉として語り出されています。そして、使者を拒むことによって、彼らを遣わされたイエスを拒むことは、イエスを世に遣わされた方、すなわち神を拒むことだとされます。このイエスこそ神から世に遣わされた方であるという宣言は、福音のもっとも基本的な告知です。ヨハネ福音書はこのことを繰り返し力をこめて語っていますが、これはヨハネ福音書を待つまでもなく、福音のもっとも基本的な告知の内容です。このことを告知する運動は、復活者イエスによって世界に派遣される使者によって行われますが、その使者に対する態度が復活者イエスに対する態度となり、ひいては神に対する態度となるという原理が掲げられ、派遣説教(一〇・二〜一二)の結びとなり、拒否する町への断罪(一〇・一三〜一五)の根拠とされます。

町単位の断罪

 ところで、このガリラヤの町々に対する断罪の宣言は、イエスのガリラヤ伝道のときの民衆の熱狂的歓迎からすると、そのあまりの落差の大きさに戸惑います。これをイエス復活後の弟子たちの福音告知の活動に対する拒否だとしても、わずか数ヶ月後の、あるいは一年か二年後のこの民衆の態度の豹変には驚きます。どうしてこのようなことが起こったのでしょうか。この疑問に答えるには、イエスの活動と復活後の弟子たちの福音告知の活動の間には、最高法院のイエスに対する異端判決があることに注目する必要があります。
 イエスのガリラヤにおける「神の国」告知活動は初めから厳しい監視の下に置かれていました。モーセ律法、とくに安息日律法に関するイエスの言動に不審の念をもった律法学者たちが、会堂だけでなくイエスの行き先々に現れ、イエスの言動を監視していたことが福音書に報告されています。その中にはガリラヤ在住の律法学者もいたでしょうが、福音書はとくにエルサレムから来た律法学者たちがイエスを監視したことを特記しています(五・一七、マルコ三・二二、七・一、マタイ一五・一)。
 この事実は、ヨハネ福音書(二・一三〜二二)が伝えるように、イエスがガリラヤで活動される前、まだ洗礼者ヨハネと共に活動しておられた時に、エルサレム神殿で神殿体制を批判する過激な象徴行為をされたので、最高法院はイエスを異端の疑いで見るようになり、ガリラヤに監視団を送ったと見ると理解しやすくなります。しかし、共観福音書が伝えるように、エルサレム神殿の象徴行為が最後の過越祭のときのことであったとすると、ガリラヤでのイエスの律法に関する言動がエルサレムに報告され、最高法院が監視団を送ったことになります。
 監視団はすでにガリラヤにおいてイエスに対する殺意を固めていましたが(マルコ三・六)、ヘロデの統治下のガリラヤで、しかも民衆が歓呼してイエスを取り囲んでいる状況では、イエスを逮捕することはできず、イエスが過越祭でエルサレムに来られたとき策略をもって逮捕し、異端の廉で最高法院の裁判にかけたのでした。
 最高法院はイエスを律法に対する重大な違反者として、またイスラエルの民に背教を唆す教師として死刑の判決を下します。しかし、当時ユダヤ教当局は死刑執行権を持っていなかったので、ローマ総督に引き渡し、属州民に対するローマの処刑法である十字架刑によって処刑します。処刑方法はともかく、ここでイエスがユダヤ教の最高法院によって死刑に値する律法違反者と判決されたことが重要です。
 イエスは最高法院によって、神を冒?する者、律法を汚す異端者、律法に背くようにユダヤ教徒を唆す異端の教師、民を背教に導く「脱落説教者」と判決されたのです。その結果、イエスをメシアとしたり、イエスを信じることを言い表すことは、イエスの異端に荷担することであり、異端容疑の対象となります。一つの町がイエスの教えを受け入れた場合、その町は「誘惑された町」として、最高法院の厳しい調査の対象となります。脱落運動が町の半数以下の場合は警告を受け、半数以上に達していれば即決の特別処置が始まります。その特別処置の規定は、住民は剣によって絶滅され、町そのものは住民の全財産とも焼却されるという激しいものです。
 安息日律法違反に対する死刑の規定のように、このような町全体に対する絶滅規定が文字通りに実行された例があるのかどうか知りませんが、少なくともこのような規定があるということは、当時のユダヤ教徒がどれだけ律法順守を真剣に考えていたかを物語っています。ここに名をあげられているガリラヤの町々、ベトサイダ、コラジン、カファルナウムなどは、最高法院から「誘惑された町」と判定されることを恐れて、イエスの異端判決以後では、たとえイエスが復活してメシアとして立てられたという告知を聞いても、もはやその使者と告知(福音)を受け入れることはできなかったと考えられます。それで、福音の使者たちから厳しい断罪の言葉を受けることになり、それがイエスの言葉として福音書に書きとどめられるようになったと考えられます。

この項の異端に関するユダヤ教の諸規定については、E・シュタウファー『エルサレムとローマ ― イエス・キリストの時代史』(荒井献訳・日本基督教団出版部)「第一〇章 ユダヤの異端律法」、とくに225頁の「集団脱落」の項を参照してください。本項では、その要点を引用しました。

イエス以後のガリラヤ

 イエスはガリラヤで育ち、ガリラヤで生活し、ガリラヤ人の弟子と共にガリラヤで「神の国」を告知する働きをされました。ガリラヤはイエスの恵みの言葉を聞き、その奇跡の働きを数多く見ました。イエスがその働きを進められた時期には、ガリラヤはイエスに対する賞賛に満ちていました。ガリラヤにはイエスを信じる多くの人がいたはずです。
 ところが、イエス以後の時代には、ガリラヤにおけるイエスを信じる運動については何も聞くことができなくなります。使徒たちはみなガリラヤ人ですから、イエスの復活後ガリラヤに行って復活されたイエスのことを告げ知らせたはずですが、ガリラヤにおける福音運動の存在については、ほとんど何も伝えられていません。イエスの故郷であり、イエスの働きの舞台であったガリラヤは、イエス以後の時代には、イエス運動の揺籃の地ではなく、ラビ・ユダヤ教の牙城として重要な意義をもつことになります。ガリラヤではイエス運動ではなく、ラビ・ユダヤ教が勝利を収めます。
 ユダヤ戦争のときには、ガリラヤはローマ軍とユダヤ人たちの激しい戦争の舞台となり、信者は各地に逃れたことでしょう。70年のエルサレム陥落後は、再建ユダヤ教の指導部となる学院(最高法院の後身)は沿岸地方のヤムニヤに移り、その後ガリラヤのティベリアスに移って、ミシュナの編纂などの事業を成し遂げ、ラビ・ユダヤ教の形成に重要な貢献をします。
 イエス以後の時代におけるガリラヤの状況について詳しく述べることは、福音書講解の枠を超えますので瞥見するにとどめますが、ここで見たように「ガリラヤの町々に対する断罪」の言葉が、イエス復活後のガリラヤの町の福音拒否を伝えているとすれば、これはイエス以後のガリラヤの状況を物語る有力な資料となることを指摘しておきます。