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第八章 七十二人の派遣

       ― ルカ福音書 九章五一節〜一〇章四二節 ―

はじめに

 ルカ福音書では、九章五一節からエルサレムに向かわれるイエスの最後の旅が始まります。そして、一九章二八節から始まる段落でエルサレムに入られることが語られるまで、ほぼ一〇章にわたってこの旅の記事が続きます。この部分は「ルカの旅行記」と呼ばれ、ルカ福音書の中心部を形成し、この福音書の特色を示す部分となっています。
 この部分は「旅行記」と呼ばれていますが、その内容を見ますと、イエスとその一行がガリラヤからエルサレムに向かう旅の出来事を語るところは僅かで、大部分はイエスの教えの言葉やたとえであり、ルカによるイエスの言葉の一大集成の観を呈しています。その中には、他の福音書にはないルカ独自のものが多く、ルカだけが持っている独自の資料(ルカの特殊資料L)が多く見られます。
 ではルカはどういう原理でこの部分を配置し構成したかは理解困難で、研究者の間で様々な意見があります。その一つ一つについて検討することはできませんし、必要もないでしょう。わたしたちは、受難の地エルサレムに向かわれるイエスと一緒に旅の途上にあることを念頭に置いて、ルカによってここに集められた順序に従って、イエスの教えの言葉やたとえに耳を傾けたいと思います。


59 サマリア人から歓迎されない(9章51〜55節)

サマリア人の拒否

 イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。(九・五一)

 イエスがエルサレムで逮捕され、ローマ人に引き渡されて処刑されるに至ったのは、イエスがユダヤ教徒として過越祭に行かれたときに、ガリラヤではできなかった逮捕と訴追がエルサレムではできるとして祭司長たちが決行したという成り行き、イエスにとって思いがけない成り行きの結果ではなく、イエス御自身の自発的な決意から出た出来事であることがここで明言されます。このように旅の初めに、それがイエスの決意によるものであることを明言するのは共観福音書の中ではルカだけです。この節を協会訳は、原文にある「顔を向けた」という表現に忠実に、「さて、イエスが天に上げられる日が近づいたので、エルサレムへ行こうと決意して、その方へ顔をむけられた」と訳しています。
 イエスご自身にとっては、これは死地に赴く決意であったのでしょうが、死の後に復活と昇天が続き、十字架の死と復活・昇天を一体の出来事として知っている共同体の理解に従い、ルカはそれを「天に上げられる時期」と記しています。

「近づく」と訳されている動詞は「満たされる」という意味の動詞ですから、ここは「天にあげられる(までの)日々が満ちようとしているので」と理解すべきかもしれません。

 そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。(九・五二〜五三)

 巡礼者がガリラヤからエルサレムに向かう道は二つあります。南に隣接するサマリアを通る道と、サマリアを避けてヨルダン川の東側を迂回する道です。サマリアを通る道の方が近いのですが、ユダヤ人はサマリア人と交際していなかったので、普通はヨルダン川東の遠い迂回路を行きました。しかし、イエスは南のユダヤと北のガリラヤを行き来するとき、あえてサマリアを通る道を選ばれました(ヨハネ福音書四章)。ここでもサマリアを通ってエルサレムに向かおうとされます。イエスはユダヤ教徒とサマリア教徒を差別することなく、同じように「神の国」を告げ知らせようとされます。
 「イエスは顔の前に使いの者を派遣された」(直訳)。この「顔の前に派遣された」という表現は七十二人を派遣されたところにも用いられており(一〇・一)、両方の箇所の関連をうかがわせます。「イエスのために準備する」というのは、普通は宿舎などの準備をすることですが、イエスのために「道備えをする」、すなわちイエスを受け容れるように、前もってイエスの名代として「神の国」を告げ知らせる働きを委ねられたと理解することも可能です。この使者を人々は「受け容れない」という動詞も、両方の箇所(九・五三と一〇・一〇)で同じです。
 使いの者たちが入ったサマリアの村人は、イエスの使者を迎え入れようとはせず拒否します。その理由として、「イエスの顔がエルサレムに向けられていたからである」(直訳)とされています。サマリアの村人たちは、イエスの一行がエルサレムに向かうユダヤ教徒の一団であることを知り、ユダヤ教徒に対する敵対意識から村に入ることを拒否します。それだけでなく、彼らはガリラヤにおけるイエスの評判を聞いており、イエスがユダヤ人のメシアとしてエルサレムに入城されることを阻もうとしたこともあるのかもしれません。イエスはユダヤ教徒とサマリア教徒の区別を超えておられますが、住民の方は宗教の違いという「隔ての中壁」に閉じこもったままです。

ルカはここで「顔を向ける」とか「顔の前に」という表現を用いていますが、これは旧約聖書によく出てくる表現であり、ルカが聖書的文体にこだわっていたことをうかがわせます。

 弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。イエスは振り向いて二人を戒められた。そして、一行は別の村に行った。(九・五四〜五六)

 使いの者たちの報告を聞いて弟子たちは腹を立てます。ユダヤ教徒である弟子たちは、サマリア教徒の相変わらずの敵意とイエスに対する侮辱に憤慨し、中でも気性の激しいヤコブとヨハネの兄弟は、天からの火で彼らを焼き滅ぼすことまで口にします。「天からの火を降らせ」という表現はカルメル山でエリヤがバアルの預言者と対決したときの情景(列王記上一八章)を思い起こさせます。それだけでなく、エリヤは実際王の出頭命令を伝えに来た兵士たちを「天から降ってきた火」で焼き尽くしています(列王記下一・九以下)。ヤコブとヨハネの念頭にはエリヤについてのこのような聖書の伝承があったのでしょう。事実、ペトロのメシア告白から山上の変容にかけて、しばしばエリヤのことが話題になり、イエスとエリヤの関係が取り上げられています。

ある写本には五四節の二人の言葉の最後に「エリヤがしたように」という句がつけられています。これは初期の有力な写本にはないので、後代の挿入とし底本には入っていません。しかし、このような写本の存在は、ここをエリヤの動機から理解する解釈が古くからあったことを示しています。

 このようなヤコブとヨハネの憤慨と性急な発言をイエスは「振り向いて戒め」られます。この後にある写本では、「そしてイエスは言われた、『あなたたちは自分が誰の霊のものであるかを理解していない』」という文が付けられています。有力な写本にはないので底本は入れていませんが、この文はこの段落の理解にとって示唆的です。たとえそれが聖書にあるエリヤのような有名な預言者の事蹟であろうと、それをそのまま模範とすることはイエスの霊に導かれる者にはふさわしくないことがあると教えています。聖書の文字通りの原理主義的理解は危険だということです。
 さらに五六節の最後に、「人の子は人々の命を滅ぼすためではなく、救うために来たからである」という解説的な文を加えている写本があります。これは、他のイエスの語録(一九・一〇、マルコ三・四、ヨハネ三・一七など)から、この場面でのイエスの行動の意義を解説する文として、後代に挿入されたものと考えられます。底本も入れていません。

イエスとサマリア

 「一行は別の村に行った」とありますが、その別の村がサマリアの村なのか、またはサマリア以外の村なのかは語られていません。先にも触れたように、以下の「ルカの旅行記」には具体的な旅の行程がほとんど触れられていないので、イエスとその一行がどこを通ってエルサレムに向かったのかは確認できません。ルカは実際の行程には関心がなく、この「旅行記」を、マルコの枠から離れて彼独自の福音提示をするための場所としているように見受けられます。ルカは、マルコにもマタイにもないルカ独自の資料(ルカの特殊資料)と、マルコにはないがマタイとは共通している資料(「語録資料Q」)をここに集中して用いて、イエスが告知された福音の内容と性格を際だたせようとしています。その目的のために、出来事の地理的な場所にこだわることなく、当然ガリラヤで起こったことと見られることでもこの「旅行記」の中で扱うことになります。
 このエルサレムへの旅は、エリコを通ってエルサレムに入っておられることからも、ヨルダン川の東側を迂回するユダヤ教徒の通常の巡礼路を行かれた可能性が高いのですが、ここに見るように、少なくともイエスは旅の初めにはサマリアを通ることを計画されたのですから、この機会にイエスのサマリアとの関わりについて触れておきます。
 ヨハネ福音書によると、イエスは洗礼者ヨハネと共にされた初期のユダヤでの活動を終えてガリラヤに行かれるとき、サマリアを経由しておられます(四章)。たんに通過するだけでなく、そこで教えを説き、イエスを信じる者が出ています。その後も、イエスは祭りの時にガリラヤとエルサレムを往復しておられます。この点では、エルサレムへの旅を最後の一回だけとするマルコよりも歴史的に正確だと考えられます。そのさい、すでに信じる者がいるサマリアを通られたことは十分可能性があります。そうすると、最後となるこの過越祭の旅においても、イエスがサマリアに入ろうとされたのは自然なこととなります。
 ところがマタイ福音書(一〇・五〜六)に、弟子たちを派遣するとき、イエスが「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」と言われたとする語録が伝えられています。ヨハネ福音書が伝えるように、イエスがサマリアでも伝道されたことが事実だとすると(それを疑う理由はありません)、この語録はどう受け取ればよいのでしょうか。
 おそらくある状況で、イスラエルの民に神の支配の到来を急いで告知する必要に迫られ、イエスがこのようにお命じになった言葉が、ユダヤ人の間での福音運動を担っている人たち(エルサレム共同体や「語録資料Q」の担い手たち)によって伝承され、最後にマタイ福音書に書きとどめられたのではないかと推察されます。この言葉は「語録資料Q」にあったのでしょうが、異邦人への福音告知を使命とするルカは、もちろんこの語録を用いていません。この語録がエルサレム共同体をはじめユダヤ人に対する福音活動を担った人々の間でも絶対的なものでなかったことは、イエス復活後にはエルサレム共同体がサマリアにペトロとヨハネを派遣して福音の働きを進めたことからも分かります(使徒言行録八章)。
 マルコ福音書とマタイ福音書にサマリアという名が出て来るのは、この「サマリア人の町に入るな」という一カ所だけです。それに対してルカ福音書は、異邦人(非ユダヤ教徒)向けの福音書にふさわしく、非ユダヤ教徒の代表としてサマリア人を称揚する傾向があります。イエスが隣人愛のモデルとして語られた「善きサマリア人」のたとえ話の主人公はサマリア人ですし(一〇・三三)、十人の「汚れとされる皮膚病」の人たちがいやされたとき、イエスのもとに帰ってきて感謝したのはサマリア人だけです(一七・一一〜一九)。ルカは、イエスがサマリアを通られたことを明言はしていませんが、サマリア人に対して好意的であったことを伝え、イエスがユダヤ教とサマリア教という宗教の区別を超えておられたことを指し示しています。ヨハネ福音書(四・二一〜二四)はこのことをイエスご自身の言葉として明白に語っています。

十人の「汚れとされる皮膚病」の人たちのいやしの記事の最初に、「イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた」という文があります。これは「ルカの旅行記」の途中で旅程に触れる唯一の記事ですが、その意味は不明で議論が続いています。おそらくこの文は旅程を示すものではなく、十人の「汚れとされる皮膚病」の人たちがユダヤ人とサマリア人が混じっている集団であったことを示唆するだけの文ではないかと考えられます。