56 再び自分の死を予告する(9章43節b〜45節)
謎の言葉
イエスがなさったすべてのことに、皆が驚いていると、イエスは弟子たちに言われた。「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている」。(九・四三b〜四四)
エルサレムに向かう旅の途上で、イエスがご自分の受難を予告された言葉が三回記録されていますが(九・二二とここと一八・三一〜三三)、ここに置かれている二回目の予告の文、「人の子は人々の手に引き渡される」という簡潔で謎めいた言葉が、イエスが語られたもともとの予告の言葉であったと考えられます。先に見たように、イエスが話されたアラム語では、人を指すのに「人の子」という表現が用いられました。それで、イエスは「人の子は人の子らの手に引き渡されようとしている」と語られたと推察されますが、その言葉はアラム語を母語とする弟子たちには「人は人々の手に引き渡されようとしている」という謎の言葉《マーシャール》になります。この謎の言葉を聞いた弟子たちの困惑と恐れが次のように記述されています。弟子の無理解
弟子たちはその言葉が分からなかった。彼らには理解できないように隠されていたのである。彼らは、怖くてその言葉について尋ねられなかった。(九・四五)
イエスはエルサレムに向かう旅の途上で、ご自身の受難を予告されましたが、それがこのような謎の言葉でなされていたため、弟子たちはその意味が理解できず、イエスのように神の力をもって大いなる奇跡を行い、メシアとして来られた方が殺されるようなことは、最後の最後まで予想することができませんでした。ルカは、そのような弟子たちの無理解を、「彼らには理解できないように隠されていた(=神が隠しておられた)のである」と書いて、神の計らいの結果であるとしています。弟子たちは、「引き渡される」という言葉が示唆する悲惨な結末を聞くのを恐れて、その言葉の意味をイエスに尋ねることすらできませんでした。これは、イエスがすでにご自分が殺されることを明白に語り出されたとする記事(九・二二)と矛盾するようですが、その時の弟子たちの実際の姿としては、イエスの謎の言葉に戸惑い恐れている姿が事実でしょう。