市川喜一著作集 > 第17巻 ルカ福音書講解T > 第47講

51 五千人に食べ物を与える(9章10〜17節)

荒れ野の五千人

 使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。(九・一〇)

 ガリラヤの各地に遣わされていた「使徒たち」は帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げます。イエスは彼らを連れ、自分たちだけで、民衆に気づかれないように、ひそかにベトサイダという町に退かれます。

十二人のことを「弟子たち」と呼んでいるマルコも、この箇所で珍しく《アポストロイ》という語を用いています(マルコ六・三〇)。しかし、これは「使徒たち」という称号ではなく、語の原意の「遣わされた者たち」と訳すべき場合でしょう。ルカは福音書においても十二人を「使徒」と呼んでいるのですから、ここも「使徒たち」という訳でよいことになります。

 弟子たちの報告を聞かれたイエスは、彼らを連れて「ひそかに」寂しいところに退かれます。マルコは「人里離れた所に行った」と語っていますが、ルカは「ひそかに」と「退く」という表現で、イエスが群衆を避けて、弟子たちとだけで過ごす時をもとうとされたことを示唆しています。このような行動の動機として、マルコ(六・三一)は弟子たちを休ませるためとしていますが、もっと重大な動機と目的があったのではないかと推察されます。おそらくイエスは、弟子たちの報告を聞いて、ガリラヤでの働きの時期が終わりを迎え、いよいよエルサレムに上る時が近づいたことを悟り、それまでに弟子たちに御自身に関する奥義を伝えておく必要を感じて、弟子たちとだけで過ごすことができる寂しい場所に行こうとされたと考えられます。
 イエスと弟子たちがひそかに退いた先として、ルカだけがベトサイダという地名をあげています。もっともマルコも、五千人に食べ物をお与えになった出来事の後、弟子たちをベトサイダへ先に行かせ、後からイエスも湖の上を歩いて行かれたと伝えて、その地名をあげています(マルコ六・四五以下)。イエスが結局はベトサイダに行かれたという事実を、ルカはそれまでの経緯を省略して記述しています。
 ベトサイダは「アンデレとペトロの町(出身地)」であり(ヨハネ一・四四)、イエスがおもに活動されたカファルナウムなどガリラヤ湖西岸からすれば対岸になる湖の東北岸に位置します。イエスは弟子たちを連れてベトサイダの町に行かれたのではなく、その方面の「人里離れた所」(九・一二)に行かれたのです。

 群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。(九・一一)

 ところが、ひそかに行かれたにもかかわらず、群衆はそのことを知ってイエスの後を追います。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやす活動をされます。イエスは、この招かれざる客である群衆にも、彼らが「飼う者のない羊の群れ」であることを憐れまれて(マルコ六・三四)、懇切に神の恵みのことを語り、病人をいやされます。そのような働きを続けておられる間に、夕暮れが迫ってきます。

 日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れたところにいるのです」。しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」。彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり」。というのは、男が五千人ほどいたからである。(九・一二〜一四a)

 五千人というのは大変な数の群衆です。そのような大群衆が夜の荒れ野に放置されたら大混乱が起こることは目に見えています。弟子たちがイエスに群衆を解散させるように求めたことも当然です。その求めに対してイエスは、弟子たちが群衆に食べ物を与えるように指示されます。イエスは弟子たちがそんなに多くの食べ物を持ってきていないことは十分知っておられます。イエスは、信じる者たちの群れを養うことは弟子たちの責任であるが、それを成し遂げるのは自分の持ち物(能力)ではなく、神が為してくださることであると教えるために、そのように命じられたと考えるべきでしょう。

マルコとヨハネは「二百デナリオン」のパンでも足りないと具体的な数字をあげたり、ヨハネは一人の少年がパンと魚を持っていたとしていますが、ルカとマタイはそのよな細部は略して物語を簡潔にしています。

 イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二篭もあった。(九・一四b〜一七)

マルコは魚も分配されたことを別記し、残ったものも「パンの屑と魚の残り」としていますが、ルカは(マタイとヨハネも)残りをパンだけにしています。この違いは信仰上は問題ではありませんが、共観福音書の成立史においては問題を提起しています。

 ここで一体何が起こったのか、これは通常の人間の理解を超えています。「イエスは・・・裂いて弟子たちに渡し」と「すべての人が食べて満腹した」との間には、理解することも記述することもできない深い淵があります。この記事の意義を理解するには、この出来事を目撃して証言した人たち(使徒たち)や、このような物語を語り伝えた人たち(キリスト信仰共同体の人たち)や、それを福音書に書き記した人たち(ここではルカ)の信仰への共感から理解するしかありません。このような記事に直面するわたしたち一人ひとりが自分の信仰の問題として受け取ることが求められます。以下にわたしの個人的な理解を述べておきます。

「パンの奇跡」は何を指し示すのか

 まず荒れ野に男が五千人も集まったという事実から出発しましょう。マルコ(六・四四)の「男五千人」に、マタイ(一四・二一)は「女と子供を別にして」という句をつけて、その群衆が女子供を含む一般の民衆であるという印象を与えていますが、ルカはマルコの通り「男五千人」としています。ヨハネ(六・一〇)も「男五千人」としています。マタイにはその群衆を女と子供を含む一般民衆とする動機がありますから、事実はマルコとルカが伝えているように「男五千人」と見るべきでしょう。「人里離れた」荒れ野に女と子供を含む五千人以上の群衆が集合することは考えにくいことです。
 この事実を当時のガリラヤの状況を背景として見ると、重大な意味が浮かび上がります。当時のガリラヤは、先に「ガリラヤの歴史と社会」で見たように、六年の「ガリラヤのユダ」の蜂起以来、メシア運動が盛んになってきていました。これは、ガリラヤのユダが説く律法への熱意から、異教ローマの支配を覆してユダヤ教律法が支配するユダヤ人国家の樹立を目指す運動です。その運動は、ローマに対する武力闘争も辞さず、霊的カリスマの豊かな預言者的人物が現れると、その人物をメシア(約束されたイスラエルの解放者)として戴き、全ユダヤ人を糾合して反ローマの全面的な抵抗運動に発展する可能性を孕んでいます。これは、ローマの後ろ盾によって権力を保持している領主ヘロデにとっては脅威です。事実ヘロデは、洗礼者ヨハネの運動がそのようなメシア運動になることを恐れて、彼を処刑したのでした。
 ヘロデはヨハネを処刑した後に、彼以上に民衆から広く慕われているカリスマ的な預言者の出現のうわさを聞き、不安にかられます(九・七〜八)。彼はその人物についての情報を懸命に集めたことでしょう。そしてその結果、ヘロデはその噂の主、イエスを殺す決意を固めます(一三・三一)。イエスはすでにガリラヤ中を巡り歩いて「神の国」の近いことを宣べ伝えておられます。また弟子たちを派遣して、御自身と同じカリスマ的なしるしをもって「神の国」の接近を告知されました(九・一〜六)。今やガリラヤ中にイエスの名は響き渡っています。もしイエスが招集の号令をかけられるならば、多くの人たちがはせ参じたことでしょう。
 イエスは号令を発するのではなく、弟子たちだけを連れて「ひそかに」荒れ野に退かれました。しかし、ガリラヤの民衆は待ちきれませんでした。「ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」、「エリヤが現れたのだ」、「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」と言って、イエスに対する期待は燃え上がっていました(九・七〜八、九・一八〜一九)。彼らはイエスが荒れ野に行かれたことを知って、今こそその時だとして後を追ったのではないかと考えられます。荒れ野こそ預言者が、そしてメシアが現れる場所です。もちろん、このようなメシア運動にはせ参じるのは男だけです。「人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした」(マルコ六・四〇)のも軍隊組織を連想させます。
 このように見るのは全くの推察だけではありません。その出来事の時代に生きた福音書の著者の一人がそう見ているのです。ヨハネは次のように書いています。

 そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。(ヨハネ六・一四〜一五)

 ここの「イエスのなさったしるし」はパンを増やされた奇跡を指していますが、民衆はそれまでにもすでに十分イエスのしるしを見ています。そして、「この人こそ、世に来られる預言者である」との期待が燃え上がっています。荒れ野に退かれたイエスをこのように大勢の男が追ってきたのは、イエスを「王にするため」、すなわちイエスをメシアとして戴いてローマに対する抵抗運動ののろしを上げるためであったとこの福音書の著者は書いているのです。
 ところが、イエスは期待に燃える民衆を放置して、「ひとりでまた山に退かれた」のです。イエスはこのような「メシア」として世に来られたのではないのです。イエスは、神が自分に与えた使命は、このような地上の権力を用いる解放運動のためではないことを十分自覚しておられました。イエスを神の召しから引き離して、権力による地上の闘争へと誘う誘惑は、イエスの生涯を通してつきまといました。イエスがそのような誘惑と絶えず戦われたことは、「荒れ野の誘惑」の記事を初め、福音書のところどころに垣間見ることができます。ここでも民衆の期待の中にそのような誘惑を見て、イエスはそれを厳しく退け、ひとりで山に退かれます。
 集まった「男五千人」は失望落胆します。群衆だけでなく、それまでイエスにつき従ってきた弟子たちも失望します。「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」のです(ヨハネ六・六六)。このガリラヤの荒れ野での出来事は、イエスの活動の転機となります。イエスのガリラヤでの活動がその頂点に達したところで、イエスを「王にしようとした」ガリラヤの民衆から離れて、ひとりで受難の地エルサレムに向かわれます。この時イエスのもとから去らなかった十二人の弟子だけ(ヨハネ六・六八〜六九)を連れて旅立たれます。
 ほぼこのような出来事が、ガリラヤの荒れ野で起こったのではないかと推察されます。この出来事は、それを目撃した十二人の弟子たちを通して最初期の共同体に語り伝えられます。最初期の共同体は、「主の晩餐」と呼ばれる共同の食卓で、十字架につけられて死に、三日目に復活して高く上げられて主とされたイエスを礼拝する小さな集会を拠点として活動していました。その食卓では、「これはわたしの体、わたしの血である」という最後の晩餐のときのイエスの言葉が繰り返され、その言葉によってパンを裂き、ぶどう酒の杯を回していました。そのような集会で語り伝えられる荒れ野での出来事の物語が、この食卓の描写や言葉と重なるのは自然な成り行きです。
 この荒れ野での出来事を伝える記事を主の食卓における復活者イエスの現臨を語る記事として読むとき、そこで裂かれて分配されているのは、もはやパンと魚ではなくイエスご自身であることが分かります。イエスはすべての民のためにご自身を捧げ、あがないのための死という神のみ旨にご自分を渡されたのです。こうして民の罪のために十字架の上に血を流されたイエスは、使徒たちの福音告知の言葉を通して、限りなくすべての民に分かち与えられ、それをいただく者に復活されたイエスの命が満ち溢れています。聖霊の分与によって復活者イエスの命をいただく者は「満腹します」。復活のイエスの命の波及には限度はありません。こうして、地上のイエスを語ることによって復活のイエスを告知するという福音書の二重性は、この記事においては、イエスと民衆との悲劇的な決裂という歴史的出来事が、主の食卓における復活者の現臨という福音の中心主題の中に呑み込まれているという形で示されることになります。

このように、地上のイエスの働きを語り伝える記事と復活者キリストを告知する福音の言葉が重なる「福音書の二重性」については、拙著『マルコ福音書講解U』の「終章」、とくに348頁以下の「食卓での顕現」の項を参照してください。

 イエスが僅かのパンと魚を群衆に分配しようとされたときに、何らかの不思議な現象が起こったことは十分ありうることです。しかし、わたしたちにはもはや、ガリラヤの荒れ野で実際に起こったことを確認する手がかりはありません。目の前の福音書の記事は、このような信仰の場で語り伝えてこられた信仰告白の記事です。それを語り伝えたパレスチナ・ユダヤ人の共同体は聖書(旧約聖書)に親しみ、壺の粉と瓶の油が使っても使っても尽きなかったというエリヤとサレプタのやもめの話(列王記上一七・八〜一六)や、エリシャが貧しいやもめの一瓶の油で多くの空の瓶を満たした話(列王記下四・一〜七)、またエリシャが僅かのパンで百人の人を満腹させ、食べ残しがあった話(列王記下四・四二〜四四)などをよく知っています。何よりもモーセが荒れ野で天から食べ物(マナ)を降らせて民を養ったことを信じています。彼らは使徒から伝えられた荒れ野での出来事を、預言者以上の方であるイエスが、彼らが行ったこと以上のことを行われた出来事として語り伝えていきます。
 このような信仰の語りにおいては、「パンと杯」と「パンと魚」の組み合わせの違いや、魚も「裂く」対照になっているなどの細かい矛盾は問題になりません。さらに、「残ったパンの屑を集めると、十二篭もあった」と、福音が世界の諸民族を集めて神の民とすることが「十二」というイスラエルの民を象徴する数で表現されることにもなります。
 また、この伝承を福音書という文書に書きとどめるとき、福音書記者たちはこの荒れ野での出来事を、イエスが「飼う者のない群れ」のような状態の民衆を憐れまれた場面として描きます(マルコ六・三四)。この傾向をもっとも明確に示しているのはマタイです。マタイは、マルコの「男五千人」に「女と子供を別にして」という句をつけて、その群衆が女子供を含む一般の民衆であると明記し、イエスが民衆を憐れまれた出来事として描きます(マタイ一四・二一)。
 こうして、この荒れ野の群衆の記事は、目撃者の証言、語り伝えた共同体の信仰、福音書記者の意図が重なって、その重なりの中で復活者イエス・キリストの福音を世界に告知していることが理解できます。

ヨハネ福音書はこの荒れ野での出来事を舞台にして、復活者イエスを「天から降った命のパン」であるとする壮大な対話編を仕上げています。ヨハネが理解し世界に提示する「パンの奇跡」の解釈については、拙著『対話編・永遠の命 ― ヨハネ福音書講解T』の第六章「いのちのパン」を参照してください。

ルカの省略

 ルカは荒れ野の集まりの記事の後、イエスが湖上を歩かれた出来事や、弟子をつれてティルス、シドン、デカポリス地方に行かれた旅や、もう一度四千人に食べ物をお与えになったことを伝えるマルコ(六・四五〜八・二六)の長い記事をすべて省略して、五千人に食べ物をお与えになった出来事の直後にペトロの告白を続けています。ルカはマルコ福音書に基づいて書いていると考えられるので、なぜこのような大きな部分を省略したのか、その理由とか意図を考えてみざるをえません。もっともこれを省略と見ないで、ルカはマルコに基づいて書いているという仮説(二資料説)を見直す材料にすることもできます。しかし、ここでは省略と見て、その理由を考え、ルカの特色を考察します。
 まずルカは、対岸の地の荒れ野に行かれるとき、弟子たちを先に舟で行かせ、舟が嵐で漕ぎ悩んでいるとき、湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれたという「湖上歩行」の記事(マルコ六・四五〜五二)を省略しています。この「湖上歩行」の記事は、本来は復活されたイエスの顕現の出来事を、地上のイエスの働きの期間に組み込んだものであることを、前著『マルコ福音書講解T』で詳しく論じました。ルカも復活されたイエスが湖上で嵐のために漕ぎ悩んでいる弟子たちに現れたという伝承を知っていたのでしょうが、それをマルコのように地上のイエスの物語に組み込むことを必要と考えなかったか、あるいは適切と考えなかったのでしょう。
 復活されたイエスの顕現の記事を地上の働きの期間に組み込むことはルカもしています。先に見たように、奇跡的な大漁の記事(五・一〜一一)はもともと復活されたイエスがガリラヤ湖畔で顕現された記事(ヨハネ二一・一〜一四)をペトロたちの召命記事として組み込んだものでした。ですから、ルカがこのような組み込み自体を不適切としたとは考えられません。むしろ、水の上を歩くという当時の知識人にはあまりにも荒唐無稽と感じさせ、つまずきを与える記事を入れることは避けたのではないかと推察されます。
 次ぎにルカは、イエスが弟子たちだけを連れて北方の異教の地であるティルスとシドンやデカポリス地方に行かれた旅を省略しています。この旅の意義については前著『マルコ福音書講解T』で見ましたが、おそらくルカは、このような記事は異邦人読者には必要がないと考えたのでしょう。その中に含まれるシリア・フェニキアの女の物語(マルコ七・二四〜三〇)も、イエスが異邦人に厳しい態度を示された面があるので避けたかったのかもしれません。この旅の記事に含まれる段落で必要なもの(たとえば清めに関する論争など)は、ルカは他のところで用いています。
 イエスが再び荒れ野で四千人に食べ物をお与えになったというマルコ(八・一〜一〇)の記事をルカが省略した理由は、比較的容易に推察できます。ルカは、マルコに見られる重複記事を一つにまとめて簡略にしていますが、ここもその典型的な例です。もともと五千人に食べ物を与えた記事と四千人の場合の記事は、一つの出来事が別々の経路で伝承され、それがマルコでは別々の出来事として書き記されたものと考えられます。したがって、ルカがそれを一つの出来事としたのは当然です。
 このように、ルカは基本的にはマルコ福音書に従いながらも、自分の著作意図や構想に従って大胆に省略や簡略化をしています。それは、自分が持っている特殊な伝承を多く入れて、自分の著作意図を十分に達成するために、彼独自の構想を貫こうとしたからでしょう。