市川喜一著作集 > 第15巻 対話編・永遠の命T > 第20講

第二節 真理は自由を与える

28 真理は自由を与える (8章 30〜38節)

 30 これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。 31 そこでイエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたたちがわたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子であり、 32 真理を知るようになる。そして、真理はあなたたちを自由にするであろう」。 33 彼らはイエスに向かって答えた、「わたしたちはアブラハムの子孫である。今まで誰の奴隷にもなったことはない。どうしてお前は『あなたたちは自由になるであろう』などと言うのか」。 34 イエスは彼らにお答えになった、「アーメン、アーメン、わたしはあなたたちに言う。罪を行っている者はみな、罪の奴隷である。 35 奴隷はいつまでも家にとどまることはないが、子はいつまでもとどまる。 36 だから、もし子があなたたちを自由にするならば、あなたたちは真に自由になるであろう。 37 あなたたちがアブラハムの子孫であることは分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉があなたたちの中に入っていないからである。 38 わたしは父のみもとで見たことを語っている。そして、あなたたちは父のところで聞いたことを行っている」。

真理と自由

 これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。(三〇節)

 この節は、先の段落(二一〜二九節)の結びとして読むこともできます(RSVや新共同訳など多数)。ヨハネ福音書では、「イエスを信じた」という表現が内容の区切りとして現れることがよくあります(二・二二、七・三一、一二・一一)。しかしここでは、「イエスを信じた」ユダヤ人に対する論争が(次節から)始まっているので、底本の区切り方に従って、ここから新しい段落が始まっているという理解で訳しています。

 そこでイエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたたちがわたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子であり、真理を知るようになる。そして、真理はあなたたちを自由にするであろう」。(三一〜三二節)

 ここで「イエスを信じたユダヤ人たち」と言われているユダヤ人とはどのようなユダヤ人であるのかが困難な問題となります。このユダヤ人たちが、イエスの言葉にとどまることによって本当の弟子になった者でないことは、三三節以下の対話によってすぐに明らかになります。著者ヨハネがこの「イエスを信じたユダヤ人」で、どのグループのユダヤ人を指していたのか確定することは困難ですが、おそらく最後までユダヤ教の枠の中に堅くとどまったユダヤ人信徒を指すのでしょう。ヨハネ共同体はこのようなユダヤ人信徒のグループと厳しく対立し、彼らを論駁するために以下のような議論をすることになったと考えられます。この「イエスを信じたユダヤ人」との対話は、ここから五九節まで、よくまとまった論争物語を形成しています。

私市元宏『ヨハネ宗団の背景についての一考察』(季刊『コイノニア』41号)は、「この時期のヨハネ宗団について」綿密な考察を加え、この箇所(三一〜五九節)の論敵として可能性がある四つのグループをあげて、問題の複雑さをうかがわせています。1 イエスをメシアと信じたがなおユダヤ教会堂にとどまっているユダヤ人、2 エビオン派のユダヤ人(マタイ福音書だけを受け入れ、割礼を施し、パウロを背信者として拒否したユダヤ人)、3 ケリントス派のユダヤ人(旧約聖書の神をデミウールゴスとするグノーシス主義のユダヤ人)、4 サマリア教徒。ここで著者が論争する相手がどのグループであるかを特定できませんが、この福音書の論争がイエスに敵対するユダヤ教会堂勢力だけでなく、イエスをメシアと告白するユダヤ人陣営内部にある対立的勢力との論争も強いられて、「議論はしばしば渦を巻くように錯綜してくる」(私市)ことになります。その結果、この箇所はヨハネ福音書の中でももっとも理解が困難で、問題が多い箇所になります。

 ここでイエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに、「もしあなたたちがわたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子であり、真理を知るようになる」と言っておられます。このことから、ここでは著者は、「イエスを信じる」ことと「本当にイエスの弟子である」こととを区別していることが分かります。他の箇所では、「イエスを信じる」ことが直ちに永遠の命であると言われていますが、ここではイエスをメシア・キリストと言い表す者たちの陣営にいるという意味だけで用いられており、その陣営の中で、本当にイエスの弟子である者とそうでない者の区別が語られることになります。
 「本当の弟子」とそうでない者の区別は、「イエスの言葉にとどまる」かどうかにあります。ところで、「とどまる《メノー》」という動詞は著者特愛の用語で、新約聖書の他の文書に比べてヨハネ文書(ヨハネ福音書とヨハネ書簡)に圧倒的に多く用いられています。そして、多くの場合、「あなたたちがわたしの内にとどまる」とか「わたしがあなたたちの内にとどまる」というように、人格的・霊的結びつきと内住の現実を指しています(たとえば一五・四〜一〇など多数)。
 ここでは「わたしの言葉にとどまる」と言われていますが、これは「わたしの内にとどまる」と同じであると見ることができます。ここの「言葉」は複数形ではなく単数形です。しかも、単純な「わたしの言葉に」ではなく、「わたしのものである言葉(ロゴス)の内に」という特殊な表現になっています。すなわち、これはイエスが語られた諸々の戒めの言葉を守るという意味ではなく、復活者イエス御自身である《ロゴス》に結ばれて歩む現実を指していると見られます。
 ヨハネ福音書の「わたしの内にとどまる」は、パウロの「キリストにあって」と同じです。ヨハネ福音書の「わたし」は復活者キリストを指しているからです。したがって、ここの「本当の弟子」とそうでない者の区別は、ただ口先でイエスをキリストと言い表している信者と、御霊によって現実に霊なる復活者キリストと結ばれて生きている者の違いであると言えます。
 イエスの内にとどまることによって「本当の弟子」となるならば、「真理を知るようになる」、とヨハネ福音書のイエスは言われます。「真理」《アレーセイア》は、ヨハネ福音書特愛の用語の一つです。共観福音書のイエスの宣教においては、その内容を指すのに「真理」という用語は出てきません。パウロでは「真理」は、「福音の真理」とか「真理に従う」というような形で用いられていますが、まだ(義とか和解、自由とか命というような)キリストにある救済の現実を指す中心的な位置を占めるには至っていません。ヨハネ福音書になって「真理」は、キリストにおける救済の事態を指し示すさいの中心的な用語になってきます。
 ヨハネ福音書における「真理」は、キリストにあって神が啓示し、かつ与えてくださる霊的次元の現実(リアリティー)であると理解してよいでしょう。復活者キリストであるイエスは「恵みと真理」に満ちた方であり(一・一四)、この方が世に来られたことによって「恵みと真理」が世に現れたのでした(一・一七)。ヨハネ共同体にとって、イエスは恩恵と真理の体現者であり、救いとはイエスにおいて与えられている恩恵と真理を受け取ることです。復活者イエス・キリストこそ「道であり、真理であり、命である」方です(一四・六)。ヨハネ福音書の「真理」は命そのものです。
 神とかかわる場における霊的リアリティーは、神の御霊によって実現するものですから、「真理」はいつも御霊と一組で語られることになります。御霊は「真理の御霊」と呼ばれ(一四・一七)、この御霊がわたしたちを「真理」に導き入れてくださるのです(一六・一三)。御霊によって真理に導き入れられ、その場で父との交わりに生きること、すなわち「御霊と真理にあって父を礼拝する」ことこそ、父が求めておられる「まことの礼拝」です(四・二三)。
 ヨハネ福音書において「真理」はこのように救済の現実を指し示す中心的な用語ですから、真に復活者イエスとの交わりに生きる者が受ける境地が「真理を知る」と表現されることも理解できます。この場合の「真理を知る」は、頭で「知る」(第三者として認識する)のではなく、神との現実のかかわりに入り、そのリアリティーを体験するという意味です。
 ここでイエスは「そして、真理はあなたたちを自由にするであろう」と言われます。ここでは真理が「自由」をもたらす源泉とされています。この節では「自由にする、解放する」という動詞が用いられていますが、「自由」という用語が現れるのは、ヨハネ福音書ではこの段落(八・三〇〜三八)だけです。
 「自由」とか「解放」(両者はギリシア語では同じ語です)を救済の中心において福音を語ったのはパウロです。ガラテヤ書やローマ書に見られるように、パウロは救済を罪と死からの解放、また律法からの解放として語りました。パウロにおいては、キリストにあって罪と律法の支配から解放されて自由になることが救済でした。他では自由について語ることのないヨハネ福音書が、ここでは「真理はあなたたちを自由にするであろう」と、パウロ的な主題を取り上げていることになります。

アブラハムの子孫

 彼らはイエスに向かって答えた、「わたしたちはアブラハムの子孫である。今まで誰の奴隷にもなったことはない。どうしてお前は『あなたたちは自由になるであろう』などと言うのか」。(三三節)

 ここに用いられている「自由にする」または「解放する」という動詞は、一般に奴隷を解放することを指すのに用いられている動詞です。当時の社会環境では、これを聞いた者が奴隷の解放のことが語られていると理解するのは自然なことです。イエスの言葉を聞いたユダヤ人たちはそう理解して、「今まで誰の奴隷にもなったこともないのに、どうして解放されるであろうなどと言うのか」と抗議します。ここでも、イエスは霊的な次元の出来事を(奴隷解放の比喩で)語っておられるのに、聞く者は地上の人間的な体験の次元で理解している、というすれ違いが起こっています。
 ユダヤ人は、自分たちはアブラハムの子孫であり、アブラハムとその子孫に神から与えられた契約(約束)を受け継ぐ者(創世記一七・七〜八)であることを誇っていました。ユダヤ教徒は自分たちの特権と特別の立場を「アブラハムの子孫」という標語で誇っていたのです。この箇所(八・三〇〜五九)のひとまとまりの論争には、アブラハムの名が繰り返し現れ、議論は「アブラハムの子孫」であることをめぐって行われます。パウロもガラテヤ書三章で、アブラハムの子孫であることをめぐってユダヤ主義者と論争しています。この箇所は、「自由」という主題と「アブラハムの子孫」であることをめぐる論争で、パウロ的な色彩が強く出ています。
 ユダヤ人は、自分たちはアブラハムの子孫であるから、「今まで誰の奴隷にもなったことはない」と自負しています。アブラハムの子孫であるイスラエルの民も、エジプトやアッシリア、またバビロニアやペルシャ、ローマなどの諸強国に支配され、奴隷的な境遇を甘受してきました。しかし、契約を受け継ぐアブラハムの子孫として、直接神に所属し、神以外の誰にも奴隷として所属して仕えたことはないという宗教的自負があり、また、個人的に奴隷になったことはないという社会的身分の誇りからの発言でもあるのでしょう。ユダヤ教徒は、イエスを信じたユダヤ人を含め、自分たちが律法の奴隷であり、それは罪の奴隷であることを自覚していません。

 >イエスは彼らにお答えになった、「アーメン、アーメン、わたしはあなたたちに言う。罪を行っている者はみな、罪の奴隷である」。(三四節)

 自分たちはアブラハムの子孫であり奴隷ではないと自負しているユダヤ人に向かって、ヨハネ共同体は「あなたたちは奴隷だ」と断定します。この宣言の重大さを強調するために、この宣言は「「アーメン、アーメン、わたしはあなたたちに言う」という荘重な定式が用いられます。
 「罪を行っている者」の「罪」は単数形です。「罪(単数形)を行う《ポイエイン》」とは、罪の中に生きていること全体を指します。個々の律法規定に違反する行為を指す「罪(複数形)を犯す」とは違います。罪の中に生きている限り、ユダヤ教徒であろうが何教徒であろうが、みな等しく「罪の奴隷」だと宣言します。

「罪」という語の用例については、八章二四節の注を参照。

 「罪を行っている者」は、罪(単数形)の力に支配され、引きずられて罪の中に生きているのであるから、罪の力の支配下にある者、すなわち「罪の奴隷」であるとされます。人間は、異邦人もユダヤ人もすべて「罪の力の支配下にある」ことを強調し、生まれながらの人間はみな「罪の奴隷」(ローマ六・一七)であるとしたのはパウロです。ヨハネ(あるいはヨハネ共同体)がパウロを直接知り、その思想を受け継いでいるのかどうかは議論がありますが、ここの「罪の奴隷」という理解は、パウロの延長線上にあると言えます。

 「奴隷はいつまでも家にとどまることはないが、子はいつまでもとどまる。だから、もし子があなたたちを自由にするならば、あなたたちは真に自由になるであろう」。(三五〜三六節)

 パウロも「奴隷はいつまでも家にとどまることはないが、子はいつまでもとどまる」ものであることを、二人の女の比喩で語っています(ガラテヤ四・二一〜五・一)。当時の奴隷制社会の実情を比喩として用いて、パウロもヨハネも同じように、罪や律法の奴隷である者は父との交わりにとどまることはできないのであって、奴隷状態から解放されて真に自由になった者だけが父の家にとどまることができるという原理を明らかにします。その上で、「子が自由にする」方であることを語ります。
 人を罪の奴隷から解放するのはキリストですが、ここの文脈では、そのキリストが「いつまでも(父の)家にとどまる」資格のある「子」として、奴隷の解放を行うことが強調されます。「子が解放する」ことによって、解放された者は、子と一緒に「いつまでも父の家にとどまる」者となるのです。子と一緒にいつまでも父の家で父との交わりに生きるようになることで、完全に奴隷の身分からの解放が実現します。

 「あなたたちがアブラハムの子孫であることは分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉があなたたちの中に入っていないからである」。(三七節)

 ユダヤ人がアブラハムの血統を受け継ぐ子孫であることは事実です。そのアブラハムの子孫であることを誇る民ユダヤ人が、アブラハムへの約束を成就するために来た方を殺そうとしているのです。イエスが地上におられる時の発言として「殺そうとしている」と未来形で語っていますが、著者ヨハネはユダヤ人がすでにイエスを殺した事実を知っています。アブラハムの子孫たちが、「アブラハムの子孫」であるキリスト・イエス(ガラテヤ三・一六)を殺したのです。ここに救済史の秘義があります。
 「イエスを信じたユダヤ人」も、御霊によって生まれることなく律法の文字に生きている限り、律法を超えているイエスを理解できず、律法を汚す者として殺そうとします。「イエスを信じたユダヤ人」も、律法に固執する限り、イエスを憎む点で他のイエスを信じないユダヤ人と同じになります。「イエスを信じたユダヤ人」である「ユダヤ主義伝道者」がパウロを抹殺しようとしたのも同じ線上にあります。「肉によって生まれた者は、霊によって生まれた者を迫害する」(ガラテヤ四・二九)のです。
 なぜこのようなことになるのか。著者は論争相手の「イエスを信じたユダヤ人」に向かって、それは「わたしの言葉があなたたちの中に入っていないからである」と断定します。「イエスを信じたユダヤ人」は、自分の判断でイエスの言葉を認めただけで、まだ自分が主体です。イエスの言葉、いや神の言葉(ロゴス)としてのイエス(原文は「わたしのものであるロゴス」)が、中に突入してきて、変革し、支配するようにはなっていないのです。彼らはまだ自分の本性の中に生きています。
 「わたしの言葉があなたたちの中に入っていない」という文の動詞は、「とどまる《メノー》」ではなく、「場所をあける、場所を占める」という意味の別の動詞です。彼らがイエスという神のロゴスに自分を明け渡していないので、その結果、そのロゴスが彼らの中に場所を占めていないことを指しています。

 「わたしは父のみもとで見たことを語っている。そして、あなたたちは父のところで聞いたことを行っている」。(三八節)

 この節では、「わたしは」と「あなたたちは」がそれぞれとくに強調されていて、イエス(実はヨハネ共同体)と論争相手の「イエスを信じたユダヤ人」がまったく別の起源であることが明らかにされます。ここにもヨハネの二元論が出ていることになります。イエスはイエスの父から、彼らは彼らの父から出た者とされます。
 「あなたたちは父のところで聞いたことを行っている」という文で、父に「あなたたちの」という句はついていませんが、この「父」はイエスの父とは別の父を指していることは明らかです。「自分の本性の中に生きている」ことが、イエスの父からの派遣との対比で、このように表現されています。この表現を受けて、彼らの父とは誰であるかが、次の段落の主題となります。

この節に二回出てくる「父」に、それぞれ「わたしの」と「あなたたちの」をつけている写本があります。しかし、底本はその句がない形を本来の読み方として採用しています。それがない写本がある以上、より困難な読み方の方がオリジナルと判断されます。意味を明確にするために、次の段落の内容からその句を付け足した可能性は理解できますが、逆(もともとあったその句を写本の段階で削除した)はありえないと考えられます。底本のように、その句が無いとして読むと、二回の「父」は同じ神を指すと理解することもできます。その場合は、「あなたたちも父のところで聞いたことを行いなさい」と命令形で読む必要があります。事実、そう読んでいる写本もあります。しかし、この理解では論敵も父の言葉を聞いていることになり、全体の論旨に反します。ここでは底本に従って訳し、対立する陣営のそれぞれの起源を一般論として述べ、次の段落の導入としていると理解します。

29 悪魔の子ら (8章39〜47節)

 39 彼らは答えてイエスに言った、「わたしたちの父はアブラハムだ」。イエスは彼らに言われる、「あなたたちがアブラハムの子供であるなら、アブラハムの業をしてきたはずだ。 40 しかし今、神のもとで聞いた真理をあなたたちに語った者であるこのわたしを、あなたたちは殺そうとしている。そのようなことをアブラハムはしなかった。 41 あなたたちは自分の父の業をしているのである」。そこで彼らはイエスに言った、「われわれは淫行から生まれたのではない。われわれには父がいる。すなわち、神御自身である」。 42 イエスは彼らに言われた、「もし神があなたたちの父であるならば、あなたたちはわたしを愛したことであろう。わたしは神から出て、ここにいるからである。わたしは自分から語っているのではなく、その方がわたしを遣わされたのである。 43 なぜあなたたちはわたしが語ることを悟らないのか。それは、あなたたちはわたしの言葉を聴きとることができないからだ。 44 あなたたちは悪魔という父から出た者であり、自分たちの父の欲望を行おうとしているのだ。彼は初めから人殺しであり、真理には立ってこなかった。彼の中には真理がないからである。彼が偽りを語るとき、彼は自分の本性から語っている。彼は偽り者であり、偽りの父だからである。 45 ところが、わたしが真理を話すので、あなたたちはわたしを信じない。 46 あなたたちの中の誰が、罪についてわたしを責めることができるか。わたしが真理を語るのであれば、どうしてあなたたちはわたしを信じないのか。 47 神から出た者は神の言葉を聴く。あなたたちは神から出た者でないから、聴かないのだ」。

父は誰か

 彼らは答えてイエスに言った、「わたしたちの父はアブラハムだ」。(三九節前半)

 イエスが「あなたたちは父のところで聞いたことを行っている」と言われたので、彼らは「わたしたちの父はアブラハムだ」と応えます。ユダヤ人はみな、自分たちはアブラハムの子孫であるから、それだけで自動的にアブラハムとその子孫に神から与えられた契約(約束)を受け継ぐ者(創世記一七・七〜八)であると誇っていました。この自覚と誇りは、イエスを信じたユダヤ人もイエスを信じないユダヤ人と同じです。以下の論争は、もはやイエスを信じるユダヤ人かイエスを信じないユダヤ人かの区別を超えて、アブラハムの子孫であるだけで自動的に約束の継承者であることを誇る「ユダヤ人性」そのものに向けられることになります。

 イエスは彼らに言われる、「あなたたちがアブラハムの子供であるなら、アブラハムの業をしてきたはずだ。しかし今、神のもとで聞いた真理をあなたたちに語った者であるこのわたしを、あなたたちは殺そうとしている。そのようなことをアブラハムはしなかった。あなたたちは自分の父の業をしているのである」。(三九節後半〜四一節前半)

 「アブラハムの業」とは、アブラハムの生き方そのものです。アブラハムは生涯、神の言葉にひれ伏して従う歩みを全うしました。現在のユダヤ人がアブラハムの子供であるならば、すなわちアブラハムの命の質を継承している者であるならば、アブラハムのように神の言葉にひれ伏して従ったはずです。ところが現実のユダヤ人は、「神のもとで聞いた真理を語った者である」イエスを殺そうとしています。そして、実際殺したのです。アブラハムは、神の言葉に対してそのような反抗はしませんでした。彼らがイエスを殺した事実は、彼らがアブラハムの子供ではないこと、すなわち彼らの父はアブラハムではなく、他に父がいることを示しています。彼らは「自分の父の業をしている」のです。

 そこで彼らはイエスに言った、「われわれは淫行から生まれたのではない。われわれには父がいる。すなわち、神御自身である」。(四一節後半)

 「あなたたちは自分の父の業をしている」というイエスの言葉に、神以外の父から生まれた者たちだという非難を聞き取って、彼らはこのように反論します。
 「われわれは淫行から生まれたのではない」という反論は、母親の淫行から生まれたという噂のあるイエスに対するあてこすりと見る解釈があります(ケルソス以来)。イエスの出生については(結婚前の懐妊などの)秘密があることが母親のマリアから漏らされ、イエスの復活を信じる者たちの教団で、それが聖霊による処女の懐妊と誕生として物語られるようになり、マタイとルカの誕生物語が形成されます。それに対抗して、イエスを非難する側では、マリアはローマ兵士との私通によって懐妊したのだというような噂が流されるようになります。
 そのような非難があったことは、すでに福音書にも示唆されています。すなわち、ナザレの人々がイエスのことを「マリアの息子」と呼んだと伝えられていますが(マルコ六・三)、これは父親がいないか分からない子に対する差別的な呼び方です。ユダヤ人社会では、男の子はいつも(父親が亡くなった後も)父親の名を冠して「誰それの息子」と呼ばれていたので、「マリアの息子」という呼び方は、ヨセフとの間の正式の子ではないという非難がこめられています。
 しかしここでは、そのようにイエスの出生についてのあてこすりと解釈する必要はありません。すぐ後の「われわれには父がいる。すなわち、神御自身である」という言葉から、反論したユダヤ人は(そして著者も共に)、ヤハウェ以外の神に仕えることを「淫行」と呼んだ預言者の伝統(ホセヤ、エレミヤ、エゼキエルに多数)を受け継ぐ用語法で語っていると理解してよいでしょう。
 ユダヤ人は、自分たちはヤハウェがアブラハムとその子孫との間に結ばれた契約関係から生まれた嫡子であることを誇っていました。他の神々との交わり(それが「淫行」です)から生まれたのではない。アブラハムの神、天地万物を創造し、イスラエルの民を選ばれた唯一の神から生まれた者、その神を父とする民であると主張します。
 その主張に対して、ユダヤ人と対立するヨハネ共同体は激しく反論します。その反論は、いつもと同じくイエスの言葉として表現されます。

 イエスは彼らに言われた、「もし神があなたたちの父であるならば、あなたたちはわたしを愛したことであろう。わたしは神から出て、ここにいるからである。わたしは自分から語っているのではなく、その方がわたしを遣わされたのである」。(四二節)

 聖書が啓示する神があなたたちの父であるならば、その神から遣わされて、その方の言葉を語るイエスを愛するはずだ、と著者は反論します。ところが、ユダヤ人はそのイエスを拒み、殺そうとしている。彼らは神から生まれた者ではない。彼らの父は別にいるという反論です。

 「なぜあなたたちはわたしが語ることを悟らないのか。それは、あなたたちはわたしの言葉を聴きとることができないからだ」。(四三節)

 ユダヤ人がイエスは父から遣わされて父の言葉を語っておられるということが理解できないのは、彼らはイエスの言葉を「聴きとることができない」からだと、著者はユダヤ人の不信の理由を示します。
 イエスは、ユダヤ人が日常用いているアラム語で、また彼らの宗教用語を用いて語られたのでしょうが、その内容が彼らの宗教的常識とあまりにもかけ離れていたので、外国語を聴き取ることができないように、彼らはイエスの言葉を聴き取ることができなかったのです。イエスは光の領域の言葉を語っておられるので、闇の領域にいるユダヤ人には、イエスの言葉は別世界の言葉として響き、聴き取ることができないのです。ここにも、ヨハネ福音書の厳しい二元論が貫かれています。

悪魔から出た者

 「あなたたちは悪魔という父から出た者であり、自分たちの父の欲望を行おうとしているのだ。彼は初めから人殺しであり、真理には立ってこなかった。彼の中には真理がないからである。彼が偽りを語るとき、彼は自分の本性から語っている。彼は偽り者であり、偽りの父だからである」。(四四節)

 ここでわたしたちはこの福音書の中でもっとも衝撃的な言葉に遭遇します。この福音書のイエスはユダヤ人に向かって、「あなたたちは悪魔という父から出た者である」と言い放たれます。

この言葉は原文では「あなたたちは悪魔の父から出た者である」となっています。この「悪魔の父」という句の読み方には様々な解釈がありますが、この段落では「父」という語が、「わたしたちの父は神である」というように、ユダヤ人の起源を指し示す語ですから、ここも悪魔から出た者、悪魔を父(起源)とする者という意味に理解できます。したがって、「悪魔の」という二格は同格の二格と理解して、「悪魔という父」と訳しています。

 悪魔は神に敵対する霊的諸力の頭です。共観福音書にも悪魔とかサタンという用語が現れます。しかし、共観福音書では悪魔はイエスを試みたり民を病苦に縛り付ける力であったりしますが、ユダヤ人が悪魔から出た民であるというような激烈な言葉はありません。もともとのイエス語録伝承にも、イエスが自分を批判する律法学者たちを悪魔呼ばわりされたという記録はありません。この言葉は、ヨハネ福音書の著者(またはヨハネ共同体)が自分が提示するイエスの真理に反対する勢力に投げつけた言葉であるとしなければなりません。

マタイ福音書も敵対するファリサイ派ユダヤ教徒に対して、「偽善者」、「地獄の子」、「蛇、蝮の子」というような激しい言葉を投げつけています(マタイ二三・一五と三三)。これは、マタイ福音書二三章の講解(拙著『マタイによるメシア・イエスの物語』306頁以下)で見たように、ユダヤ戦争後ヤムニアに再建されたファリサイ派ユダヤ教会堂勢力が、イエスを告白するユダヤ人を異端者として迫害した時期の産物です。ヨハネ福音書のユダヤ人に対する激しい罵倒も、同じ時期の同じような状況から出ています。そのファリサイ派ユダヤ教からの激しい弾圧の状況は、続く九章で語られることになります。

 では、その勢力とはどのような勢力なのかという問題は、この福音書の成立の状況とからまっており、複雑であり、単純に割り切った解答を見いだすことはできません。この問題を考える上でヒントになるのは、この「悪魔という父」が初めから、すなわち本性的に「人殺し」であり「偽り者」であると記述されていることです。この表現は、著者ヨハネとその共同体が置かれていた状況を示唆しています。
 この段落ですでに何回も、ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていることが語られていました。少し後には、イエスを信じる弟子たちを殺すことが神に仕える方法だと考える勢力が現れることが予告されています(一六・二)。ヨハネ共同体は、イエスを殺し、自分たちをも殺そうとする勢力と直面していて、その勢力に向かって、「あなたたちの父は、人殺しを本性とする悪魔だ」と言わないではおれなかったとも考えられます。
 ヨハネ共同体にとって自分たちを殺そうとする勢力の第一は、イエスを信じないユダヤ教会堂勢力です。ところが、この箇所(八・三〇以下)は「イエスを信じたユダヤ人」に向かって語られているので、この言葉を直接会堂勢力に向けられたものとすることはできません。しかし、先に見たように(三七節および三九節前半の講解を参照)、この箇所の論争は、もはやイエスを信じるユダヤ人かイエスを信じないユダヤ人かの区別を超えて、アブラハムの子孫であるだけで自動的に約束の継承者であることを誇り、ユダヤ教律法の枠に固執する「ユダヤ人性」そのものに向けられています。著者は、イエスに敵対する会堂勢力も、イエスを信じる陣営にいながらイエスの真理の言葉にとどまっていない者たちも、同様にイエスと真の弟子(ヨハネ共同体)を憎み殺そうとしていると断じて、「あなたたちの父は、人殺しを本性とする悪魔だ」と断定します。
 イエスを信じる者たちの陣営の中にも、福音の真理に生きる真の弟子に敵対する者たちがいたことは、イエスを信じるユダヤ人たちの中の「ユダヤ主義者」が、律法からの自由を説くパウロに激しく反対したのと同じです。ヨハネの時代にはその対立がさらに激化していたという事情が考えられます。
 さらに、ここで「悪魔の父」は「偽り者」と呼ばれています。これは「彼は初めから真理には立ってこなかった。彼の中には真理がないからである」と言われているように、「真理」に敵対する者です。イエスを信じる者の陣営の中で、著者ヨハネが提示する真理に敵対し、異なる教えを説いて、弟子たちを真理から逸脱させようとする勢力です。著者は、このような者たちを本性的に「偽り者」である悪魔から出た者であると断定します。
 実は、ヨハネ共同体自体の中に、著者とは異なる教えを説いて弟子たちを集めて出て行ったグループがあり、ヨハネ共同体は分裂の危機を体験したことがヨハネの手紙から分かります(ヨハネT二・一九)。手紙の著者は、このような者たちを「反キリスト」、「偽り者」、「悪魔から出た者」、「悪魔の子」、「人殺し」と呼んで痛烈に非難しています(それぞれヨハネTの二・一八、二・二二、三・八、三・一〇、三・一五)。

出て行ったグループの教えがどのようなものであったのかを正確に知ることは困難ですが、手紙の内容からすると、「イエスがメシアであることを否定する」、あるいは「イエス・キリストが肉となって来られたこと」を言い表さない者たちであることが分かります(ヨハネT二・二二、四・二)。彼らは、後に「グノーシス主義」と呼ばれるようになる霊的傾向をすでに持っており、著者ヨハネがイエスを神の啓示の受肉としたことに反対した者たちであると見られています。グノーシス主義とヨハネ共同体(ヨハネ文書)との関係は複雑で、ここでは扱い切れませんので、別の機会に考察します。

 この非難は、福音書のこの箇所の論敵への非難とほぼ一致していますので、ヨハネ共同体を分裂させた勢力に対する非難が、福音書の中に書き込まれたという理解も可能です。その場合には「人殺し」は、「兄弟を憎む者は皆、人殺しです」(ヨハネT三・一五)という意味の「人殺し」、すなわち兄弟愛の教えに背いて共同体を分裂させ、「兄弟を憎む者」となった「人殺し」と理解できますから、福音書のこの箇所の「人殺し」を、必ずしも実際に迫害による処刑を指していると見なくてもよいことになります。この推定によれば、ここで「あなたたちは悪魔という父から出た者である」と言われているのは、「イエスを信じたユダヤ人」でヨハネ共同体から出て行ったグループを指すことになります。

「人殺し」《アントローポクトノス》という用語は、ヨハネ福音書八・四四とヨハネの手紙T三・一五の二カ所だけに出てくる特殊な用語です。この特殊な用語の共通の使用は、手紙に見られる共同体を分裂させた者への非難が福音書に書き込まれたという推定を補強します。
 なお、福音書と手紙の成立時期について、どちらが先か議論があり、確定することは困難ですが、福音書の成立が複雑な編集過程を経ていることを考えると、手紙に見られる共同体を分裂させた者たちへの非難が、編集のある段階で福音書に書き込まれたという推定は十分成り立つと考えられます。
 ヨハネ共同体における福音書と手紙の成立事情、および両者の関係については、拙著『もう一人の弟子――ヨハネ文書の成立について』を参照してください。

 このように、「あなたたちは悪魔という父から出た者である」と言われている論敵が、もはやイエスを信じるか信じないかの区別を超えてユダヤ教律法の枠に固執するユダヤ人を指すのか、または、ヨハネ共同体から出て行ったグノーシス主義的な傾向のユダヤ人信徒のグループを指すのか、解釈が分かれますが、いずれにせよ、著者は自分が提示する復活者イエスの真理に敵対するユダヤ人と激しい論争を続けます。

 「ところが、わたしが真理を話すので、あなたたちはわたしを信じない」。(四五節)

 この箇所のイエスの言葉には、敵対するユダヤ教会堂勢力あるいは著者ヨハネの言葉に聴き従わないで共同体から出て行った者たちに対するヨハネ共同体の論争が強く重なっています。著者あるいは著者に率いられるヨハネ共同体は、自分たちが聖霊により体験した復活者イエスの真理(リアリティー)を語り続けてきました。ヨハネ共同体はこの証言を復活者イエスの言葉として語ってきました。ところが、まさにそれが真理であるゆえに、真理から出た者たちではない敵対勢力は、この証言を受け入れることができないのです。

 「あなたたちの中の誰が、罪についてわたしを責めることができるか。わたしが真理を語るのであれば、どうしてあなたたちはわたしを信じないのか」。(四六節)

 この言葉には、イエスを断罪して十字架の死に追いやったユダヤ教側の誤りを糾弾するヨハネ共同体の論難がこめられています。イエスは父の御旨に従う歩みをされた方であり、父に背いているという意味の罪はありません。ところが、ユダヤ教側は自分たちの律法解釈に違反するからという理由で、最高法院でイエスを罪ある者と断罪しました。そして今も、ユダヤ教会堂勢力はイエスに従うヨハネ共同体の者たちを、ユダヤ教に背く者、異端者として断罪しています。
 なぜ罪なく真理だけを語る者を拒み断罪するのか。これは質問とか疑問ではなく、論難です。彼らがそうする理由は、すぐ次節で明らかにされます。

 「神から出た者は神の言葉を聴く。あなたたちは神から出た者でないから、聴かないのだ」。(四七節)

 「神から出た者」は「神に所属する者」という意味です。神に属する者は当然神の言葉に耳を傾け、聴いた言葉を神の言葉として受け入れます。それは命の繋がりからくる自然の結果です(このことは後で羊飼いと羊のたとえで詳しく語られることになります)。「あなたたち」、すなわちイエスに敵対し、今ヨハネ共同体の証言に敵対するユダヤ人たちは、神に所属していない者だから、イエスが(そして今ヨハネ共同体が)語る真理の言葉を聴き取ることができないのだとします。これは、イエスに敵対する現在のユダヤ教会堂は神に属する者ではないとする重大な宣言です。これは、彼らの父は神ではなく悪魔であるとするこの段落の結論です。

30「わたしはある」(8章48〜59節)

 48 ユダヤ人たちはイエスに答えて言った、「お前はサマリア人で、悪霊につかれていると、わたしたちが言うのも当然ではないか」。 49 イエスはお答えになった、「わたしは悪霊につかれているのではなく、父を敬っているのであるが、あなたたちはわたしを卑しめている。 50 わたしは自分の栄光を求めていない。栄光を求め、かつ裁く方がおられる。 51 アーメン、アーメン、わたしはあなたたちに言う。誰でも私の言葉を守るならば、その人はいつまでも死を見ることはない」。 52 そこで、ユダヤ人たちはイエスに言った、「今こそ、お前が悪霊につかれていることが分かった。アブラハムも預言者たちも死んだ。それだのに、お前は『わたしの言葉を守るならば、いつまでも死を味わうことはない』と言う。 53 お前はわたしたちの父祖アブラハムよりも偉いのか。彼も死に、預言者たちも死んだ。いったいお前は自分を何者とするのか」。 54 イエスはお答えになった、「もしわたしが自分自身に栄光を帰すのであれば、わたしの栄光はない。わたしに栄光を与えるのは、わたしの父である。すなわち、あなたたちが自分たちの神であると言っている方である。 55 あなたたちはその方を認めてこなかったが、わたしはその方を知っている。もしわたしがその方を知らないと言えば、わたしはあなたたちと同じように嘘つきになるであろう。わたしはその方を知っており、その方の言葉を守っている。 56 あなたたちの父祖アブラハムは、わたしの日を見ることを大きな喜びとした。そして、見て喜んだ」。 57 そこで、ユダヤ人たちはイエスに言った、「お前は五十歳にもなっていないのに、アブラハムを見たのか」。 58 イエスは彼らに言われた、「アーメン、アーメン、わたしはあなたたちに言う。アブラハムが生まれるまえから、わたしはある」。 59 そこで、ユダヤ人たちは石を取り上げて、イエスに投げつけようとしたが、イエスは身を隠して、神殿から出て行かれた。

ヨハネ共同体とサマリア教徒

 ユダヤ人たちはイエスに答えて言った、「お前はサマリア人で、悪霊につかれていると、わたしたちが言うのも当然ではないか」。(四八節)

 前の段落でイエスが語られた言葉を聞いて、「イエスを信じるユダヤ人たち」は猛烈に反発します。その反発とイエスに対する非難に「お前はサマリア人だ」という言葉が用いられています。これは、ユダヤ教の枠に固執する保守的なユダヤ教徒の信徒がヨハネ共同体に見られるサマリア教的な要素に反発していることの反映であると見られます。同じイエスを信じるユダヤ人でありながら、ヨハネ共同体は保守的ユダヤ教徒のグループからそのサマリア的傾向を激しく非難されていたようです。
 ヨハネ福音書(四章)は、他の福音書にはないイエスのサマリアでの伝道活動を詳しく描き、多くのサマリア教徒がイエスを信じるようになったことを伝えています。この事実は、ヨハネ共同体には多くのサマリア教徒の信徒が含まれていたことを示しています。サマリア伝道がイエス御自身によって行われたのか、または使徒言行録(八章)が伝えるようにフィリポが初めてサマリアに福音を伝えたのかは議論があるところですが、ヨハネ共同体にサマリア教徒の信徒がかなり含まれていたのは事実であると考えられます(ヨハネ福音書はフィリポを重視して言及することが多い福音書です)。
 当時のユダヤ教徒はサマリア教徒を汚れた異教徒として接触を避けていました。そのサマリア教徒を含むようになったことで、ヨハネ共同体はユダヤ教の枠から一歩踏み出したことになります(ヨハネ共同体はサマリアにあったという説もあります)。神の礼拝はもはやエルサレム神殿に限られるものではなくなりました。さらに、サマリア教徒の存在を触媒として(それだけではありませんが)、ヨハネ共同体はメシアをダビデの子とするユダヤ教のキリスト論を超え、ヨハネ福音書に見られるイエスを御子の受肉であるとする高度のキリスト論を形成するようになったと見られます。ヨハネ福音書は、保守的なユダヤ教徒が決して認めることができないイエスの《エゴー・エイミ》宣言を繰り返しています。そのことが、ユダヤ人たちがイエスを殺そうとする原因になります(八・五八〜五九)。
 保守的なユダヤ教徒にとって、サマリア人はモーセの啓示(モーセ五書)を受け継いでいながら悪霊に唆されて正しい信仰から外れた者たちであり、「悪霊につかれた」者たちだとされていました。それで、イエスを信じるユダヤ人であってもユダヤ教に固執する限り、イエスを信じない外のユダヤ人と同じく、ヨハネ共同体のようなイエス告白に対しては、「お前はサマリア人で、悪霊につかれている」と非難するようにならざるをえません。

 イエスはお答えになった、「わたしは悪霊につかれているのではなく、父を敬っているのであるが、あなたたちはわたしを卑しめている」。(四九節)

 イエスは「お前はサマリア人だ」という非難は無視されます。もはやユダヤ人かサマリア人かは問題になりません。しかし、「悪霊につかれている」という批判にはきっぱりと否と答えられます。イエスの言葉は悪霊につかれた者の言葉ではなく、真に父を敬う者の言葉です。ただ、それを聴き取ることができない者たちが、イエスを非難して卑しめているだけです。

 「わたしは自分の栄光を求めていない。栄光を求め、かつ裁く方がおられる」。(五〇節)  イエスは自分を空しくして(フィリピ二・六〜八)ひたすら父の御旨を行い、「父よ、あなたの名が崇められますように」(マタイ六・九)と、父の栄光だけを求められました。イエスが弟子たちに教えられたとされる「主の祈り」のこの一節は、イエス御自身の祈りにほかなりません。著者ヨハネは先にこのことを、「自分から語る者は自分自身の栄光を求めるが、自分を遣わされた方の栄光を求める者は真実であって、その中に不義はない」(七・一八)と表現していましたが、この段落(とくに本節と五四節)で再びイエスが御自分の栄光を求めるのではなく、イエスに栄光を与えるのは父であることを明確に語ります。
 後半の「栄光を求める方」は、五四節との並行関係から父を指すと理解しなければなりませんが、そうすると「かつ裁く方」は、(前節の)イエスを卑しめる者たちを裁く方という意味に理解するか、ここの《クリノー》という動詞を「判断する」という意味にとって、論争中の誰が正しくて栄光を受けるに値するかを判断する方は父であると理解することになります。おそらく後者の意味に理解するのが自然でしょう。

アブラハムよりも先にいます方

 「アーメン、アーメン、わたしはあなたたちに言う。誰でも私の言葉を守るならば、その人はいつまでも死を見ることはない」。(五一節)

 イエスとはいったい誰かという問題が激しく争われている論争の中に、著者はやや唐突に、アーメン句を用いた荘重な形で、普段共同体が宣べ伝えているイエスの宣言を挿入します。これはすでに五章で語られていた「アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言う。わたしの言葉を聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は永遠の命を持っており、裁きに到ることなく、死から命に移っている」(五・二四)と同じことを簡潔に言い表しています。イエスとは、わたしたちがその言葉を守り、そのことによってその方との結びつきに生きるならば、もはや「死を見ることはない」、すなわち永遠の命に生きることになる、そういう方であると宣言しているのです。

 そこで、ユダヤ人たちはイエスに言った、「今こそ、お前が悪霊につかれていることが分かった。アブラハムも預言者たちも死んだ。それだのに、お前は『わたしの言葉を守るならば、いつまでも死を味わうことはない』と言う。お前はわたしたちの父祖アブラハムよりも偉いのか。彼も死に、預言者たちも死んだ。いったいお前は自分を何者とするのか」。 (五二〜五三節)

 ユダヤ人はこの言葉を誤解します。というよりは、理解することができないのです。イエスは御霊によって与えられる「永遠の命」のことを語っておられるのに、ユダヤ人はイエスが地上の肉体が死なないと約束していると受け取り、そのような約束をするイエスは自分を不死身の存在だとするのかと詰め寄ります。アブラハムも預言者たちもみな死んだのに、自分は彼らよりも偉大な存在で、自分だけは死なない者であるとするのかという詰問です。ユダヤ人にとって、アブラハムやモーセを初めとする預言者たちよりも偉大な人間はありません。そのアブラハムや預言者たちも死んだのに、自分だけは死なないかのように語るお前は「いったい自分を何者とするのか」という激しい非難です。

 イエスはお答えになった、「もしわたしが自分自身に栄光を帰すのであれば、わたしの栄光はない。わたしに栄光を与えるのは、わたしの父である。すなわち、あなたたちが自分たちの神であると言っている方である」。(五四節)

 ユダヤ人の非難に対してイエスは、自分に栄光を与えて、自分がどのような者であるのかを示すのは「わたしの父、すなわち、あなたたちが自分たちの神であると言っている方である」と答えられます。これは、イエスが苦しみを受けた後、復活によって御子の栄光を現すようになることを指しています。神がイエスを復活させて、イエスに神の子としての栄光をお与えになるのです。
 イエスを復活させて栄光をお与えになるのはイエスの父ですが、イエスの父はユダヤ人が「自分たちの神であると言っている方」、すなわちイスラエルの歴史の中に働いてこられた神、旧約聖書の神に他なりません。これは、イエスの父はユダヤ人の神、すなわち旧約聖書の神とは別の神であるとする後の時代のマルキオンやグノーシス主義者たちの主張とは反対の発言です。著者は明確にグノーシス主義とは反対の陣営に属しています。

 「あなたたちはその方を認めてこなかったが、わたしはその方を知っている。もしわたしがその方を知らないと言えば、わたしはあなたたちと同じように嘘つきになるであろう。わたしはその方を知っており、その方の言葉を守っている」。(五五節)

 イエス(ひいていはヨハネ共同体)とユダヤ人は同じ方を神としているのです。しかし、その神とのかかわり方が違います。著者は、ユダヤ人はその神を認識しなかったが、イエスこそはその神を知る方であり、その方の言葉を守り、その方の言葉を語る方であると宣言します。
 「認めてこなかった」という動詞は現在完了形です。ユダヤ人は今にいたるまでずっと自分たちの神の真実の姿を認識してこなかった。それに対して、イエスはその神を知っているとされます。イエスとユダヤ人との対立(実際はヨハネ共同体とユダヤ教会堂の対立)は、同じ神を知っているか知らないかの対立であって、違う神の対立ではありません。
 旧約聖書を生み出したイスラエルの民の子孫であるユダヤ人が、その旧約聖書の神を知らないというのは実に激烈な宣言です。この福音書は繰り返し、ユダヤ人に向かってそう宣言しています。この福音書のイエスはユダヤ人に向かって、「あなたたちはいまだかってその方の声を聴いたこともないし、お姿を見たこともない」(五・三七)と断言されます。この方の声を聴き、その方のお姿を見て、その方の言葉を語るのはイエスであり、イエスに従う自分たちであると、ヨハネ共同体はユダヤ教徒に向かって宣言するのです。
 イエスは、「もしわたしがその方を知らないと言えば、(その方を知らないのに知っていると言い張る)あなたたちと同じように、わたしは嘘つきになるであろう」と言われます。この言葉は、自分たちこそ神を知り、神の約束を継承する者であると主張するユダヤ教団は偽りであり、イエスに従う民こそ神を知り、聖書の神の救済史を継承する者であると主張しています。

この節の「神を知る」とか「知らない」という表現は、救済史的な神の働きに事実上かかわっているかどうかの違いを語っています。人間とは無限に異なる神を人間は認識できるかどうかという認識論の問題とは関係はありません。

 「あなたたちの父祖アブラハムは、わたしの日を見ることを大きな喜びとした。そして、見て喜んだ」。 (五六節)

 ユダヤ人は、自分たちはアブラハムの子孫であり、父祖アブラハムに与えられた神の約束を受け継ぐ者たちであると誇っていますが、そのアブラハムは自分に与えられた約束が成就する日を熱望していました。その熱望が「大きな喜びとした」という表現で語られています。
 霊感を受けたイスラエルの預言者たちは、神の約束がことごとく成就する日の到来を熱望しました。黙示文書では、それは「人の子の日を見る」と表現されていました(ルカ一七・二二参照)。福音書は、その日がイエスにおいて来ていると宣言します(ルカ一〇・二三〜二四)。著者ヨハネは、アブラハムをこのように待望し、イエスにおける成就を見て喜んだ一人とします。

 そこで、ユダヤ人たちはイエスに言った、「お前は五十歳にもなっていないのに、アブラハムを見たのか」。(五七節)

 ここでまた、復活者イエスを信じないで地上のことだけを見ているユダヤ人の誤解ないしは無理解が露呈されます。「お前は五十歳にもなっていないのに、どうして『アブラハムはわたしの日を見て喜んだ』というような、二千年も前のアブラハムを見たようなことを言うのか」と詰め寄ります。

 イエスは彼らに言われた、「アーメン、アーメン、わたしはあなたたちに言う。アブラハムが生まれるまえから、わたしはある」。(五八節)

 それに対してイエスは荘重なアーメン句を用いて決定的な宣言をされます。「アブラハムが生まれるまえから、すなわち、アブラハムが存在するようになる前から、《エゴー・エイミ》(わたしはある)」と、あの神的な自己宣言の句を用いて御自分が永遠の先在者であることを宣言されます。

《エゴー・エイミ》については、本書319頁の「特注―ヨハネ福音書における《エゴー・エイミ》」を参照してください。

 そこで、ユダヤ人たちは石を取り上げて、イエスに投げつけようとしたが、イエスは身を隠して、神殿から出て行かれた。(五九節)

 ヨハネ福音書は対話編であると最初に書きましたが、その対話はしばしば同じ土俵に立って議論するというような対話ではなく、復活者イエスの宣言と地上のことしか考えていない周囲の者たちの無理解という形で、別次元の二つの世界のすれ違いと衝突を描く結果になっています。とくにこの仮庵祭での論争のように、《エゴー・エイミ》の宣言が中心にくる論争ではそうです。この宣言の前では、これを受け入れて全面的に神としての復活者イエスに信従するか、このように自分を神とする人間を認めることはできないとして殺すか、どちらかになります。
 ユダヤ人たちは、イエスの言葉が自分を神と等しくするものだと(正当に)理解し、「石を取り上げて、イエスに投げつけようと」しました。人間が自分を神とすることは、神を汚すことです。神を汚す者を殺すことは宗教的な義務です(レビ記二四・一五〜一六)。ユダヤ教会堂が、復活者イエスを《エゴー・エイミ》の句を用いて神的先在者と告白するヨハネ共同体を、神を汚す者として迫害することは避けられないことでした。
 この時、「イエスの時」はまだ来ていなかったので、「イエスは身を隠して、神殿から出て行かれた」という結末で、仮庵祭での長い論争は打ち切られます。

結び―イエスを信じたユダヤ人との論争

 著者ヨハネはユダヤ人であり、彼が指導する共同体の中核はユダヤ人であると見られますが、その共同体が生み出したこのヨハネ福音書は「ユダヤ人」と厳しく対立し、その全編で「ユダヤ人」を真理の敵として激しく非難しています。それは、マタイ福音書と同じく、ヨハネ共同体がユダヤ戦争以後のファリサイ派ユダヤ教会堂勢力から迫害される状況から出たものと考えられます。その中で今回取り上げた八章後半(三〇〜五九節)の箇所は、「イエスを信じたユダヤ人」との論争として特異な内容になっています。すなわち、自分たちを迫害する外のユダヤ教会堂勢力ではなく、同じイエスを告白する陣営内でのユダヤ人との対立であり、彼らとの論争が外のユダヤ教会堂勢力との論争と重なって、きわめて複雑な様相を見せています。この論争は、用語や思想内容からして、ユダヤ教の枠に固執し続ける「ユダヤ主義者」と戦ったパウロを思い起こさせるものがあり、改めてパウロとヨハネの関わりを考えさせます。この論争は、福音における真理と自由の追求がいかに激しい戦いを必要とするかを思い起こさせます。