第二節 命のパンをめぐるユダヤ人との対話
18 命のパンをめぐるユダヤ人との対話(6章 41〜59節)
41 すると、ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降ってきたパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、 42 こう言った、「これはヨセフの息子イエスではないか。わたしたちは父親も母親も知っている。どうして今さら『わたしは天から降ってきた』などと言うのか」。 43 イエスは答えて彼らに言われた、「互いにつぶやくのは止めなさい。 44 わたしを遣わされた父が引き寄せてくださるのでなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。 45 預言者の書に、『かれらはみな神に教えられる者になるであろう』と書かれている。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。 46 神のそばにいる方以外に、父を見た者はない。その方だけが父を見たのである」。
47 「アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言う。信じる者は永遠の命をもっている。 48 わたしが命のパンである。 49 あなたたちの先祖は荒れ野でマナを食べたが、死んだ。 50 これは天から降ってきたパンであり、それを食べる者は死ぬことはない。 51 わたしは、天から降ってきた生けるパンである。人がこのパンを食べるならば、永遠に生きるようになる。そして、わたしが与えることになるパンとは、世の命のためのわたしの肉である」。
52 するとユダヤ人たちは互いに激しく議論し始めて言った、「この男はどうして自分の肉をわれわれに与えて食べさせることができるのか」。 53 そこでイエスは彼らに言われた、「アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言う。あなたたちは、人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、自分たちの中に命はない。 54 わたしの肉を噛みしめ、わたしの血を飲む者は永遠の命を持ち、わたしはその人を終わりの日に復活させる。 55 わたしの肉こそまことの食べ物であり、わたしの血こそまことの飲み物だからである。 56 わたしの肉を噛みしめ、わたしの血を飲む者は、わたしの中にとどまり、わたしもその人の中にとどまる。 57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを噛みしめる者はわたしによって生きるようになる。 58 これは天から降ってきたパンであり、先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。このパンを噛みしめる者は、永遠に生きるようになる」。
59 これらのことは、イエスがカファルナウムの会堂で教えて語られたものである。
「ユダヤ人」の批判
ここまで、パンについてイエスと対話する人たちは「群衆」と呼ばれてきましたが、ここから「ユダヤ人たち」と呼ばれるようになります(四一節)。パンについての対話は、海辺で「群衆」との間に始まりましたが(六・二四)、いつの間にか「ユダヤ人」との対話となり、それが会堂で行われたという記述になって終わります(六・五九)。ここまでの群衆はパンを求める人たちとして描かれていましたが、ここから登場する「ユダヤ人」はイエスを批判する人たちとして描かれます(四一節と五二節)。すると、ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降ってきたパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った、「これはヨセフの息子イエスではないか。わたしたちは父親も母親も知っている。どうして今さら『わたしは天から降ってきた』などと言うのか」。(四一〜四二節)
前半の「群衆」もみなユダヤ人ですが、そこでは「いのちのパン」を必要とする人間としての視点から見られていたので、「群衆」と呼ばれていました。しかし後半では、イエスを「天から降ってきた」方であるとする告知に激しく反対し、そのように告白するヨハネ共同体を弾圧するユダヤ教会堂と、その会堂に代表されるユダヤ教徒という視点から見て、「ユダヤ人」と呼ばれます。ヨハネ福音書においては、「ユダヤ人」はいつもイエスに敵対し、イエスを信じる者を迫害する勢力です。イエスは答えて彼らに言われた、「互いにつぶやくのは止めなさい。わたしを遣わされた父が引き寄せてくださるのでなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる」。(四三〜四四節)
「互いに」つぶやくのを止めよと言われています。「互いに」というのは、ユダヤ人の間に対立するグループがあって、互いに相手を非難し合っている状況が前提されています。その対立するグループとは、復活者イエスを信じ、地上の人間イエスを「天から降ってきた方」であると告白するヨハネ共同体のユダヤ人と、イエスが復活されたという告知を信ぜず、地上の人間イエスが神と等しい子であるとする告白を?神として断罪するユダヤ教会堂勢力です。信じる者は現在すでに永遠の命を持っているという使信がヨハネ福音書の特色です。共観福音書やパウロ書簡に見られる終わりの日における死者の復活の約束は、ヨハネ福音書ではこの六章に集中して四回出てくるだけで、他にはありません。それで、この約束は後の編集者による挿入であると見られています。たしかにこの箇所では、四五節の預言書の引用は、「わたしを遣わされた父が引き寄せてくださるのでなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない」ということの根拠づけであって、その文に自然に接続します。終わりの日の復活の約束は、やや不自然に割り込んできています。しかし、そうだからと言って、この文をテキストから取り除くことは許されません。編集過程の探求としては意味がありますが、この福音書の使信の内容を受け取るさいには、現在あるままの形で読まなければなりません。この問題は、六章の講解のまとめとして最後に取り扱うことにします。
「預言者の書に、『かれらはみな神に教えられる者になるであろう』と書かれている。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る」。(四五節)
「かれらはみな神に教えられる者になるであろう」という預言書の言葉は、正確に一致する句は(七十人訳ギリシャ語聖書には)ありません。イザヤ書五四・一三に、これに近い表現があります。イザヤ書のこの箇所は七十人訳ギリシア語聖書では、「あなたの子らはみな神に教えられた者となり」となっています。また、「新しい契約」を預言したエレミヤ(三一・三三)は、「わたしは、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」と言っています。著者は、前節の「父が引き寄せてくださる」ということを聖書で根拠づけるために、記憶から引用してこのように書いたと見られます。「神のそばにいる方以外に、父を見た者はない。その方だけが父を見たのである」。(四六節)
ここで但し書きがつきます。「父から聞いて学んだ者」と言っても、人間は直接父のそばに座し、父を見てその声を聞くことはできません。それができるのは「神のそばにいる方」だけです。その方だけが父を見て、わたしたちに教えてくださるのです。永遠の命
「アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言う。信じる者は永遠の命をもっている」。(四七節)
ここでヨハネ共同体は改めて、アーメンを繰り返す荘重な形で、復活者イエスの言葉を世に告知します。それは、論争相手のユダヤ教会堂に対するヨハネ共同体の宣言です。「信じる者は永遠の命をもっている」という告知は、ヨハネ福音書の中心に位置する告知です。「もっている」は現在形です。信じる者は現在すでに「永遠の命」を持ち、その命に生きているという告知が、この福音書の最大の特色です。信じる者
この福音書が世界に告知する福音は、律法を行う者、修行を積む者、悟りを開いた者などではなく、「信じる者」が永遠の命を得るということです。他に何の条件もありません。もちろん、この福音書が「信じる者」というとき、それは「イエスを信じる者」を指しています。この福音書のイエスは「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(六・三五)と言っておられます。この「わたしを信じる者」が、「わたしを」が当然のこととして省略され、「信じる者」と言われます。これは、パウロが「キリストの信仰」をただ「信仰」と呼ぶことが多いのと同じです。食べると死ぬことがない生けるパン
「わたしが命のパンである」。(四八節)
イエスはすでに、パンを求める群衆に「わたしが命のパンである」と宣言しておられます(六・三五、その意義についてはその節の講解を参照)。ここで改めて、そのパンがどのような性質のパンであるかが、マナと比べて語り出されます。あなたたちユダヤ人は先祖が荒野で天から下ってきたマナを食べたことを誇りとして語り伝えているが、マナではなく「わたしが」命のパンである、すなわち復活者イエスこそ命のパンであると宣言され、続いてマナとの違いが明らかにされます。「あなたたちの先祖は荒れ野でマナを食べたが、死んだ」。(四九節)
モーセの書に記されているように、ユダヤ人の先祖たち、すなわちモーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民は、天から下った不思議な食べ物「マナ」を食べて、荒野の四十年を生き延びました。しかし、その食べ物「マナ」は生まれながらの自然の命《ビオス》を養う食べ物であって、いくら奇跡的な食べ物で養われても、その自然の命は結局は死ななければなりません。事実、マナを食べたイスラエルの民は荒野で死に絶えました。「これは天から降ってきたパンであり、それを食べる者は死ぬことはない」。(五〇節)
「これ」は、「わたしが命のパンである」と宣言される「わたし」、すなわち復活者イエスを指します。この方こそ「天から降ってきたパン」であり、このパンを食べる者は「死ぬことはない」のです。それは、このパンを食べる者とは復活者イエスの中に自分を投げ込み、復活者イエスと共に生きる者であるからです。復活者イエスと共に生きる命、上から賜った御霊の命《ゾーエー》には死はありません。復活者イエスはすでに死に打ち勝っておられ、永遠に生きておられるからです。この命は死なない命ですから、「永遠の命」と呼ばれます。人間が生まれながらに生きている自然の命《ビオス》は死にますが、キリストにあって御霊により賜る上からの命《ゾーエー》は死にません。「わたしは、天から降ってきた生けるパンである。人がこのパンを食べるならば、永遠に生きるようになる」。(五一節前半)
「生けるパン」は、パン自身が生きていることを意味しています。イエスは復活者として永遠に生きておられ、そのような方として、ご自身に結びつく者に永遠の命をお与えになるのです。「このパンを食べる」者は、永遠に生きておられる復活者イエスと結び合わされ、復活者イエスと共に生きるのですから、「永遠に生きるようになる」のです。人の子の肉を食べる
「そして、わたしが与えることになるパンとは、世の命のためのわたしの肉である」。(五一節後半)
最後に、イエスが「いのちのパン」として世にいのちを与えるのは、どのようにしてなされるのかが語り出されます。それは「わたしの肉」を与えることによってなされるのです。そして、この「わたしの肉」を与えることによって命《ゾーエー》を与えるという宣言が、ユダヤ人の間にさらに激しい議論と批判を引き起こします。するとユダヤ人たちは互いに激しく議論し始めて言った、「この男はどうして自分の肉をわれわれに与えて食べさせることができるのか」。(五二節)
イエスが「わたしが与えることになるパン」と言われたときの動詞「与える」は未来形です。これは、この対話の時から見て将来に起こる十字架の出来事を指しています。「わたしが与えることになるパンとは、わたしの肉である」とは、十字架にイエスがその身体を引き渡して(献げて)苦しみをお受けになることを指しています。その十字架の出来事こそ、「世に命を与えるために」イエスが引き受けられた苦しみであり、それによってイエスは世に命《ゾーエー》をお与えになるのです。この福音書の他の箇所ではあまり用いられない「肉」という語と、「噛む」という特別な動詞(五四節の注を参照)を用いたこの箇所(五一節後半〜五八節)は、他の箇所の「肉」の用例と整合しないこともあって(一・一三、三・六、六・六三、八・一五と比較せよ)、後の編集者による挿入であると、多くの研究者が見ています。その場合編集者は、最後の晩餐でイエスがパンを渡して、「これはわたしの体である」と言われたことを念頭に置いて、六章の命のパンについての対話を聖餐に結びつけようとしたと見られています。この箇所(五一節後半〜五八節)はヨハネ共同体の聖餐儀礼の用語が強く反映していると見られます。なお、そこで体《ソーマ》ではなく、肉《サルクス》が用いられているのは、より原初的な伝承を用いているからであると考えられます。イエスが用いられたアラム語《ビスラ》またはヘブライ語《バーサール》は、肉と(生きた)体の両方を意味します。七十人訳ギリシャ語聖書はこれを《サルクス》(肉)と訳しています。それがヘレニズム世界での伝承の過程で、より広範な意味を担いうる《ソーマ》(体)に移り、パウロや共観福音書ではもっぱら《ソーマ》(体)が用いられるようになります。その移行には「霊と肉」の対立という神学的な思想が影響した可能性も考えられます(六・六三参照)。聖餐のパンをキリストの「肉」《サルクス》と呼ぶ古い伝承は、アンティオキアのイグナティオス書簡(107年)にも見られます。
ユダヤ人は「十字架の言葉」につまずくのです。すなわち、ナザレ人イエスの十字架上の死は、復活者キリストがわたしたちの罪のために死なれた死であって、そのキリストの死によってわたしたちは「あがない」を得て救われるのである、という福音の告知に反発します。彼らはイエスが復活者キリストであると信じないので、一人の人間の死が永遠の命を与える出来事となることはあり得ないとして、この福音を拒否するのです。そこでイエスは彼らに言われた、「アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言う。あなたたちは、人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、自分たちの中に命はない」。(五三節)
同じことが「わたしの肉、わたしの血」と言われている次の五四節との並行関係から、ここの「人の子」はイエスご自身を指していることは明らかです。「人の子」とは本来終末的・超越的な審判者・救済者を指しますが、ヨハネ福音書はイエスを「天から降った」すなわち「受肉した」復活者であるとし、イエスを地上に下った「人の子」とします(一・五一、三・一三〜一五、五・二七〜二八など)。したがって、「人の子の肉」、「わたしの肉」は人間イエスの身体的・物質的な肉ではなく、復活者にして受肉者であるイエスの全存在を指すことになります(六・二七、六・六三)。ヨハネ共同体が「最後の晩餐」の伝承に従って「主の食卓」(聖餐儀礼)を行っていたかどうかの問題、また、この箇所をはじめサクラメント(聖礼典)に関係すると見られている箇所の意義については、後でまとめて「ヨハネ福音書とサクラメント」の項で取り扱います。
十字架された復活者キリストに自分の全存在を投げ入れ、その方の十字架の死に合わせられて自分が死に、復活者と共に新しい自分が生き始めるのでなければ、「永遠の命」はない。その他には「永遠の命」に至るいかなる道もない。どのような難行苦行も、ユダヤ教律法の厳しい順守も、どのような宗教的・道徳的価値も、人間に「命」《ゾーエー》を与えることはできない。命《ゾーエー》を与えるのは、十字架につけられた復活者イエス・キリストだけである。これが、ヨハネ福音書が世に向かって、とくにユダヤ教会堂に向かってする宣言です。「わたしの肉を噛みしめ、わたしの血を飲む者は永遠の命を持ち、わたしはその人を終わりの日に復活させる」。(五四節)
前節で「人の子の肉を食べ、その血を飲む」と言われたことが、ここで「わたしの肉を噛みしめ、わたしの血を飲む」と、少しだけ違った形で表現されます。前節の「人の子」がここでは「わたし」になっていて、「人の子」がイエスの自称であることが確認されます。また、「肉を食べる」が「肉を噛みしめる」というこの福音書独自の表現で語られます。「噛みしめ」と訳した動詞は、普通「食べる」と訳されていますが、ここの動詞は五三節までの「食べる」とは違う動詞が用いられており、原意は「咬む、、かじる、噛む」です。この動詞はマタイ二四・三八に出てくる以外は、ヨハネ福音書だけで用いられています(5回)。ヨハネ一三・一八では、裏切るユダについて、イエスの仲間であることを示すのに、「わたしのパンをかじる者」という形で用いられています。他の4回はみなこの段落(六・五四〜五八)に集中しています。「肉」という表現に合わせて、「かじる、噛む」という動詞が用いられたのでしょう。
しかしこの節は、否定の形で語られていた前節を肯定の形で言い直しただけの繰り返しではなく、人の子の肉を食べその血を飲む者は現在すでに永遠の命を持つという宣言に、「わたしはその人を終わ2. りの日に復活させる」という重要な約束が加えられています。「復活させる」という動詞は未来形です。復活者イエスは、終わりの日に御自分に属する者を復活させてくださるという約束は、すでにこの六章で三回語られていました(三九節、四〇節、四四節)。信じる者は現在すでに永遠の命を持っているという使信を中心に据えているヨハネ福音書に、このような終わりの日の復活の約束が(この六章だけに)加えられていることは、この福音書の理解にとって重要な問題を投げかけているだけでなく、キリストの福音の理解そのものにとっても重要な意義をもっています。この問題は六章の終わりに、この章のまとめとして別に取り上げます(「補論―永遠の命と死者の復活」参照)。「わたしの肉こそまことの食べ物であり、わたしの血こそまことの飲み物だからである」。(五五節)
先に、モーセが天から与えたとされるマナではなく、天から降ってきた方(人の子)であるイエスこそ「本物のパン」であることが宣言されていました(三二〜三三節)。そして、その「本物のパン」を食べるとは、イエスを信じること、すなわち、復活者イエスに自分を投げ込むことであると語られていました(三五節)。この段落(五二〜五八節)では、「パンを食べる」ことが「肉を噛みしめ、血を飲む」と言い直されていますが、これはたんに表現を変えただけではなく、ここに見たように、「十字架につけられた」復活者キリストを信じることが永遠の命、まことの命《ゾーエー》であることを主張しているのです。三二節では《アレーシノス》という形容詞、五五節では《アレーセース》という形容詞が用いられています。両方とも《アレーセイア》(真理)の形容詞形です。辞書によりますと、前者《アレーシノス》は「まがいものや不完全なものではなく本物である」という意味、後者《アレーセース》は「事実に即して真である、偽っていない」という意味です。この翻訳では、前者を「本物の」、後者を「まことの」と訳しています。
「わたしの肉を噛みしめ、わたしの血を飲む者は、わたしの中にとどまり、わたしもその人の中にとどまる」。(五六節)
「とどまる」はこの福音書特愛の動詞です。パウロが「わたしはキリストの中に、キリストはわたしの中に生きる」と言った霊の次元の消息を、ヨハネは「その人はわたしの中にとどまり、わたしもその人の中にとどまる」と表現します。この「わたし」は復活者イエス・キリストです。パウロにおいても、このような境地は「十字架につけられたキリスト」に合わせられて自分が死んだ場で実現する境地でした。その「十字架につけられたキリスト」に合わせられた姿を、ヨハネは「わたしの肉を噛みしめ、わたしの血を飲む者」という表現で指し示すのです。この節の境地は、パウロの「キリストにあって」自分が死に、復活者キリストが自分の中に生きておられるという告白と同じです。「生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを噛みしめる者はわたしによって生きるようになる」。(五七節)
万物の創造者である父こそあらゆる種類の命の源泉であり、当然この福音書が語る「永遠の命」《ゾーエー》の源泉でもあります。そのことが「生ける父」と表現されています。イエスはその父から遣わされた方として、父からの命を受けて、父と同じ命に生きておられます。ここの「わたし」は復活者イエス・キリストです。「わたしが生きている」の「生きている」は現在形です。復活者イエス・キリストが現在生きておられる命こそ、すでに死に打ち勝った「永遠の命」です。そして、「わたしを噛みしめる者」、すなわち「十字架につけられたキリスト」に合わせられる者は、この復活者キリストによって「生きるようになる」のです。「これは天から降ってきたパンであり、先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。このパンを噛みしめる者は、永遠に生きるようになる」。(五八節)
「わたしの肉こそまことの食べ物、わたしの血こそまことの飲み物」と言って、「十字架につけられた復活者キリスト」こそ永遠の命を与えるまことの命の糧であることを証言したこの段落(五二節以下)は、最後に「これは天から降ってきたパンである」と言い直して、先の「いのちのパン」の段落(二二〜四〇節)と結びつけ、二つの段落を一つの使信にまとめます。その結果、本来「肉を噛みしめる」という形で用いられていた動詞が、パンについてもそのまま用いられ、「パンを噛みしめる」という形になっています。これらのことは、イエスがカファルナウムの会堂で教えて語られたものである。(五九節)
この「いのちのパン」についての対話は、対岸から舟に乗ってカファルナウムまでイエスを探しに来た群衆との対話として描かれていました(二四〜二五節)。それで湖岸で行われた対話のような印象を与えますが、最後にこの対話が「カファルナウムの会堂で」行われたものであるとの説明が加えられています。これはおそらく、対話の後半(四一〜五八節)で、対話の対象が「群衆」から「ユダヤ人」に変わったことの結果であると考えられます。すなわち、この対話(とくに後半の対話)は、ユダヤ教会堂勢力に対するヨハネ共同体の弁証として書かれたので、イエスの言葉は会堂に集まるユダヤ人たちに向けられたものとされたのでしょう。誰に向かって語られたにせよ、この六章の「いのちのパン」についての証言は、ヨハネ共同体の福音そのものであることに変わりはありません。解釈の二方向
この段落の後半部(五一節後半〜五八節)では、イエスの「肉を食べ、血を飲む」ことが永遠の命であるという主張がなされていました(五四節参照)。「わたしの肉、わたしの血」とか「肉を食べ、血を飲む」という表現は明らかに聖餐伝承を響かせていますので、ここでヨハネ福音書が聖餐をどのように取り扱っているかを、ひいてはバプテスマを含むサクラメント(聖礼典)をどのように扱っているかをまとめておきましょう。バプテスマ
いま教会的な立場を離れて、この福音書を成立の状況において理解しようとすると、どうなるでしょうか。まず、ヨハネ福音書には「バプテスマを授けよ」という明白な命令がないので、ヨハネ共同体はバプテスマを行っていなかったという議論は成り立ちません。それはマルコ福音書にもルカ福音書にもありませんから、明白な命令を伝えているマタイの共同体以外はバプテスマを行っていなかったことになり、事実と反します。初期の福音宣教においては広く、バプテスマによってイエス・キリストへの信仰告白がなされていました。パウロも、自分自身は例外的にしかバプテスマを授けなかったとしていますが、バプテスマがその頃のキリスト信徒の通例の体験であったことを前提にして語っています。バプテスマにおける水と霊の関係については、三章五節の「誰でも水と霊から生まれるのでなければ、神の国に入ることはできない」という言葉が重要ですが、これについては本書113頁のこの節についての講解を参照してください。
聖餐
聖餐については、状況はやや複雑です。今回取り扱った箇所(六・五一b〜五八)は、「わたしの肉、わたしの血」とか「肉を食べ、血を飲む」という表現に見られるように、ヨハネ共同体が聖餐伝承を熟知していることを示していますから、当然共同体は聖餐を行っていたと推察されます。それにもかかわらず、どの共観福音書にも伝えられている「制定記事」がないことが問題になります。先に見たように、著者または伝承の起源と見られる「イエスが愛された弟子」は最後の夜に行われた食事の席にいたのですから、この省略は意図的であると考えざるをえません。ヨハネ福音書が伝える通り、最後の夜の食事の席でイエスは「これを行え」というような命令は与えられなかったとし、共観福音書の制定記事は初代教団の作為であるとするのは、さらに大きな困難を抱え込むことになりますので、ここではこの可能性は除外します。
この箇所(六・五一b〜五八)の存在と一三章に「聖餐制定記事」がないことの関係は、以下のように説明されることがよくあります。すなわち、原著者が最後の夜の食事に制定記事を入れなかったのは行き過ぎであり不適切であると感じた後の編集者が、六章のパンについての対話の中に聖餐の意義を説くこの一段を挿入したという説明です。この解釈によると、原著者は当時聖餐が儀礼化してゆくことに抗議し、聖餐の儀礼化を克服しようとして、そもそも主イエスはそのような儀礼を行うことは命じておられないとしたのであるが、後になって聖餐を行っている周囲の諸潮流と協調するため、編集者がこの一段を挿入して、この福音書を生み出した共同体(ヨハネ共同体)も聖餐を行っていることを示し、共同体の霊的理解を強調したものとするのです。サクラメントの相対化
NTD新約聖書注解の「ヨハネによる福音書」で、シュルツは「第四福音書記者はサクラメントに反対しなかった。むしろ洗礼と聖餐を知っていて、自明のこととして前提しているのである」とした上で、こう言っています。パウロがユダヤ教律法の儀礼を「相対化」したことについては、拙著『パウロによる福音書―ローマ書講解U』の第九章「強い者と弱い者」(とくに241頁の「『宗教』の相対化」の項)、および拙著『教会の外のキリスト』の終章「キリストの絶対性とキリスト教の相対性」を参照してください。 ヨハネはパウロの延長線上にあると見られます。