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第四節 ヤコブ書の位置と意義

ユダヤ教枠内のキリスト信仰

 以上、ヤコブ書の概略を見てきましたが、このようにその内容を一読するだけでも、本書がユダヤ教の枠内の文書であることが分かります。しかし同時に、その立派なギリシア語と、もはやエルサレム神殿での祭儀とモーセ律法の順守について触れることのない内容から、著者も読者もヘレニズム世界に生活する離散のユダヤ教徒であることを強く示唆しています。「主の兄弟ヤコブ」の名によって書かれた本書は、ヤコブが代表した最初期のエルサレム共同体の伝承を、70年以後のヘレニズム世界において証言する重要な文書となります。

 Chilton & Evans, ed. James the Just and Christian Origins, Brill, 1999 で Peter H. Davidsの論文 " Palestinian Tra-ditions in the Epstle of James " は、本書が示す濃厚なパレスチナ伝承から、本書をヤコブ自身によって書かれたか、殉教直後にヤコブの教えを基にして書かれた、離散のユダヤ人を指導するエルサレム発の「ディアスポラ書簡」であるとしています。もしそうであるとしても、ヤコブ書をヘレニズム世界におけるエルサレム共同体の伝承の証言と位置づける理解に変更の必要はありません。

 離散のユダヤ人(ユダヤ教徒)には、異邦人(異教徒)との交わり方が問題になるはずです。事実、パウロは集会内におけるユダヤ人と異邦人の交わりの問題で苦労しています。ところが、ヤコブ書はこの問題について触れていません。ヤコブは異邦人にはユダヤ教の食事規定順守を求めなかったとしても、ユダヤ人にはその順守を求めたので、アンティオキアで共同の食卓をめぐって問題が起こりました(ガラテヤ二・一一〜一四)。ところが、ヤコブ書では読者のユダヤ人に、このような食事規定の順守などによってユダヤ教徒としての立場を明確にするように求めていません。これは当然のこととして言及しなかったのか、それとも、もうそのことは問題にならないような状況になっていたからなのか、確認することは困難です。全体としては、後者であるという印象を受けます。
 ヤコブ書のキリスト信仰はユダヤ教の枠内にあります。パウロのようにその枠を乗り越えようとする姿勢はありません。しかし、割礼や食事規定や安息日規定の順守によってユダヤ教徒としてのアイデンティティーを死守しようとする姿勢もありません。この点ではマタイの姿勢と通じるものがあります。ヤコブ書は、特殊な契約共同体であるイスラエルの中で(かなり後期になるヘレニズム期に)形成された、どの民族にも普遍的に通用する知恵思想によって、異邦人世界に生活するユダヤ教徒のキリスト信仰を健全なものに指導しようとしていると言えます。
 これが、ヤコブ書の「位置と意義」ということになりますが、そのことを内容上重要な二三の面でさらに詳しく見ておきます。

イエスとヤコブ

 ヤコブ書がエルサレム共同体の伝承を受け継いでいる文書であることの重要な一面は、そこにイエス語録の伝承が数多く含まれていることにあります。第一節「主の兄弟ヤコブ」で見たように、ヤコブはイエスの兄弟として、イエスの生前の活動の時期からイエスと一緒に行動していた可能性もあり、とくにイエスの復活以後に成立したエルサレム共同体では初めから「十二人」と共に指導的な立場にありました。それで、自分自身が直接耳にしたイエスの言葉と、「十二人」が伝えたイエスの言葉を統合して伝える立場にあったと言えます。
 とくに42年にゼベダイの子のヤコブが殉教し、ペトロがエルサレムを去ってからは、エルサレム共同体を代表する人物として、聖都でイエス運動の担い手として活躍しました。イエス伝承のもっとも権威ある担い手として、エルサレムだけでなく、最初期の宣教活動の中心にいました。ルカの「使徒言行録」ではペトロとパウロの陰に隠れてヤコブの姿はかすんでいますが、実際はヤコブがイエスの後継者であり、ユダヤ人の間ではそう見られていました。だからこそ、パウロもエルサレム共同体との関わりを抜きにして、自分の宣教活動を進めることはできなかったのです。それで、ヤコブ書によってヤコブが代表するエルサレム共同体の姿を知ることは、遡ってイエスの宣教活動の性格を知る上で重要な手がかりとなります。
 ヤコブがエルサレム共同体を、ひいてはすべてのユダヤ人のキリスト者を指導しようとしたとき、聖書(とくに知恵思想の部分)と共に、イエスの言葉を用いたことは、第三節「略解」で見たとおりです。ユダヤ教徒として聖書を権威として用いるのは当然ですが、それと並んでイエスの言葉を同じように権威あるものとして、勧告の根拠にしています。これは、エルサレム共同体がヤコブを通して伝えられたイエスの語録を信仰の拠り所として生きていたことを指し示しています。その結果ヤコブ書は、イエスの語録を基にしてユダヤ人キリスト者に呼びかけるマタイ福音書とよく似た文書となっています。
 マタイ福音書がイエスの言葉を集めた「語録資料Q」の流れを汲む福音書であることは顕著な事実です。最近の研究で「語録資料Q」の内容が復元されていますが、その中のイエスの語録とヤコブ書の文言とが重なっている場合が多く見られます。それは「略解」で見たとおりです。その結果、マタイ福音書とヤコブ書は同質の傾向をもつ信仰文書となっています。しかし、同じイエスの語録伝承を受け継ぎながらも、状況とか執筆意図の違いから、両者には(とくにユダヤ教団に対する態度において)違いも見られます。

 ヤコブ書と「語録資料Q」との重なり(と微妙な相違)については、前出の Painter, JUST JAMES The Brother of Jesus in History and Tradition p.260 ff. が、先行する研究をまとめて一覧表を作っています。この一覧表では、ヤコブ書とマタイの特殊資料Mとの関係が重要であることが分かります。また、前出のハーシェル・シャンクス、ベン・ウィザリントンV著『イエスの弟―ヤコブの骨箱の発見をめぐって』(松柏社)の第二部で、ベン・ウィザリントンがマタイ福音書とヤコブ書の比較を行っています。「主の兄弟ヤコブ」と「語録資料Q」との関係はさらに追及すべき課題であるように思われます。

 では、ヤコブが代表するエルサレム共同体はイエスの忠実な継承者であると見ることができるでしょうか。これは、一面では然り、一面では否と答えなければならないと、わたしは考えています。
 たしかにヤコブはイエスの兄弟として、イエスとユダヤ教徒としての体質を同じくしています。ヤコブはイエスの兄弟として、同じ父親から同じ律法教育を受け、同じユダヤ教会堂で学び、同じ体質のユダヤ教徒として育ちました。地上では一人のユダヤ教徒として、イエスはご自分の宣教活動の対象をユダヤ教徒に限られました(マタイ一〇・五〜六)。イエスの兄弟ヤコブは、イエスの宣教のこの一面を忠実に継承しています。イエスはユダヤ人に向かって、「神の国」の到来を告知されました。ヤコブもこの点ではイエスの忠実な継承者です。復活者イエスに出会ったヤコブは、「割礼の者たち」すなわちユダヤ教徒に向かって、イエスこそメシアであり、この方において「神の国」が到来していることを宣べ伝えることを使命としました。
 しかし、イエスの宣教にはユダヤ教を乗り越える一面がありました。律法を守ることができないので、ユダヤ教では「罪人」とされている人々を「貧しい人たち」と呼び、その人たちこそ神に受け入れられている神の民であるとされました。こうして「神の国」は、律法とは別の恩恵の原理による神の支配であることを告知されました。これが、律法を神と人との関わりを形成する唯一の原理であるとするユダヤ教指導層から、ユダヤ教に対する否定であり、神に対する冒?とされ、ついには殺されることになります。
 同じ律法教育を受けたユダヤ教徒でありながら、イエスが兄弟のヤコブや他の弟子たちと違う原理に生きるようになられたのは、イエスだけが聖霊による決定的な体験をされたからです。そうなったのは、神がイエスを選ばれたからだとしか言えません。イエスは洗礼者ヨハネの運動に加わって荒野におられたとき、天が開いて聖霊が降るのを体験され、その神の霊によって父との親しい交わりに入り、終末の事態である父の恩恵の支配が到来していることを体験されました。その結果、律法を超える恩恵の支配を告知する者となられたのです。
 ヤコブもイエスの恩恵の支配を受け取っています。ヤコブもイエスと同じく「貧しい者」がそのまま神に受け入れられていることを知っています。しかし、それはあくまでユダヤ教の枠の中でのことです。恩恵の支配が「律法の外にいる者」、すなわち異邦人まで及ぶことは考えていません。ヤコブと彼が代表するエルサレム共同体がそれを理解するようになるには時間がかかりました。
 イエスの宣教のこの一面、すなわち律法(=ユダヤ教)を乗り越える面があることを理解し、ユダヤ教の枠を突き破って恩恵の支配の福音を異邦人まで伝えるための突破口を開いたのは、ステファノに代表される「ヘレニスト」たちです。彼らはユダヤ教側から弾圧されてエルサレムを去り、エルサレム共同体とは別の活動拠点をアンティオキアに持つにいたります。ヤコブに代表されるエルサレム共同体は、イエスの宣教に含まれるこの面を十分に継承したとは言えないことになります。この一面は、やがて復活者イエスによって立てられた使徒パウロによって代表されることになります。このパウロとヤコブがどのように関わるのかが、次項の主題となります。

パウロとヤコブ

 使徒言行録では、パウロとヤコブが直接出会ったことを報告する記事は、一五章のエルサレム会議の時と、二一章の最後のエルサレム訪問(この時にパウロは逮捕される)の二回だけです。しかし、パウロが回心後三年目にエルサレムを訪問した時(使徒言行録九・二六〜三〇)のことについては、パウロ自身がペトロの他に「主の兄弟ヤコブ」に会ったと語っています(ガラテヤ一・一九)。使徒言行録には、この他に飢饉の時の援助のための訪問(一一・三〇)と、第二次伝道旅行の後コリントからエルサレムを訪問したこと(一八・二二)が伝えられています。このヤコブと会ったことに触れていない二つの記事も、当時のエルサレム共同体における代表者としてのヤコブの地位を考えると、当然パウロはヤコブに会っているとしなければなりません。そうすると、パウロは彼の伝道活動の期間中に五回エルサレムでヤコブと会っていることになります。

 パウロのエルサレム訪問についての使徒言行録の記事とパウロ書簡の証言との関係については諸説があり、複雑な様相を見せています。そのことについては、拙著『パウロによるキリストの福音V』6〜17頁を参照してください。

 この五回のパウロとヤコブの会談の中でもっとも重要な意味があるのは、パウロがガラテヤ書二章(一〜一〇節)で報告している「エルサレム会議」です。異邦人で信仰に入った者に割礼を施すべきだと主張した一部のユダヤ教徒に対して、パウロは割礼は必要ない(すなわちユダヤ教への改宗は必要でない)と主張して譲りませんでした。使徒言行録によると、最後に議長としてヤコブが立って、パウロの働きを聖書の預言にかなうもの(神のご計画の中にあるもの)として認め、ユダヤ人信徒との交わりに必要な最低限の事柄を異邦人信徒に要求する書簡を送ることで決着します。

 このエルサレム会議におけるヤコブの役割については、447頁の「調停者ヤコブ」の項を参照してください。

 この会議の結論をパウロの側から見るとどうなるでしょうか。パウロはこう書いています。
 「・・・・彼らはわたしに与えられた恵みを認め、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。それで、わたしたちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです」(ガラテヤ二・九)。
 この会議で合意が成立し、ヤコブとケファとヨハネは「割礼を受けた人々」、すなわちユダヤ人に、パウロとバルナバは異邦人に、という原則が承認されたのです(原文には「行く」という動詞はなく、これからの働きの分野ではなく、原理の承認を語っています)。福音を伝える働きが、その対象から二つの分野に分けられ、「割礼の者たち」(ユダヤ教徒)への宣教はヤコブが代表するエルサレム共同体が担当し、「無割礼の者たち」(異邦人)にはパウロ・バルナバが代表するアンティオキア共同体が担うという原則が承認されたのです。こうして、異邦人で信仰に入った者には割礼(ユダヤ教への改宗)が要求されないことが確認されたわけです。
 この会議の合意は、それまでに事実として行われてきていた二つの宣教活動(ミッション)の原則が承認されたことを意味します。全体の統括者としてのヤコブは、パウロの異邦人への「割礼なしの福音」を神の恵みの働きとして認めています。これが、パウロとヤコブの関係を検討するときに基本的な事実となります。
 70年のエルサレム神殿崩壊までの最初期には、ユダヤ人への宣教活動と異邦人への宣教活動という「二つの宣教活動(ミッション)」が並行して進められていました。この二つの宣教活動(ミッション)も、その内部では違った傾向があり、一枚岩ではありませんでした。ヤコブを代表とするユダヤ人へのミッションも、最強硬派には異邦人信徒にも割礼を要求した「ファリサイ派から信者になった」者たちがいました(彼らは実はエッセネ派出身の者たちではないか、とわたしは推測しています)。そして、コルネリオの場合の体験から異邦人をそのまま受け入れることに理解をもつペトロのような、かなり自由な立場の一派もありました。
 一方、パウロに代表される「律法から自由な宣教活動(ミッション)」にも、様々な傾向があったようです。異邦人信者には割礼を要求せず、その原理で異邦人に福音を伝えることを使命としながらも、自身は律法順守によってユダヤ人としてのアイデンティティーを保持しようとしたバルナバとアンティオキア共同体のユダヤ人信者たちがいました。この傾向の人たちは、ペトロの立場の人たちと重なってきます。パウロはこのような立場の人たちとは一線を画しています(ガラテヤ二・一一〜一四)。他方、パウロの律法から自由な立場を徹底して、一切の律法規定を廃棄し、聖書(旧約聖書)そのものまで否定する極端な自由主義者も出てくることになります。後にマルキオンに代表されるようになる立場が、萌芽として始まっています。パウロは、このような自分の霊的知識を誇る自由放埒主義者を厳しく非難しています(コリント書簡)。
 それぞれの内部に異なる諸傾向を孕んでいたとはいえ、この並行して進められていた「二つの宣教活動(ミッション)」を代表する人物として、ヤコブとパウロの関係は重要です。ヤコブは、パウロの異邦人への「割礼なしの福音」、「律法から自由な福音」を、神の救済史の一部として認めていました(使徒一五・一二〜一八)。パウロは、ヤコブが代表するイスラエルへの福音宣教が存在して初めて、自分の異邦人伝道の意義が全うされることを知っています(ローマ書九〜一一章)。それで、エルサレム共同体との関係を無視して自分の宣教活動を進めようとはしませんでした。どのような困難があっても、自分の命が危険にさらされても、必要な時にはエルサレムにヤコブを訪ねることをためらいませんでした。
 ところが、エルサレムではパウロの「割礼なしの福音」が誤解されていました。パウロは、異邦人信者に割礼を求めなかっただけですが、エルサレムの律法熱心なユダヤ人の間には、パウロはディアスポラのユダヤ人たちに「子供に割礼を施すな、(モーセの)慣習に従うな」と言って、モーセから離れるように教えていると誤解されて伝わっていました(使徒二一・二一)。パウロを理解しているヤコブは、この誤解を解くために、パウロに神殿での清めの儀式に参加するように勧めます。パウロはこの勧告を受け入れますが、その結果騒乱に巻き込まれ、逮捕されることになります。
 このようにパウロとヤコブが互いに理解し承認していたという基本的な関係からすると、ヤコブ書二・一四〜二六の「行いを欠く信仰は死んだもの」の段落は、けっしてヤコブがパウロの「割礼なしの福音」とか「律法とは別の神の義」という原理を否定しているものではないことが理解できます。この段落の表現や用語からすると、ヤコブ、またはヤコブの教えの伝統を継承してヤコブ書を書いた著者は、パウロのローマ書を知っていたと考えられます。著者は信仰による義そのものを非難しているのではなく、「行いの伴わない信仰」を批判しています。「信仰によって救われる」と称して、自分には信仰があるから行いはなしでもよいとする信仰、すなわちパウロの信仰による救いの使信の誤解とか誤用を批判しているのです。パウロは、信仰があれば行いはなくてもよいとは主張していません。たしかに、キリスト信仰だけが神に受け入れられる根拠であることを際だたせるために、パウロは行いなくして義とされる者の幸いを語っています(ローマ四・四〜五)。義の根拠としての行いは厳しく排除されています(ローマ三・二七)。しかし、義とされ御霊に生きるようになったキリスト者が、御霊の実を現す行いや生活をしなくてもよいなどとは一言も言っていません。ローマ書では一二章以下で「信仰に伴う行い」を説いています。
 ヤコブ書は、どうして、どのような根拠で人は救われるのかを説く文書ではなく、主イエス・キリストを信じて救われた者がどのように生活すべきかを説く実践的な勧告の手紙です。ヤコブ書は、ローマ書の一二章以下と較べられるべき文書です。そのように比較すれば、ローマ書とヤコブ書は大差ないことが理解できます。パウロも、自分には信仰があると言っていながら、貧しい人を差別して冷遇するような信者を見たら、ヤコブと同じく、主イエスを信じる者にふさわしく行動するように戒めたことでしょう。

ヤコブと黙示思想

 先に「ヤコブの殉教」の項(449頁)で見たように、ユダヤ教指導者たちは、民衆にイエスをメシアと信じて誤りに陥らないよう説得することを求めて、ヤコブを神殿の高い所に連れて行き、そこから語らせます。ところが、ヤコブは「人の子は天において大いなる力の右に座し、天の雲に乗って来られる」と叫んだので、彼らはヤコブを突き落とし、石を投げつけて殺します。また、復活されたイエスが最初にヤコブに現れたことを伝える伝承(『ヘブル人福音書』断片七)でも、「わたしの兄弟よ。あなたのパンを食べなさい。人の子が眠りについている者たちの間から復活したのだから」と、「人の子」という用語が使われています。
 終わりの日に天から現れて神の審判を執行し、義人を救う「人の子」という表象は、ユダヤ教黙示思想特有のものであり、異邦人には理解できないものです。それで、パウロをはじめとする異邦人へのミッションでは使われなくなります。ところが、このようにヤコブに関する伝承で「人の子」が用いられている事実は、エルサレム共同体から発するこの黙示思想の用語が、二世紀とか三世紀というかなり後の時代まで、ユダヤ人キリスト者の間で理解され用いられていたことを示しています。
 殉教のときに、石を投げつけるユダヤ人のために赦しを祈り、「人の子」を言い表した事実は、ステファノの場合(使徒七・五六)と同じです。このことから、ステファノからヤコブの殉教に至るまで、エルサレム共同体は「人の子」の来臨を差し迫ったものとして熱く待ち望む黙示思想的待望の集団であったことが分かります。このことは、すでにヘレニズム世界に生活しているという状況で書かれたと考えられる「ヤコブ書」が、「主イエス・キリストの《パルーシア》(来臨)」を強調している事実からも確認されます(五・七〜八)。先に見たように、ヤコブ書は「主イエス・キリスト」の名を二回出していますが、そのキリストがどのような方であり、どのような救いを与えてくださるのかについて語るところはほとんどありません。その中で、「主の《パルーシア》」だけが取り上げられ、それが近いことが勧告の根拠とされています(479頁参照)。この事実は、ヤコブ書もエルサレム共同体の黙示思想的待望の体質を証言していることを意味します。

 ステファノの殉教とヤコブの殉教の物語がきわめてよく似ていることから、両者の関係が議論の対象になっています。使徒言行録七章は、ヤコブの殉教伝承を基にしてルカが構成したものだとする研究者もいます(アイゼンマン)。いずれにしても、エルサレム共同体が、前一世紀からユダヤ戦争の前後までの期間、ユダヤ教内に燃え上がっていた黙示思想的待望を共有していることを示しています。そうでありながら、ヤコブ書が知恵思想に根ざした実際的勧告を基調としている事実は、黙示思想と知恵思想の関係を改めて考えさせます。

 エルサレム共同体は、その成立当初からきわめて強いメシア来臨の待望に生きる集団であったと考えられます。過越祭のエルサレムでイエスが処刑された後、ユダヤ教指導層からの追求を恐れてガリラヤへ逃げ帰っていた弟子たちが、ペンテコステまでに再び危険なエルサレムに戻ってきたのは、復活されたイエスの顕現に接し、イエスこそ終わりの日に神が遣わされたメシアであることを確信し、そのメシア・イエスがやがて栄光の中に到来されることをイスラエルの民に告知することを、復活者イエスから委ねられた使命と理解したからです。その告知は、イスラエルの民の聖所、とくにすべての民が集まる祭りの時のエルサレムでしなければなりません。また、その来臨をエルサレムで待たなければなりません。ペトロやイエスの家族はエルサレムに移住し、イエスの死から五十日後のペンテコステの祭りの時、エルサレムでイエスを復活されたメシアと告知し、その方が終わりの日の裁き主として到来されようとしていることを宣べ伝えます。その結果、エルサレムにイエスをメシアと信じ、その栄光の来臨を待ち望むユダヤ教徒の共同体が成立します。
 ヤコブも、先に(第一節で)見たように、成立当初からこのエルサレム共同体に参加しています。イエスの肉親という特別の立場から、ペトロが代表する「十二人」と共に、エルサレム共同体の中核を形成しますが、42年に「十二人」の一人のヤコブが殺され、ペトロが(そしておそらくは他の使徒たちも)エルサレムを去ってからは、ヤコブがエルサレム共同体の統率者となり、この共同体のメシア来臨待望を体現する立場に立つことになります。そのヤコブが殉教にさいして、「人の子は天において大いなる力の右に座し、天の雲に乗って来られる」と叫んだと伝えられていることは、このエルサレム共同体が黙示思想的終末待望の集団であったことを、よく物語っています。
 同時に、先に「イエスとヤコブ」の項で見たように、ヤコブがイエスの「神の国」運動の継承者であるという面を考慮するとき、このヤコブの黙示思想的終末待望の姿勢は、イエスの「神の国」宣教の性格を理解する上で重要な要素であると考えられます。イエスの「神の国」宣教にこのような終末待望の面がなければ、エルサレム共同体が突然このような黙示思想的待望に生きるようになることはなかったでしょう。イエスの語録伝承はその解釈が争われていますが、洗礼者ヨハネの宣教の中から始まったイエスの「神の国」宣教は、やはり終末的な神の支配の切迫を告知する面が基本的内容であったと理解すべきでしょう。
 ところが一方、ステファノたち「ヘレニスト」から始まりパウロが代表するようになる「律法から自由な福音」宣教の流れは、イエスの「恩恵の支配」の告知の継承として、イエスの「神の国」宣教のもう一つの面を代表しています。パウロ自身はなお黙示思想的な表現や思想の枠組みを残していますが、その次の世代になると、コロサイ書やエフェソ書で見たように、「脱黙示思想」の傾向が強まり、ヘレニズム世界の宇宙論的(コスモロジカル)なキリスト信仰が支配的になってきます。こうして、使徒以後の時代、すなわち「使徒名書簡」の時代には、ヤコブとパウロの対比が、黙示思想をめぐって、一方では黙示思想的待望を中心にもつ流れと、黙示思想を脱却してヘレニズム世界の宇宙論的(コスモロジカル)なキリスト信仰の流れの対比として受け継がれることになります。このヤコブ書は、これまでに見てきたように、黙示思想的待望のエルサレム共同体の体質をヘレニズム世界で受け継いでいます。このヤコブ書やヨハネ黙示録が代表する黙示思想的な流れは、さらにユダ書やペトロ第二書簡に現れることになります。それで、この二書が次章の主題となります。