市川喜一著作集 > 第14巻 パウロ以後のキリストの福音 > 第28講

第二節 ヤコブ書の成立

著者と宛先

 ヤコブ書は「神と主イエス・キリストの僕であるヤコブが、離散している十二部族の人たちに挨拶いたします」という挨拶で始まります(一・一)。この「ヤコブ」は、イエスの兄弟であるヤコブ以外には可能性がないことについては、本章の冒頭で触れました。このように自分の名前だけで広く信徒の群れに呼びかけることができるのは、その名が広く知れ渡っている、よほど権威ある人物だけです。問題は、本書がこのヤコブの筆になる文書か、またはヤコブ以後の人物がヤコブの名を用いて書いた文書かです。すなわち真正性の問題です。最近の批判的な聖書学は真正性を疑う説に傾いていますが、有力な研究者で真正性を擁護する人もかなりいます。聖書事典類は、真正の文書であればこう、偽名文書であればこう理解できるというように、両論併記で説明するケースが多いようです。
 まず言語の問題から見ていきましょう。ヤコブ書はかなり洗練されたギリシア語で書かれています。パレスチナ生まれのアラム語を母語とするユダヤ人であり、長年アラム語系のユダヤ人からなるエルサレム共同体で働いてきた「主の兄弟ヤコブ」が、このような洗練されたギリシア語で書けるかが問題になります。ヤコブがアラム語で書いたものを後でギリシア語に翻訳したという説明もなされますが、ギリシア語でなければ成立しない言い回しもあり、翻訳説は成立しません。たしかに、パレスチナ・ユダヤ人のヤコブはこのようなギリシア語は書けないとすることはできません。当時のパレスチナのユダヤ人は、生活の必要上、ギリシア語もかなり使うことができました。ヤコブの場合は、その生涯の後半をバイリンガル都市であるエルサレムで過ごしたのですから、かなりギリシア語ができても不思議ではありません。ヤコブの周囲にはバルナバやマルコやシラスなどギリシア語をよくするパレスチナ生まれの(=アラム語系の)ユダヤ人が多くいました。しかし、本書のように洗練された文学的なギリシア語は、ヤコブが書いたとすることは不可能ではないにしても、他の人物が書いた可能性も推察するように促します。真正説をとる人も、ヤコブがギリシア語に堪能な秘書とか筆記者を用いて書いたとする場合が多いようです。
 本書は「離散している十二部族の人たち」に語りかけています。「離散している」も「十二部族」も、共にイスラエルの民を指す用語です。「十二部族」はイスラエルの民を指す典型的な表現ですし、「離散している」は捕囚後のユダヤ人について用いられる用語であって、異邦人について用いられることはありません。本書を、広く当時のユダヤ人全体に呼びかけている文書と見る人もいますが、内容からするとやはりイエスを信じているユダヤ人に呼びかけていると見るのが順当でしょう。第一節で見たように、ヤコブはユダヤ人にメシアとしてのイエスを告知し、イエスの信仰に導くことを使命としました。自らユダヤ教律法を厳格に実行し、イエスを信じたユダヤ人には律法の順守を求めた指導者でした。ヤコブは、あくまでユダヤ教の枠の中でイエス信仰を進めることを使命とし、それに生涯をかけた人物です。本書は、この呼びかけの表現からも、またその内容がきわめて強いユダヤ教的色彩に貫かれていることからも、ユダヤ教内の信仰文書であるという性格が明らかです。
 本書は「離散している」ユダヤ人に語りかけています。ヤコブがエルサレムで活動していた時代にも、離散のユダヤ人の中にイエスを信じる者が多くいたのですから、エルサレムから離れることのなかったヤコブが、遠くに住む離散のユダヤ人信徒にこのような勧告の手紙を書いたとしても不思議ではありません。しかし、ほとんどのユダヤ人信徒が離散の民となった70年以後の状況(エルサレム共同体はその直前にエルサレムから脱出しています)に置いてみると、本書はいっそう適切に理解できるのではないかと考えられます。この点については、後で検討することになります。

ヤコブ書の特色

 ヤコブ書は、一読するだけでも、次のような四つの特色があることが分かります。第一は、強いユダヤ教的性格です。とくにユダヤ教の知恵文学の影響は明白で(個々の場合は次節の「略解」で指摘します)、全体がユダヤ教知恵文学の延長上にあることを示しています。逆に、キリスト教的な面はきわめて希薄で、二カ所(一・一と二・一)だけにある「主イエス・キリスト」の名を除くと、そのままユダヤ教の文書として通用すると指摘する学者もいます。しかし、これはユダヤ教の枠内でイエス信仰を推し進めるヤコブの立場としては自然な結果です。ヤコブはユダヤ教の知恵文学の伝統を継承する新しい信仰運動の知者として現れています。
 第二の特色は、「語録資料Q」にあるイエスの語録と同じか、よく似た言葉が全編にちりばめられていることです。その結果、「語録資料Q」を用いてユダヤ人向けの福音書を書いたマタイの福音書、とくにその福音書の典型的な箇所である「山上の説教」とよく似た内容になっています。この事実は、必ずしもヤコブが「語録資料Q」に依存していることを示すものではなく、ヤコブが兄でありメシアとして仕えているイエスの言葉を尊んで忠実に伝えていることを示してます。むしろ、「語録資料Q」がこのようなヤコブのイエス運動から出ている面を考慮しなければなりません。ヤコブ書と「語録資料Q」との重なりは、最初期におけるユダヤ教内のイエス運動の性格について多くの示唆を与えます。
 第三の特色は、本書は貧しい人たちに対して強い関心を向けていることです。この点は、貧しい者への祝福を宣言する「語録資料Q」と共通していますが、ヤコブ書はさらに貧しい人たちへの具体的な配慮に満ちています。その反対に、富める者たちへの厳しい態度が目立ちます。ヤコブが率いるエルサレム共同体は「貧しい人たち」と呼ばれています(ガラテヤ二・一〇)。ヤコブ書は、この「貧しい人たち」の共同体としてのエルサレム共同体の伝承をよく伝えています。
 第四は、二・一四〜二六に見られるように、パウロの「信仰によって義とされる」という教えを強く意識して書かれているという事実です。ヤコブ書は、パウロの福音に反対しているのではなく、(後でその箇所の略解で見ますが)パウロの唱える信仰による義の誤解とか誤用に対して警告しているのですが、このパウロ批判とも受け取られかねない面が本書の特色の一つであり、後の時代(パウロ的福音に立った宗教改革の時代)に、本書が福音にとって価値のない「藁の書簡」(ルター)として無視される原因になります。しかし、最初期の前半(70年まで)において最も重要な人物である「主の兄弟ヤコブ」(その地位はペトロやパウロよりも重いものでした)の姿を伝える文書として、また、ヤコブが代表したエルサレム共同体の伝承を伝える文書として、本書はけっして無視されてはなりません。

ヘレニズム世界におけるエルサレム共同体の伝承の証言としてのヤコブ書

 本書がヤコブ自身によってエルサレムで書かれたという可能性は否定できません。その場合は、ギリシア語に堪能な秘書とか筆記者を用いたと推察されますが、その内容は直接ヤコブ自身の声を響かせていることになります。本書がパウロの宣教を意識していることから、その成立はエルサレムでパウロの活動が問題となった時期以後となり、55年頃(クラウス・ベルガー)とか、殉教少し前の57年とか58年頃と推定されています。
 しかし、本書がエルサレムのユダヤ人信徒に向けられた勧告ではなく(そうであればアラム語で書かれているはずです)、広くヘレニズム世界に離散して信仰生活をしているユダヤ人に、ヤコブの勧告を伝えようとしていることは明らかです。それは、この文書がギリシア語で書かれていること、七十人訳ギリシャ語聖書を典拠として用いていること、《カイレイン》という典型的なギリシア風の挨拶を用いていること(一・一)などからも確認できます。そうであれば、イエスを信じるユダヤ人がほとんど皆「離散している」状況にあった70年以後の時期の成立の可能性がより高くなります。この場合、ヤコブは62年に殉教しているのですから、他の人物が書いたことになりますが、この著者は師ヤコブの信仰を十分身に体して、自ら離散の状況の中から離散の同胞にヤコブの教えを伝えようとして、ヤコブの名によってこの勧告の手紙を書いたことになります。この場合も、この手紙が(間接的ながら)ヤコブの声を響かせ、エルサレム共同体の信仰を伝えていることには変わりはありません。「ヤコブの手紙は、ギリシア語圏においてエルサレム教会のユダヤ人キリスト教伝承が継続していたことの大切な証言である」(H・ケスター)。

 『マタイによるメシア・イエスの物語』 440頁で、「ヤコブの思想を証言する文書はないので(新約聖書の中のヤコブ書は主の兄弟ヤコブの著作とは考えられません)、ヤコブとマタイを直接比べることはできませんが・・・・・」と書きましたが、これは訂正の必要があります。ヤコブ書は直接ヤコブが書いたものではないとしても、十分ヤコブの思想と立場を伝えていると言わなければなりません。

 70年以後の成立とする場合、どの地域で成立したかが問題となりますが、それを確定することは困難です。エルサレムから脱出したユダヤ人信徒の避難先としては、シリア方面が第一に考えられますが、その中でもやはりエルサレム共同体と深いつながりのあった強力な集会が活動しているアンティオキアが第一の候補となるでしょう。ペインターもアンティオキアを推定しています。アンティオキアでは、ユダヤ人信徒の中からイエスの語録伝承を基にしたマタイ福音書が生まれています。また、「ディダケー」と呼ばれるユダヤ教的色彩の強い勧告の文書も、アンティオキアでの成立が推定されています。危機的状況の聖都から脱出したエルサレム共同体の一部のメンバーが、アンティオキアにヤコブの教えとエルサレム共同体の伝承を携えてきて、このような「離散のユダヤ人」信徒に向けた勧告の文書が成立したと見てよいでしょう。

 アンティオキア成立説にも、シリアの教会がかなり遅くまでヤコブ書を知らなかったという困難があります。注解者の中には、ヤコブ書二・一四〜二六がパウロのローマ書を知っていると見られること、また、ローマでの成立と見られる「ヘルマスの牧者」とかペトロ第一書簡やクレメンス書簡が、用語とか思想でヤコブ書に近い点があることから、ヤコブ書がローマにおいて早くから知られていて、ローマで成立したと推定する人もいます(たとえばAnchor Bible の Reicke )。ローマには多くのユダヤ人信徒がいたのですから、この推定も有力です。あるいはパレスチナの周縁地域(カイサリアなど)やエジプト(アレクサンドリア)での成立を推定する研究者もいます。