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第二節 テサロニケ第二書簡の成立

著者問題

 ここまで、パウロまでの来臨待望とパウロ以後の来臨待望の概略を見てきましたが、この来臨待望の変遷の中で、共に来臨問題を扱っている二つのテサロニケ書簡はどのようなところに位置するのでしょうか。
 テサロニケ第一書簡が使徒パウロ自身の手になる書簡であり、テサロニケ伝道のすぐ後、五〇〜五一年頃に書かれた手紙であることは広く認められています。テサロニケ第一書簡がパウロまでの時期の来臨待望を証言する文書として重要であることは、テサロニケ第一書簡を扱った時に詳しく見たとおりです。

 テサロニケ第一書簡について詳しくは、拙著『パウロによるキリストの福音T』の第六章以下を参照してください。テサロニケにおけるパウロの宣教活動と、その後のテサロニケ第一書簡の執筆事情については、同書285〜290頁を参照してください。

 それに対してテサロニケ第二書簡の方は、パウロ自身によって書かれた書簡か、パウロ以後に他の人によって書かれた「パウロの名による書簡」であるかが争われています。それで、テサロニケ第二書簡が来臨待望の変遷の中でどのようなところに位置し、どのような意義をもつのかを理解するためには、まずこの書簡の成立事情と内容を確認しなければなりません。
 テサロニケ第二書簡が真正のパウロ書簡であることを主張する有力な研究者もかなりありますが、近年は「パウロの名による書簡」であるとする研究者が多くなってきています。これはパウロ文書の中で著者問題がもっとも激しく議論されている書簡です。以下に見るように、用語・文体と思想内容の両方の面から、またパウロを権威とし模範としている仕方から、テサロニケ第二書簡はパウロ自身が書いたものではなく、パウロの名によって書かれた「使徒名書簡」の一つであると判断せざるをえず、パウロ以後のキリストの福音の姿を証言する文書の一つとして扱っていきます。

1 用語と文体

 パウロ書簡によく用いられているパウロ的な用語でテサロニケ第二書簡には全然出てこない用語がかなりあること、同じ用語が違った意味合いで用いられていることなど、用語の違いが研究者によって細かく指摘されています。用語の違いは決定的ではありませんが、著者が違うことを示唆する指標にはなります。
 文体については、コロサイ・エフェソ書を原語で読んだときに感じるパウロ書簡との違いほど大きな違いは感じませんが、それでも研究者は細かい文体の違いを数多く指摘しています。文体に入れてよいかどうかは問題がありますが、第二書簡には第一書簡に見られる宛先の人たちに対する人間的な親しい感情が欠けています。第一書簡は、テサロニケを去った直後に、後に残してきた兄弟たちのことを深く心にとめて書いていますから、深い思いを込めて「兄弟たちよ」と呼びかけ、その様子を聞いて喜ぶとか心配するという感情が強く表現されています。それに対して第二書簡は全体に、個人的感情を出すことなく、公式に宣言するという調子が強くなっています。第一書簡では、「父親がその子供に対するように、一人ひとりに呼びかけ、励まし、慰め、強く勧めた」と言っています(二・一一〜一二)。第一書簡で支配的であった《パラカレオー》(励ます、慰める、勧める)は、第二書簡では影が薄く(二回だけ)、代わって「わたしたちは命じます」が多くなります(三・四、六、一〇、一二)。この違いは、著者と宛先人との関係が違ったものであることを示しています。

 テサロニケ第二書簡の用語法が他のパウロ書簡(そして新約聖書全般)とは異なる点について、岩波版新約聖書X『パウロの名による書簡』の「解説」(保坂高殿)は305頁以下で、「イエス」と「キリスト」という名の用例について重要な観察をして、真正性を疑う根拠にしています。

2 思想内容

 思想内容を問題にするには、まず本文を詳しく読まなければなりませんが、ここでは一見して著者がパウロ自身でないことを示唆する数点を取り上げておきます。
 第一書簡も第二書簡も共にキリストの来臨を主題とする終末的待望の文書であることは同じです。しかも、両書とも黙示思想的な用語で語られていることも共通しています。しかし、よく見ると両者の違いも明らかです。第二書簡では、黙示思想特有の来臨の前に起こる出来事の順序が図式的に述べられていますが、第一書簡にはそのような「時間表」はありません。第一書簡でパウロは黙示思想的用語を用いて語っていますが、来臨はあくまで思いがけない時に突如として来るものであり、そのために常に目覚めていなければならないと勧められるだけです。また、第二書簡では現在信徒を迫害する者たちへの神の報復が強調され、それが迫害される信徒の正しさの根拠とされています。それに対して第一書簡では、迫害する者への報復は語られず、迫害は信徒たちが選ばれていることのしるしです。
 第一書簡でパウロは、初期の信仰定式を引用し、キリストの死と復活を根拠にして語っています(五・一〇)。それに対して、第二書簡はイエスの死と復活を語ることはありません。そのキリスト論には「十字架の言葉」がありません。また、パウロが神について用いる用語をイエスについて語る文で用いるなど、イエスにより大きな栄光を帰する傾向があります。「イエス」という名は単独で用いられることはなく、いつも「主」という称号をつけて語られます。これは、パウロの時代より後の発展したキリスト論の段階を示しています。

3 模範また権威としてのパウロ

 パウロは第一書簡(三・八)でテサロニケ人たちに、「主にあって堅く立つ」ように励ましていますが、第二書簡の著者は「わたしたちが説教や手紙で教えた伝承《パラドシス》に堅く立つ」ように求めています(二・一五、他に三・六も)。パウロは自分が伝え教えたばかりのことをすぐに手紙で《パラドシス》と呼ぶことはありません(唯一の例外はコリントT一一・二)。第二書簡のこの箇所は、パウロの教えが伝承として確立していた、パウロ以後かなり経った時期を示しています。
 第二書簡は、「わたしたちから書き送られたという手紙」によって惑わされないように警告しています(二・二)。この警告は、第二書簡が書かれるまでにパウロの名による他の手紙がテサロニケの集会に送られていたことを前提にしています。このような「使徒名書簡」が用いられるようになるのは、使徒としてのパウロの権威が確立していた、かなり後の時期を示唆しています。この箇所は、一つの「使徒名書簡」が他の「使徒名書簡」を反駁していることになり、パウロ以後の時期に集会の指導をめぐって異なる見解が競合し、それぞれの主張が使徒の名を用いて権威づけられていたことを示しています。
 第二書簡は、怠惰な生活をしないように戒めるために、手ずから働いたパウロを模範としてあげています(三・六〜一五)。第一書簡でパウロは手仕事をしながら福音を宣べ伝える働きをしたことを強調していますが、それは兄弟たちの怠惰な生活を戒めるためではなく、自分の働きについてその動機の純粋さを保証するためでした(二・三〜一〇)。
 手紙の結びで著者は、「自分の手で挨拶を記す」と書き、それを自分の手紙の「印《セーメイオン》」だとして、これがパウロ自身の筆になる書簡であることを強調していますが(三・一七)、これはかえって著者がパウロ以外の人物であることを示唆しています(パウロは《セーメイオン》をそのような意味で用いることはありません)。パウロは自分の手で書くことを特記する場合がありますが、その手紙が自分の書いたものであることを保証するためであることはなく、おもに特定の内容を自分の責任で述べるときに使っています(コリントT一六・二一、ガラテヤ六・一一、フィレモン一九)。パウロ自身が書いた手紙の場合、それが自分からの手紙であることを保証する必要はなかったはずです。それに対して、テサロニケ第二書簡の場合は、別人であるからこそ、これが使徒パウロの書簡であることを特記しなければならなかったのだと考えられます。
 
 以上の観察を総合すると、個々の理由は決定的でないかもしれませんが、全体として見るとテサロニケ第二書簡は、有力な指導者の一人でパウロ以外の著者が、パウロの時代からかなり時が経って、来臨待望について起こった新しい状況に対応するために書いた「使徒名書簡」の一つだと判断せざるをえません。旧約聖書の使用の仕方やユダヤ教黙示思想に通じていることから、おそらく著者はユダヤ人キリスト教徒であると推察されます。著者は第一書簡をモデルにして、その構成をそのまま引き写すように書いていることがうかがわれます。これは、かえって別人が意識的にパウロ書簡の形式を踏襲しているという推察を促します。

成立事情

 第二書簡もパウロ自身が書いたものだとする立場では、それほどの時間的間隔のないはずの第一書簡との関係(両者には構造上の著しい相似と同時に食い違いや矛盾もあります)を説明する必要があります。普通は、第一書簡が先に書かれ、その直後に起こった状況の変化に対応するために第二書簡が書かれたと説明されています。しかし、第二書簡が先に書かれ、その後に第一書簡が書かれたとする有力な学説もあります。また、ハルナックのように両書簡はテサロニケの別の信徒集団に送られたとする見方もあります。すなわち、第一書簡は異邦人信徒の集会に、第二書簡は別のグループを形成していたユダヤ人信徒の集会に送られたと見る説です。どの説も利点と困難を抱えています。
 第二書簡を「使徒名書簡」とする立場では、可能性のある範囲が広くなり、その成立事情を特定することはかなり困難になります。成立地としては、テサロニケを含むマケドニアを否定する理由はとくにないようです。成立時期としては、先に著者問題のところで見たように、パウロの権威が確立した時期として、パウロ以後かなりの年数が経っていると見られます。先に見たように、圧迫と迫害によって黙示思想的な来臨待望が復興した一世紀末(80年代から90年代)と見るのが自然でしょう。先にこの時期のアジア州での黙示思想的な来臨待望の復興を見ましたが、マケドニアを含むエーゲ海地域では事情は同じであったと考えられます。テサロニケ第一書簡やフィリピ書に見られるように、マケドニアはもともと来臨待望の強い地域であったと見られます。
 なお、本文中に「不法の者」が「神殿に座り込み、自分こそは神であると宣言する」(二・四)という表現があることから、第二書簡の成立をまだエルサレムに神殿があった70年以前であるとする主張があります。しかし、これは黙示思想の伝統的な表現であって、実際にエルサレムに神殿があることを必要としませんので、70年以後の成立を妨げません。
 マルキオン聖書にテサロニケ第二書簡も第一書簡と一緒に含まれていることから、それに含まれていない牧会書簡よりも先に成立していたことは確実です。この点から見ても、第二書簡の成立を一世紀末(80年代から90年代)と見ることは根拠をえます。