市川喜一著作集 > 第14巻 パウロ以後のキリストの福音 > 第9講

第三章 来臨待望の変遷

            ―― テサロニケ第二書簡における終末待望 ――


            ( 本章で書名のない引用箇所はすべてテサロニケ第二書簡の章節をさします。)




第一節 来臨待望の変遷

はじめに

 キリストの福音は当初から一貫して、復活者イエスが近い将来に栄光の中に世界に来臨されることを宣べ伝え、復活者イエスをキリストと信じた民はずっとその栄光の来臨を待ち望んできました。
 ペトロを初めとするイエスの直弟子たちが、イエスの復活顕現を体験した後エルサレムに集まり、復活者イエスが栄光の中に支配者として世界に来臨されるのを待ち望んだという事実は、イエスの宣教にそのような終末的な質があったことを指し示しています。イエスの教えの中にそのようなものが何も無ければ、彼らが突然そのような来臨を待望するようになることは考えられません。イエスが終末の事態についてどのように語られたのかは、福音書研究の大きな主題ですが、ここではそれに立ち入ることはできません。本稿では、イエスが終わりの日の完成について語られたのを聞いていたので、弟子たちは復活者イエスの顕現に接した後、熱心にその方の栄光の来臨を待ち望んだという事実から出発します。彼らはその栄光の来臨を《パルーシア》と呼びました。その来臨の待望が、福音の宣教の進展とともに、とくにパウロ系の共同体においてどのように変わっていったのかを概観し、《パルーシア》を主題として扱っているテサロニケ第一書簡と第二書簡を比較して、本稿の主題であるテサロニケ第二書簡の位置づけを試みたいと思います。

パウロまでの来臨待望

エルサレム原始教団の《パルーシア》待望

 イエスが過越祭のときに十字架刑によって処刑されたのを見て、弟子たちは恐れてエルサレムからガリラヤへ戻ります。それはガリラヤへ「逃げ帰った」と言える行動です。ガリラヤの漁師であったペトロたちは漁師の仕事に戻ります。そのペトロたちに復活されたイエスが姿を現し、復活者イエス・キリストを宣べ伝えるように召されます。マルコ福音書冒頭の四人の弟子たちの召命記事(マルコ一・一六〜二〇)や湖上の顕現の記事(マルコ六・四五〜五二)は、復活者イエスのガリラヤでの顕現が地上の働きの時の出来事として組み込まれたものではないかと考えられます。弟子たちがガリラヤに戻って復活者イエスにお会いした体験を、マルコはイエスご自身の指示によるものとしています(マルコ一四・二七〜二八、一六・七)。マタイも、弟子たちはイエスの指示でガリラヤに戻り、ガリラヤの山で復活者イエスにお会いしたとしています(マタイ二六・三二、二八・一〇、二八・一六以下)。

 復活者イエスの顕現に接した体験が地上のイエスの働きの中に組み込まれていることについては、拙著『マルコ福音書講解U』の終章91「復活者の顕現」を参照してください。

 ところが、過越祭から五十日後のペンテコステの祭りの日には、ペトロたち弟子団はエルサレムにいて、祭りに集まったユダヤ人たちにイエスを復活者キリストとして宣べ伝えています。ユダヤ人(最高法院などエルサレムのユダヤ教指導層)を恐れてガリラヤに逃げ帰っていた弟子たちがなぜ再びエルサレムに集まったのか、重大な理由または動機がなければなりません。その理由としては、ユダヤ人にとってメシア来臨の場所としてはエルサレム以外は考えられなかったからではないかと推察されます。彼らは復活者イエスが栄光の中に来臨されるのを待つためにエルサレムに戻ってきたと考えられます。それ以外の理由を推察することは困難です。このとき最初に復活者イエスの顕現に接したペトロが主導的な働きをしたので、ペトロがエルサレム原始教団で首位を占めることになったと考えられます。
 エルサレムでも復活者イエスはマグダラのマリアに現れておられます。週の初めの日の朝にイエスが最初にマグダラのマリアに現れたという伝承は広く知られていたようで、各福音書に用いられています(マルコ一六・九〜一一、マタイ二八・一〜九、ヨハネ二〇・一一〜一八)。このマリアから、エルサレムに戻ってきたペトロたちにイエスが復活されたことが伝えられて、イエスは週の初めの日(日曜日)に復活されたという復活顕現の伝承が確立していきます。エルサレムに戻ってきた弟子たちに復活者イエスが顕現された可能性も十分推察できます。

 エルサレム中心にイエスの働きを描いてきたヨハネ福音書は、復活顕現もエルサレムに限っていますが、補遺(二一章)でガリラヤ湖での顕現も伝えています。エルサレムを世界宣教の出発点として初期の宣教活動を描くルカは、弟子たちを十字架後もエルサレムに留まらせています。そのため、ガリラヤ湖での顕現伝承を地上のイエスの働きの期間に組み込んで(ルカ五・一〜一一)、エルサレムでの顕現伝承だけを用いています。ヨハネとルカには顕現をエルサレムに限定する理由がありますので、十字架の出来事の後弟子たちがガリラヤに戻ったとするマルコ・マタイ系の伝承には事実が含まれていると見なければなりません。

 エルサレム原始教団の姿を伝える文献はルカの「使徒言行録」だけですが、ルカはペトロたちの世代にキリストの来臨《パルーシア》は起こらなかったことを知っており、おそらく三世代目の弟子として、福音がエルサレムから始まって全世界に(実際には世界の中心地であるローマまで)伝えられる歴史を書こうとしているので、エルサレム原始教団の姿もその視点から、すなわち世界宣教の出発点としての視点から見られています。したがって、エルサレム原始教団が復活者イエスの《パルーシア》を待望する集団であったという姿は覆われています。しかし、わたしたちはエルサレム原始教団の最初期の姿を、このように《パルーシア》待望の集団と推察せざるをえません。

アンティオキア教団の《パルーシア》待望とパウロ

 この推察は、初期にエルサレム教団と並んで指導的な立場にあったアンティオキア教団出身のパウロの書簡によって確認されます。アンティオキア教団は、異邦人信徒の扱いなどでエルサレム教団と意見の違いもありましたが、復活者イエスを主キリストと告白し、その十字架の死の贖罪的意義を受け入れ、その栄光の来臨を待ち望むという基本的信仰内容は同じであったはずです。そのことは、アンティオキア教団がエルサレムから来たヘレニストユダヤ人信徒の活動によって形成され、バルナバのようなエルサレム教団の有力な一員を指導者とし、エルサレム教団と密接な接触を保っていた事実からも当然です。
 アンティオキア教団の信仰内容がこのようなものであったことは、使徒パウロの書簡から確認できます。パウロは、回心後三年目ぐらいから独立伝道を開始するまでの十四年間ほどを、バルナバと共にアンティオキア教団で指導的な立場で働いています。そのパウロが直後の独立伝道期に書いた書簡は、基本的にエルサレム教団とアンティオキア教団の信仰告白を受け継いでいます。パウロ自身、その福音を「わたしも受けたものだ」と明言しています(コリントI一五・三)。
 その福音の核心はキリストの十字架と復活の出来事における神の救いの告知ですが、その復活者キリストが近い将来に栄光の中に世界に来臨されて、救いの業を完成されるという告知が含まれていたことは、パウロ書簡に明確に証言されています。とくに、最初に書かれたテサロニケ第一書簡がこの来臨《パルーシア》の使信を正面から取り上げています。五〇年頃に書かれたこの書簡は、パウロの最初の書簡であるだけでなく、新約聖書の文書の中で最初のものとして、それまでの最初期の福音宣教の内容がどのようなものであったかを証言する最初の文献資料となります。

テサロニケ第一書簡における《パルーシア》

 使徒パウロがユダヤ人以外の諸民族にキリストの福音を宣べ伝えたとき、その宣教は、偶像から離れて唯一の生けるまことの神に立ち返ることと、その神が死者の中から復活させたイエスが天から来られるのを待ち望むことという二つの焦点があったと、この最初の書簡であるテサロニケ第一書簡(一・八〜一〇)に語られています。このことからも、復活者イエスの来臨を待ち望むことは初期の福音宣教において中心的な位置を占めていたことが確認できます。
 ところが、パウロがテサロニケを去ってすぐに、キリストの来臨を迎えるまでに死ぬ信徒が出たことで、彼らは来臨されるキリストの栄光にあずかる特権を失ったのではないかと動揺します。動揺した信徒を励ますために、使徒はこの手紙を書き、死んだ信徒は、地上でキリストの来臨を迎える者たちよりも先に復活して栄光のキリストに迎えられるのだと、キリスト来臨の希望の内容を説明します(テサロニケT四・一三〜一八)。その語り方には、当時のユダヤ教黙示思想の用語が用いられていますが、その希望が復活者イエスの現実に基づき、その現実に集中している点で、当時の黙示思想を超えています。
 この手紙の中で、初期の信徒たちがキリストの来臨を「主の日」と呼んで、その日を間近に待ち望みつつ信仰の歩みを進めていたことが生き生きと描かれています(テサロニケT五・一〜一一)。ここに取り上げた箇所だけでなく、この手紙の全体が初期のキリストの民の集会が《パルーシア》待望に生きていたことを見事に描き出しています。

 テサロニケ第一書簡について詳しくは、拙著『パウロによるキリストの福音T』の第六章以下を参照してください。とくに《パルーシア》待望に関しては、第七章「キリストの来臨」を参照してください。また、《パルーシア》待望と当時のユダヤ教黙示思想との関係については、同書第八章「福音におけるユダヤ教遺産の継承」を参照してください。

パウロ書簡における《パルーシア》

 では、このテサロニケ第一書簡以外のパウロ書簡では《パルーシア》待望はどのように扱われているのでしょうか。用語から見ますと、《パルーシア》という名詞がキリストの来臨を指す意味で用いられているのは、テサロニケ第一書簡には四回ありますが(二・一九、三・一三、四・一五、五・二三)、他にはコリント第一書簡(一五・二三)に一回出てくるだけで、他のパウロ書簡には用いられていません。しかし、キリストの来臨に対する希望は、他の書簡でも別の表現で語られています。
 コリント第一書簡では、最初の挨拶のところでコリントの人たちが「主イエス・キリストの現れ《アポカリュプシス》」を待ち望んでいる民として描かれています(一・七)。主が来臨される(または「現れる」)日は、「キリストの日」(一・八)とか「かの日」(三・一三)とか「主の日」(五・五)という形で語られています。さらに、「主の晩餐」について、「あなたがたはこのパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」(一一・二六)と、いつも主の来臨を意識して行われていることが語られています。最後に、死者の復活を論じる一五章で、「キリストの《パルーシア》」(一五・二三)に際して起こることが詳しく語られています(一五・二四以下)。その日のことは「最後のラッパが鳴るとき」という黙示思想的な表現で語られます(一五・五二)。この章から、パウロの来臨待望は死者の復活の希望に集中していることが分かります。
 コリント第一書簡の結びのところで、パウロは自らの手で「マラナ・タ」という挨拶を書き記しています(一六・二二)。パウロはこれをギリシア文字で書いていますが、これは「わたしたちの主よ、来たり給え」という意味のアラム語の文です。パウロがこのアラム語の祈りまたは叫びを挨拶に用いていることは、この文が初期のキリストの民の間で挨拶の言葉として、または信仰者の間の合い言葉として広く用いられていたことを示唆しています。ギリシア語を用いるキリストの民の間でこのようなアラム語の合い言葉が広く用いられていた事実は、キリスト来臨の待望が、アラム語を用いるイエスの直弟子たちの時代からギリシア語を用いる異邦人集会に至るまでずっと一貫して、キリスト信仰の核心をなすものと位置づけられていたことを示しています。
 コリント第二書簡は、パウロの使徒としての資格が問題とされ、パウロはその問題に集中して激しく議論していますので、この来臨待望に触れることはありません。また、ガラテヤ書は、異邦人信徒に割礼を受けさせようとするユダヤ主義者を論駁するために書かれていますので、来臨待望に触れることはありません。このように、コリント滞在中に書かれた最初の手紙であるテサロニケ第一書簡が来臨待望の問題を正面から取り上げているのに対して、それから数年後にエフェソ滞在中に書かれたコリント第二書簡やガラテヤ書などでは来臨問題は触れられないので、初期と後期ではパウロの思想は変わったのだとする議論があります。しかし、この議論は成り立ちません。
 同じくエフェソ滞在中に書かれたコリント第一書簡は、先にみたように来臨待望の中で書かれています。また、ほぼ同じ時期にエフェソで書かれたと見られるフィリピ書では、キリストの来臨は「キリストの日」として待ち望まれ(一・一〇、二・一六)、その待望は「わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」(三・二〇)と、明確に述べられています。各書簡で来臨問題の扱い方が違うのは、緊急に取り上げなければならない主題がそれぞれ違うからであって、キリストの来臨に関するパウロの理解が変わったからではありません。
 パウロが書いた最後の書簡と見られるローマ書においても、《パルーシア》という用語は出てきませんが、キリストの来臨とその時に起こる「体の贖い」(死者の復活)、栄光の顕現は熱烈に待ち望まれています(八・一八〜二五)。そして、その時が近いことが勧告の締めくくりとされています(一三・一一〜一四)。パウロが死者の復活にあずかることを内容とするキリスト来臨の希望に生きていたことは、最初のテサロニケ第一書簡から最後のローマ書に至るまで一貫して証言されています。

パウロ以後の来臨待望

来臨遅延の問題

 第一世代の信徒たちは、キリストの来臨を自分たちの世代の問題として受けとめていました。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる」(マルコ九・一)というイエスの語録は、自分たちの世代にキリストの来臨が起こることを語られたイエスの言葉として、真剣に受け取られ、伝承されていたと考えられます。
 パウロもその待望を共有しており、キリストが来臨されるとき地上にいてその時を迎える「わたしたち」に自分を入れています(テサロニケT四・一五と一七、コリントT一五・五一〜五二)。テサロニケでキリストの来臨が起こるまでに死んだ人が出たことで信徒が動揺したのは、当時の信徒たちがキリストの来臨を自分たちの時代に起こることと待望し、世界に対する主イエス・キリストのメシア的支配に参与することを期待していたからに他なりません。また、帝国の東半分で働きを終えたと感じているパウロが、世界の西の果てのイスパニアまで福音を伝えておかなければならないと使命を感じているのは、間近なキリストの来臨までに諸国民への使徒としての召命を果たしておかなければならないという来臨待望の表れであると見られます(ローマ書一五章)。
 ところが、パウロがその働きを終えてもキリストの来臨は起こりませんでした。パウロと前後して、第一世代の指導者たちが次々と天に召されましたが、来臨はありませんでした。エルサレムでエルサレム教団の代表者である主の兄弟ヤコブが殺害され、ローマでパウロとペトロが殉教したのは六〇年代でした。この時期にイエスと一緒にいた世代の人たちが次々に世を去っても来臨はありませんでした。おそらくイエスと一緒にいた人たちの中で一番年下の「イエスが愛された弟子」は、八〇年代または九〇年代まで生き長らえ、この弟子はイエスの来臨の時まで死なないという噂が広まっていたことがヨハネ福音書の補遺の部分(二一・二〇〜二三)に伝えられていますが、この弟子も高齢で亡くなりました。補遺を加えた編集者は、噂を否定して主の言葉の真意を説明する文を加えています。しかし、このような噂があった事実は、第一世代の人たちが来臨を自分たちの世代のこととして真剣に受けとめていた様子を垣間見させてくれます。
 このように、自分たちの世代にキリストの来臨があると宣べ伝えた第一世代の指導者たちが亡くなった後、第二世代以降の指導者たちは、使徒たちが宣べ伝えた通りに来臨がなかったという事実に真剣に対処しなければなりませんでした。その対処の仕方については以下に詳しく見ることになりますが、その前に、第一世代と第二世代以降の状況を違ったものにした重大な歴史的事件に触れておかなければなりません。
 第一世代の指導者たちが次々と世を去った六〇年代は、来臨待望が変化する節目となりますが、この六〇年代の末に来臨待望に決定的な変化をもたらす大事件が起こります。それは七〇年のエルサレム神殿崩壊に至る第一次ユダヤ戦争(66〜70年)です。

エルサレム神殿崩壊の衝撃

 ローマ軍によるエルサレム神殿の徹底的な破壊は、ユダヤ教にとって決定的な打撃であっただけでなく、イエスをキリストと宣べ伝える福音宣教に対しても大きな影響を及ぼすことになります。
 ユダヤ教側の変化を見ますと、神殿を権力の基盤としていたサドカイ派祭司階級は没落し、ユダヤ戦争に参加して本拠地クムランをローマ軍によって破壊されたエッセネ派も勢力を失います。もちろんユダヤ戦争を主導した武闘派の熱心党は壊滅します。その結果、エルサレム神殿破壊後のユダヤ教を担ったのは、(ファリサイ派も多くは戦争に倒れますが)生き残ったファリサイ派のラビたちだけとなります。もともと神殿の外で清さを実現しようとした非祭司階級の運動であったファリサイ派は、神殿なき時代のユダヤ教を担うことができる体質があったと言えます。
 包囲されたエルサレムから辛うじて脱出した高名なラビ、ヨハナン・ベン・ザッカイを中心とするファリサイ派のラビたちは、海沿いの地方の小都市ヤムニアにサンヘドリン(最高法院)の権限を受け継ぐ「ベト・ディン」(法廷)を創設し、そこから「決定」を出して、ヘレニズム世界の各地にある会堂を指導するという形でユダヤ教を再建し維持します。こうして、エルサレム神殿破壊後のユダヤ教はファリサイ派ユダヤ教となります。
 この時代のファリサイ派ユダヤ教は、過激な終末待望とメシア主義がユダヤ戦争の悲劇を招いたとして、黙示思想に反対し、律法の厳格な順守を求めるようになります。そしてイエスを信じるユダヤ人を、黙示思想的なメシア主義の危険分子として、また異邦人と交わり律法を汚している者として弾圧し、「ナザレ派の異端」として会堂から追放するようになります。
 一方イエスを信じる者たちの共同体は、当初から異邦人を受け入れてきましたが、パウロたちの働きによってヘレニズム世界に進出し、異邦人信徒の数が増えてきます。それでもユダヤ戦争までの時期には、ユダヤ人である使徒たちの指導の下にあり、エルサレムの教団が各地の集会を統合する母教会のような地位を保っていました。ところが、ユダヤ戦争の時期にエルサレム教団はエルサレムから辺境のペラに脱出し、世界各地の集会に対する指導力を失っていきます。総じてパレスチナのユダヤ人信徒の集会は、ますます増加する異邦人集会の中に埋没し孤立化していき、「エビオーン派」のような小セクトとなり消滅に向かいます。
 このように異邦人集会がユダヤ教の影響から離脱していく流れを決定的にしたのがエルサレム神殿の破壊です。それまではイエスを信じる者たちは、ローマ帝国の「合法宗教」と認められていたユダヤ教の陰で、その中の一派として存続することができましたが、六〇年代以降、とくに70年のエルサレム神殿の崩壊以後は、ユダヤ教とは対立する別の宗団として、ヘレニズム世界に生きていくことになります。
 異邦人のキリスト信仰共同体が自分たちはユダヤ教とは別の宗教共同体であるという自覚を強めていく過程で、エルサレム神殿の破壊は「異邦人の時代」の到来を告げる事件として、決定的な意義をもつことになります(ルカ二一・二四)。エルサレム神殿の破壊は、イエスを拒否したユダヤ人に対する神の審判と理解され、それ以後はもはやイスラエルを核とする救済史は成り立たなくなります。異邦人が救済史の担い手となる時代が始まったのです。

 初期の福音宣教の歴史におけるエルサレム神殿崩壊の意義については、拙著『マタイによるメシア・イエスの物語』436頁にある、福音宣教とユダヤ教の関係を解説する三段階の図を参照してください。

 指導者も第二世代以降は徐々に異邦人が多くなり、その思想的枠組みもユダヤ教の枠組みから、ヘレニズム世界のギリシア思想の枠組みへと変わっていきます。その変化は、パウロ以後の「パウロの名による書簡」に見られるようになりますが、その変化をもっとも典型的に示しているのが、コロサイ書とエフェソ書です。

コロサイ書とエフェソ書

 先にコロサイ書とエフェソ書の講解で見たように、この両書では《パルーシア》という用語が出てこないだけでなく、キリストの来臨という事柄自体が問題とされなくなっています。これはたんに信仰の一項目である来臨待望の熱意がなくなったというのではなく、またガラテヤ書の場合のように他の主題に集中するために来臨問題が触れられないというわけでもなく、福音理解の枠組みが基本的に変わった結果でした。すなわち、パウロにおいてはなおキリストは聖書の救済史の枠組みの中で理解され宣べ伝えられていましたが、コロサイ・エフェソ書の段階になると、キリストはもはや救済史の枠組みではなく、ヘレニズム世界の宇宙論的枠組みの中で理解されるようになっていたからです。
 コロサイ・エフェソ書では「来臨」《パルーシア》なしで完成が考えられています。終わりの日の「死者の復活」は出て来ません。コロサイ・エフェソ書におけるキリストの民の目は、未来にではなく上に向けられています。将来に起こるキリストの来臨にではなく、霊界の最上層にいますキリストに向けられています。キリスト者個人も、キリストの民《エクレーシア》も、そして宇宙《コスモス》も、そのキリストに満たされることが目標であり、完成です。

 コロサイ・エフェソ書のキリスト理解と終末理解・復活理解については、本書第一章のコロサイ書と第二章のエフェソ書の講解を参照してください。その要約として、とくに18頁の「コロサイ書におけるキリスト」と、75頁の「復活信仰の現在化」の項をお読みください。

来臨待望の底流とその復興

 しかし、パウロが形成したエーゲ海地域の諸集会から来臨待望が消滅したわけではありません。コロサイ・エフェソ書のような文書は、ヘレニズム世界で深くギリシア的思想と教養を身につけた上層指導者の作品であって、一般の集会員の信仰にはキリスト来臨への待望が底流として流れ続けていたはずです。そのことについては、今回の主題となるテサロニケ第二書簡だけでなく、ヨハネ黙示録の存在が重要な証人です。
 ヨハネ黙示録は「七つの教会」にあてられています。その七つの教会(集会)はエフェソを中心とするアジア州の諸都市にある集会であり(黙示録一〜三章)、それはパウロが最晩年にエフェソを拠点として伝道して諸集会を形成したアジア州の地域と重なっています。このヨハネ黙示録の存在によって、この地域にはパウロ以後にもヨハネ黙示録が証言するような来臨待望があったことが分かります。

 ヨハネ黙示録はいつ頃成立したのか、どのような状況で書かれたのか、著者は誰か、ヨハネ共同体またはパウロ系諸集会とどのような関係がある文書なのか、どのような使信を伝えようとしているのか、などの問題については激しい議論があり、決定的なことが言えない難しい文書です。しかし、エフェソを中心とする小アジア地域で成立し、この地域の来臨待望を証言しているということは確実です。

 この地域に底流として流れていた来臨待望を復興させ、その黙示思想的な側面を再び表に引き出したのは周囲の社会からの迫害であったと考えられます。ここではその消息を詳しく跡づけることはできませんが、典型的な場合としてドミティアヌス帝の迫害とヨハネ黙示録の成立について見ておきます。
 ローマ帝国は共和制の伝統と精神が強く流れていて、帝政時代に入っても皇帝が神として祀られることは原則としてありませんでした。例外的にカエサルが死後神として祀られたことはありましたが、皇帝が生きている間に神として祀られるようなことはありませんでした。しかし、皇帝の権力が増し加わり安定するにしたがって、王が神として祀られるオリエントの気風の誘惑は避けられなかったのでしょう、ローマ皇帝の中にも自分を神として崇めることを要求する者が出て来ます。たとえば、カリグラ帝(在位37〜41年)は即位すると直ちに自分が神として崇拝されることを要求し、帝国内の他の神々の神殿にも自分の祭祀用の像が置かれることを命令したのです。これはユダヤ人の猛烈な命がけの抵抗を招いただけでなく、ローマ人からも?神的狂気として反発され、彼は暗殺されます。
 最初のキリスト教徒の迫害者として悪名高いネロ帝(在位54〜68年)も、自分を神として拝まないという原則論でキリスト教徒を迫害したのではありません。あくまで放火犯としてローマ市のキリスト教徒を処刑したのです。このように、ローマは原則として皇帝を神として祀ることはなく、支配下の各民族の宗教を尊重しました。しかし、この原則の最初の例外がドミティアヌス帝(在位81〜96年)です。彼は晩年自分を「dominus et deus(主にして神)」と呼び、自分を神として祀る神殿を建てることを命じ、従わない者を処刑しました。しかし、それも世界大の政策とはならず、おもにローマ市内に限られていたようですが、オリエント文化や宗教との融合が進み、皇帝礼拝のイデオロギーの盛んな小アジアに目をつけたのか、エフェソに巨大な宮殿を建て、その神殿に自分の像を安置して拝むことを要求しました。神として祀られたドミティアヌスの巨大な像の頭部と腕は、今もエフェソの博物館で見ることができるということです。
 このドミティアヌス帝による小アジアでの皇帝礼拝の要求により、この地域のキリストの民は困難な時代を迎えます。おそらくこの皇帝礼拝の要求に抵抗した指導者の一人ヨハネは、エフェソ沖合のパトモスという小島に流刑となります。そこで書かれたのが「ヨハネ黙示録」です。この黙示録では、ローマ皇帝は深淵から立ち現れる怪獣として、サタン視されています。ヨハネ黙示録の内容と解釈は別の機会に譲らざるをえませんが、この文書の存在は一世紀末の小アジアの諸集会に、このような黙示思想的な形で表現される来臨待望があったという事実を証言しています。
 もう一つ、この地域に黙示思想的来臨待望が底流としてあったことを示す歴史的事実を上げておきます。それは、時代は少し先のことになりますが、二世紀半ばに小アジアに起こったモンタノス運動です。モンタノスはフリュギア(エフェソから東北にある山間部の地方)で、聖霊による預言により、まもなく終末となり、天のエルサレムがフリュギアのペプザ付近に下ると唱えました。彼の運動は小アジアだけでなく西方に急速に広まり、カルタゴでは当時西方では最大の神学者とされていたテリトリアヌスもこの運動に参加するようになっています。モンタノス運動がこのように短期間に急速に広まったのは、来臨待望の信仰が初期からこの時代までずっと、これらの地域に底流として広くあったことを示しています。