市川喜一著作集 > 第14巻 パウロ以後のキリストの福音 > 第6講

第二章 キリストの充満体としてのエクレシア

            ―― エフェソ書におけるキリスト ――


            (本章で書名のない引用箇所はすべてエフェソ書の章節をさします。)




第一節 エフェソ書要約

著者問題

 本書簡はパウロの名によって書かれていますが、用語と文体、および思想内容からして、パウロ自身の手になるものと受け取ることが困難です。この点はコロサイ書と同じですが、本書がコロサイ書と用語や思想内容の点で多くの共通点を持っていることから、コロサイ書との関係が問題になってきます。

1 用語と文体

 エフェソ書には、新約聖書中一度だけしか出てこない語が49、真正性が問題とされないパウロ七書簡に出てこない一度限りの語が51ありますが、これは(コロサイ書の場合と同様)真正性を疑う決定的な理由になりません。全体の語数に対する同じような割合が、他の文書(たとえばフィリピ書)にも見られるからです。むしろ、エフェソ特有の用語が次の時期の初期キリスト教文学に多く見出される事実が、パウロ以後の文書であることを示唆しています。さらに、《エクレーシア》とか《ミュステーリオン》など重要な用語が、パウロとは違う意味で用いられています。
 文体については、コロサイ書の場合と同じく、パウロ書簡と同一の人物の手になる文章とは考えられません。パウロはきわめて単純で直截な文体で口述していますが、本書の文体は同じ意味の語を重ねて用いるとか、関係代名詞や分詞構文を多用して、(コロサイ書以上に)異常に長くて複雑な構文の文章を連ねています。原文で読むと、パウロ書簡とは別の世界に入っているという印象を強く受けます。この違いは、執筆状況の違いによって説明することはできません。

2 思想内容

 パウロの福音提示の心臓部をなす「信仰による義」が、二章八節でごく簡単に要約されている以外は、本書ではほとんど扱われていません。パウロがあれほど問題にした「律法」は一度だけ、しかもすでに克服されたものとして現れるだけです(二・一五)。パウロが生涯苦労した律法によるユダヤ人と異邦人の対立は、すでに克服されたものとして扱われています。
 先に「コロサイ書の要約」で見ましたように、パウロはなおキリストを救済史的な枠組みで語っており、キリストの支配の完成は将来に待ち望まれていましたが、コロサイ書になるとキリストはすでに宇宙的支配を実現しておられる方として、神性の充満として語られ、しかもまだパウロにはなかった《エクレーシア》の頭として語られるようになっています。エフェソ書は、その方向を一段と推し進め、宇宙的なキリストが《エクレーシア》の頭であり、《エクレーシア》はそのキリストの充満体として神の奥義を体現するものとなっています。本書の《エクレーシア》理解は後でまとめることになりますが、ここではそれがパウロのものではなく、パウロよりもかなり後のものと見なければならないことを指摘しておきます。

3 コロサイ書との関係

 コロサイ書とエフェソ書との間にある類似性は顕著です。全体の構成と内容が似ているだけでなく、使用している用語まで似ています。エフェソ書に用いられている用語の四分の一がコロサイ書にあり、コロサイ書の用語の三分の一がエフェソ書に見出されます。文章や表現がほとんど並行している例がかなりあります。さらに、重要な概念や術語が両方で共通しています。たとえば、キリストの体、体の頭としてのキリスト、充満《プレーローマ》、奥義《ミュステーリオン》、和解などが、両方で鍵をなす用語となっています。原文を読んでいますと、これほど同じ用語を用い、同じような文体で、基本的には同じ福音理解をもって書いているのは同一人ではないかと感じさせます。同一人説を否定する決定的な根拠はないようにも思われます。同一人の可能性も捨てきれません。
 しかし、両者には時期とか宛先など執筆事情の違いでは説明しきれない相違もあり、同じ著者によるものと見るのは困難だとするのが普通です。その場合、別の著者のどちらか一方が他方に依拠して書いたことになりますが、両書の文章の綿密な比較から、エフェソ書の著者がコロサイ書を用いてエフェソ書を書いたと見る研究者が多いようです。内容的にエフェソ書がコロサイ書の思想傾向をいっそう押し進めている点があることからも、そう見るのが順当だと考えられます。
 その場合、エフェソ書の著者はコロサイ書をパウロの手紙として依拠したのか、パウロのものではないことを知りながら自分が尊敬する先輩の書として依拠したのか分かりませんが、両者ともパウロを(回顧的に)唯一の権威としており、エフェソを中心とするアジア州のパウロの活動圏で成立した文書であることは確かです。
 以上を総合すると、エフェソ書の著者はパウロの忠実な弟子で、エフェソを中心とするパウロ系の諸集会において指導的な立場で活動をしていた人物であると言えますが、詳しいことは分かりません。コロサイ書がほとんど聖書を参照しないのと対照的に、エフェソ書はかなり聖書(旧約聖書)を参照していること、またクムラン文書の思想との近さを見せていることなどから、ギリシア思想に通暁したユダヤ人キリスト者を推定する説(EKK)もありますが、決定的ではありません。この時期には異邦人信徒も十分聖書に親しんでいたことが推察されるからです。著者が誰であるか、個人を特定することはできません。推測することも、コロサイ書の場合以上に困難です。様々な名前があげられますが、コンセンサスはありません。

 興味深い推定の一つとしてオネシモの可能性があることについては、拙著『パウロによるキリストの福音 V』の 293頁「パウロ書簡集とオネシモ」の項をみてください。

成立事情

 本書は手紙の形式で書かれていますが、個人に対する挨拶もなく、特定の集会の具体的な問題に触れることもなく、議論の内容もきわめて一般的な神学論になっています。一章一節の「エフェソにいる」という宛先の地域名も、最古の有力な写本にはありません。それで、本書は特定の集会に宛てられた書簡ではなく、キリスト信仰についての一般的な論説、あるいは広い地域の諸集会に回される勧告の回状であったと見られます。
 コロサイ書は、コロサイの集会に入ってきた「人間の言い伝えに基づく哲学、すなわち空しい欺瞞」の教えに対抗するために書かれたという具体的な目的がありますが、エフェソ書にはそうした特定の集会の具体的な状況はありません。信徒が「キリストの奥義」にさらに深く導き入れられて、教えられた信仰に堅く立つように励まし、かつ、周囲の異教的悪徳から遠ざかって、キリストの民としての歩み方に徹するように勧告するために書かれています。周囲の異教的悪徳から離れるようにという勧告が中心を占めていることから見て、おもに異邦人信徒を対象にしていると考えられます。
 成立の時期は、パウロ(六十年代に殉教)の没後ある程度の期間が経っていると見られるコロサイ書よりも後で、本書を知っていると見られるイグナティオスよりも前になります。そうすると、七十年代とか八十年代が考えられます。この時期のアジア州の諸集会の状況は正確には分かりませんが、(成立が九十年代と考えられる)ヨハネ黙示録の二〜三章に見られる「アジア州の七つの集会」の描写が参考になります。まだ皇帝礼拝を拒否することから起こった迫害は始まっていませんが(始まっておればエフェソ書の書き方は全然違ったものになったでしょう)、そこに描かれているような状況に至る傾向は始まっており、周囲の異教世界からの圧迫と誘惑は強くなり、集会内にもキリストの福音から逸脱する異なった教えが入り込み、集会生活への熱意が減退し、異教的環境に呑み込まれてしまう危険が感じられるようになっていたことと推察されます。
 それで、パウロの働きの後を受け継ぐ一人として、この地域のキリストの民の確立に責任を感じている著者が、キリストの民《エクレーシア》の奥義を徹底させ、実際上も《エクレーシア》内の一致を実現するように強調し、異教社会とは異なる歩み方を励まし、このような危機を克服しようとして筆をとったものと考えられます。

宇宙論的キリスト理解

 先にコロサイ書の要約として「ヘレニズム世界における福音」を書きましたが、その中の「コロサイ書におけるキリスト」で、「パウロのキリストが旧約聖書の救済史的なキリストであるのに対して、コロサイ書のキリストは宇宙論的なキリストになっている」ことを見ました。すなわち、(そこで書いたことをそのまま引用しますが)パウロにおいてはキリストはなお、聖書(ユダヤ教の律法と預言書)を成就するために終わりの時に現れた救済者であり、キリストの十字架と復活の出来事は救済史の上での出来事でした。それに対して、コロサイ書になるとキリストはもはや救済史上の出来事であるよりは、宇宙《コスモス》存立の根源であり、天と地を仲介して宇宙《コスモス》の完成をもたらす救済者と見られるようになっています。コロサイ書一章一五〜二〇節の「キリスト賛歌」はこのような宇宙論的キリストをよく表現しています。言葉を換えて言えば、パウロにおいてキリストは終末を目指す時間軸上での救済の出来事ですが、コロサイ書においては天と地という上下の空間的な場での存在の根源であり、救済と完成をもたらす救済者となっています。
 このことはそのままエフェソ書についても言えます。エフェソ書のキリスト理解と救済理解は、コロサイ書と同じく、救済史的な枠組みから離れ、宇宙論的な枠組みで語られています。先に「コロサイ書の位置」で、「パウロの福音にはユダヤ教の救済史的枠組みがしっかりとあり、パウロはその枠組みの中でキリストを語っていました。ところが、パウロの弟子であるコロサイ書の著者は、異邦人として律法とか救済史というようなユダヤ教の枠組みはなく、むしろ自分が生まれ育ったヘレニズム世界の宇宙観の枠組みの中でキリストを語るようになっています。パウロはキリストの福音を、ユダヤ教の堅い壁を打ち破って異邦人にもたらした最大の貢献者ですが、パウロの弟子の著者の代になって、キリストの福音はさらに一歩ユダヤ教から離れ、ヘレニズム世界の宗教へと転進していったと言えるでしょう」と書きました。エフェソ書は、コロサイ書が踏み出したその一歩をさらに押し進めていると言えます。
 そのさい、「その一歩をさらに押し進めている」ことは、エフェソ書のエクレシア理解にもっともよく表れていますので、ここではエフェソ書の《エクレーシア》に関わる言説を取り上げて、エフェソ書の特質をまとめることにします。

エフェソ書における《エクレーシア》

 まず《エクレーシア》という用語の使い方にエフェソ書の特色が出ています。パウロはこの語をほとんどの場合で地域の信徒たちの集まりを指すのに用いています。どこそこ(都市名とか地域名)にある《エクレーシア》とか、誰それの家に集まる《エクレーシア》という使い方をしています。それに対してエフェソ書ではそのような使い方はなく、この語はいつも単数形で現れ、キリストの民全体を指しています(一・二二、三・一〇、二一、五・二三〜三二)。コロサイ書も《エクレーシア》をこのようなキリストの民全体を指す意味で用いていますが、それでもなお二箇所で信徒の集まりとしての「集会」という意味で用いています(結びの挨拶の中でコロサイ四・一五と一六)。わたしの翻訳では、《エクレーシア》が個々の信徒の集まりを指すときは「集会」と訳し、キリストの民全体を指すときは「御民」と訳し分けました。コロサイ書(本体部分)とエフェソ書ではみな「御民」ということになります。エフェソ書の著者は、いつもキリストの民の総体を視野に置いて、その民の本質について深い霊的考察を行い、その民について御霊によって与えられた「奥義」を語るのです。
 エフェソ書は「御民」の本質を様々な比喩を用いて語っています。ここはエフェソ書の《エクレーシア》理解を詳しく検討する場所ではなく、それを要約するところですから、それぞれの比喩についてはごく簡単にまとめて、最後にそれらの比喩をもってエフェソ書が示そうとする「奥義」の中身についてまとめておきたいと思います。
 まず、エフェソ書は《エクレーシア》を建物にたとえています(二・二〇〜二二)。建物の比喩はすでにパウロが用いていますが(コリントT三・一〇〜一七)、パウロにおいてはイエス・キリストだけが建物の土台です。それに対して、エフェソ書では「使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられた」とされた上で、「土台の隅石はキリスト・イエスです」という構造になっています。この違いは、エフェソ書が使徒たちの働きをすでに過去のことと見る立場にあることを示しています(この点も、エフェソ書が使徒自身の著作でないことを示唆しています)。とにかくこの比喩においては、キリストと《エクレーシア》の関係は土台とその上に建つ建物との関係です。
 次に、《エクレーシア》はキリストの花嫁にたとえられています(五・二一〜三三)。家庭訓の中で妻が夫に服従し、夫が妻を自分の体のように愛することを求める根拠として、キリストと《エクレーシア》の関係が花婿と花嫁の比喩で取り上げられています。そして、創世記(二・二四)にある「夫と妻は一つの体になる」という宣言は、キリストと《エクレーシア》が一つに合わせられることを指しているとされ、それが「奥義」とされています(五・三一〜三二)。キリストと《エクレーシア》の一体関係は、エフェソ書においては「奥義」として、救済理解の中心的位置を占めています。
 さらに、《エクレーシア》は「人」《アントローポス》であるとされています。《エクレーシア》は、神がキリストにおいて新しく創造された「一人の新しい人」なのです(二・一四〜一六)。長らくユダヤ人と異邦人という二つの区画に分かたれていた人間の共同体を、神はキリストによって律法という仕切の中壁を打ち壊し、一人の新しい人へと創造されたのです。ここでは、《エクレーシア》という共同体が「一人の人」という比喩ないしは象徴で語られています。そして、この「一人の新しい人」は、「円熟した大人」になるまで成長するように定められており(四・一三)、その成長は「からだ全体は備えられたすべての関節によって組み合わせられ、かつ結合されて、それぞれの部分の分に応じた働きにしたがってからだの成長を遂げ」(四・一六)、頭なるキリストへと成長するとされています。
 しかし、キリストと《エクレーシア》の関係を語る比喩の中で、エフェソ書においてもっとも基本的な比喩は、頭と体の比喩です。この比喩は、花嫁の比喩の中でも、「キリストもまた御民の頭であり、御自身その体の救い主であるように、夫は妻の頭であるからです」(五・二三)という形で前提され、「人」の比喩においても、体の成長は「頭なるキリストへと成長してゆく」と表現されています(四・一五)。
 パウロにおいても、《エクレーシア》をキリストの体であるとする語り方はありました(コリントT一二・一二〜二七)。しかし、その《エクレーシア》はなお具体的な個々の地域の「集会」を念頭において語っています。そして、パウロの比喩においては体全体がキリストであり、頭も足と対等の体の一部として扱われています。体を支配する頭という見方はありません。それに対してコロサイ書になると、《エクレーシア》はキリストの民の総体として見られ、キリストは体である民をコントロールする頭であるという見方が出てきます(コロサイ一・一八、二・一〇、一九)。これはパウロにはない新しい見方です。
 エフェソ書は、この頭と体の関係をコロサイ書以上に明確な言葉で表現しています。「神はまた、すべてのものをキリストの足の下に服させ、キリストをすべてのものの上にある頭として御民にお与えになりました。御民はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしておられる方の充満です」(一・二二〜二三)。
 神はキリストを復活させて世界《コスモス》の支配者とし(一・二〇〜二一)、そのキリストを《エクレーシア》に頭としてお与えになったのです(一・二二)。したがって、同じキリストが、異なった仕方においてですが、《コスモス》と《エクレーシア》の両方の頭となっておられる事実が、《エクレーシア》と《コスモス》の関係を基礎づけます。そして、《コスモス》における《エクレーシア》の存在の意義が、「御民はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしておられる方の充満です」という言葉で宣言されます(一・二三)。この言葉こそ、エフェソ書の核心です。以下、この言葉の展開として、エフェソ書の内容を見ていくことになります。

エフェソ書の構成

 エフェソ書は書簡の形式で書かれています。それで、最初に差出人と宛先を含む挨拶の部分(一・一〜二)があり、最後に結びの挨拶(六・二一〜二四)があります。この挨拶に囲まれた本体部分は、大きく二つの部分に分かれます。
 前半の第一部(一〜三章)は、福音の提示部ともいうべき部分で、神がキリストにおいて成し遂げてくださった恵みの御業が、キリストの民《エクレーシア》の現実を中心に述べられます。
 後半の第二部(四〜六章)は、キリストに属する者がこの《エクレーシア》において、また異教的環境のこの世においてどのように歩むべきか、実践的な勧告が述べられます。
 このような構成は、コロサイ書にも見られました。すなわち、コロサイ書もその前半(一〜二章)で、誤った教えとの対比をしながら、キリストにおける神の恵みの事態を述べ、続いて後半(三〜四章)でキリストにある者の歩みについての実践的な勧告を置いていました。コロサイ書もエフェソ書も、パウロがその書簡の前半でキリストの福音を提示し、後半で実践的な勧告をするという、ローマ書に典型的に見られるパウロ書簡の構成を踏襲しています。