市川喜一著作集 > 第11巻 パウロによるキリストの福音V > 第2講

第二節 エフェソでの活動

エフェソでの《エクレーシア》形成

パウロの目的地としてのエフェソ

 アンティオキア集会を出てシラスと一緒に独立の宣教活動を開始したパウロは、西に向かいます。いわゆる第二次伝道旅行の開始です。まずシリア州やキリキア州(その州都タルソは、パウロの生まれ故郷であり、パウロはそこでかなりの期間働いています)を回って諸集会を励まします(使徒一五・四〇〜四一)。それからさらに西に向かい、先に第一次伝道旅行のときに働いた「デルベにもリストラにも」行きます(使徒一六・一)。そこからさらに西に向かえばアジア州に入ります。パウロは当然、アジア州の州都であり、当時小アジアでもっとも繁栄した重要な都市であるエフェソを目指したはずです。しかし、何らかの事情に妨げられてアジア州に入ることを断念し(ルカは「アジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられ」と語っています)、北に向かいガラテヤ地方を通り、そこから西に向かってフリギア地方とミシア地方を経てトロアスに至ります。(使徒一六・六〜八)。

パウロが第一次伝道旅行のときに働いた「デルベにもリストラにも」行って集会を励ました事実は、パウロがバルナバと衝突してアンティオキア集会から離れた後よりも、その前であるとする方が自然です。前であれば、まだアンティオキア集会との交わりと支援の下に活動しているのですから、アンティオキア集会の活動として行った第一次伝道旅行で建てた集会を再訪することは自然です。しかし後であるとする通説では、この再訪は不自然です。これは、第二次伝道旅行をエルサレム会議とアンティオキアでの衝突の前とする説(マーフィー=オコゥナー説)に有利です。
 パウロは、トロアスから船で対岸のマケドニア州ネアポリスに渡り、そこからフィリピ、州都テサロニケ、ベレヤとマケドニア州の諸都市に伝道し、続いてアカイア州の州都コリントで活動します。この第二次伝道旅行の経路を見ますと、アンティオキアから西に向かったパウロは、シリア州やキリキア州、さらにルカオニア地方(デルベやリストラ)を再訪した後、アジア州を飛ばしてマケドニア州とアカイア州に福音を伝えたことになります。コリントを去らねばならなくなったパウロが、(その時にはまだローマからのユダヤ人追放令が行われていたのでローマに行くことは無理でしたから)飛ばしたアジア州に戻って、空白部を埋めたいと考えたことは理解できます。コリントを去るとき、パウロがアジア州の州都エフェソを次の働きの目的地としていたことは、アキラ夫妻とエフェソまで一緒に来て、夫妻をそこに残し、自分は緊急の会議のためにエルサレムに向かったという事実に十分示されています。アキラ夫妻をエフェソに残したのは、自分のエフェソを拠点とするアジア州伝道のための布石であることは明らかです。事実、パウロはエルサレムとアンティオキアを訪ねた後、先に建てた諸集会を堅くするという大切な課題を果たすために、困難な旅をいとわず、「(小アジアの)高地地方を通ってエフェソに下ってきました」。パウロは年来の目的地であるエフェソについに到着したのです。

エフェソの歴史と宗教

 では、パウロが目的地としたエフェソとはどのような都市でしょうか。パウロの伝道活動の理解に必要な限り、簡潔に見ておきましょう。
 エーゲ海に面した小アジア西南部は、古くからギリシア人の植民活動が盛んで、ギリシア文化が栄えた土地でした。この地方は「イオニア」と呼ばれ、この地方へのギリシア人の植民活動は、前一〇世紀から始まり、前八世紀にはサモス、ミレトス、エフェソというようなポリスが成立していました。エフェソは、この時期にイオニアに成立した十二都市の「イオニア同盟」の中心都市であったと伝えられています。ホメロスの叙事詩などはこの頃にイオニアで成立したと見られています。
 その後イオニア諸都市は海外に植民活動を開始し、交易によって大いに栄えます。また、ペルシャ、バビロニア、エジプトなどの古代東方の先進文化と接触をもち、これら東方の知恵とギリシア人の合理的思考が刺激しあって、ギリシア文化圏に最初の哲学学派を生み出します。ミレトスを中心に活動したタレス、アナクシマンドロス、アナクシメネスらのミレトス派哲学者、エフェソの王家の出身とされる哲学者ヘラクレイトス、また叙情詩のアナクレイオン、歴史のヘカタイオスなどが現れ、前六世紀(イスラエル史ではバビロン捕囚の世紀)のイオニアは、ミレトスを中心に文化の最盛期を現出します。ペルシャ戦争以後ギリシア文化の中心地がアテネに移る以前は、イオニアがギリシア文化の中心地であったことは、その中心都市エフェソの性格を考える上で忘れてはならない重要な事実です。
 その後、イオニアはリュディア、続いてペルシャと、隣接するオリエントの専制王国の支配を受けることになります。一時、ペルシャの支配を脱した時期もありますが、ペロポネソス戦争以後はペルシャの支配が続きます。ペルシャを破ったアレクサンドロス大王以後のヘレニズム時代には、マケドニア王国、プトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリアなどからの支配と干渉を受けることになりますが、経済的には繁栄を続けます。その後イオニアはローマ人に征服され、前133年にローマ領アジア州となり、エフェソはその州都(総督府所在地)となります。アウグストゥス帝(在位前27年〜後14年)はエフェソを重視し、壮大な建築物や水道の建設、道路の舗装などで街を整え、エフェソは「アジア第一で最大の都市」として繁栄の絶頂期を迎えます。
 政治的にはローマ属州アジアの州都として、経済的には交易の中心都市として、エフェソは大いに繁栄しますが、エフェソは当時の地中海世界で宗教都市としても重要な都市でした。エフェソには女神アルテミスを祭る巨大な神殿があり、世界の各地から多くの巡礼者を引きつけていました。その壮大な神殿は「世界の七つの驚異」の一つに数えられ、その祭儀はエフェソの最大の誇りでした。各地から参詣に来る人たちが買い求める銀製の神殿模型の製造は、エフェソの重要な産業であり収入源でした。
 エフェソにおけるアルテミス祭儀の起源はさだかではありません。アルテミスはギリシア神話では、ゼウスとレトの間に生まれたアポロンとの双子の娘で、狩猟の女神であり、また月の女神とされています。ローマ神話ではディアナとなります。しかし、胸に多くの乳房をつけたエフェソのアルテミス女神像とその祭儀は、おそらくリュディア系の土着の地母神崇拝が(ヘレニズム期に)ギリシア神話と習合して、子宝を授ける豊饒女神として崇拝されるようになったものと考えられています。それだけでなく、エフェソのアルテミスはエフェソの守護神として、エフェソの政治、経済、文化、教育など、市民生活のあらゆる面に影響を及ぼしていました。
 住民はもともとギリシアから来た人々が多かったのですが、東方の諸民族も多く混じり合っていました。オリエントの古代文明と接触のあった他のヘレニズム都市と同じく、エフェソも東方の諸宗教の祭儀やギリシアの神々を祭る神殿や祠が多くあり、先にコリントの宗教事情を描いたのと同じような状況でした。最近のエフェソ遺跡の発掘は、このような異教の神殿跡を多く発掘していると報告されています。また、当時のギリシア都市の慣例として、都市に顕著な貢献をした人物を死後に(時には生前に)神として祀ることも普通に行われていました。ローマの皇帝を神として祀ることも行われ、すでにアウグストゥス帝の許可を得て、カエサルも神として祀られていました。このような土壌の中で、後にドミティアヌス帝(在位51年〜96年)が自分のために神殿を建てて、巨大な自分の像を拝ませることになります。
 エフェソにもユダヤ人はかなり古くから住んでいました。ヨセフスは、ローマ時代を扱った『古代誌』一四〜一六巻で、また『アピオンへの反駁』二巻で、エフェソにユダヤ人が住んでいることに数回言及しています。パウロの時代のエフェソにどれほどのユダヤ人人口があったのかは分かりませんが、当時のヘレニズム世界を代表する大都市として、他の大都市と同じくかなりの規模のユダヤ人共同体があったと考えられます。セレウコス朝とローマの支配下では、ユダヤ教は法的保護を受け、(おそらく複数の)会堂を持ち、平穏にユダヤ教徒として暮らしていました。

パウロ到着前のエフェソ ―― プリスキラ・アキラ夫妻とアポロ

 パウロが高地地方を通ってエフェソに下ってきたとき、エフェソにはすでにある程度の信徒がいました。それは、すでに一年ほど前からプリスキラ・アキラ夫妻が伝道活動をしていたからです。前の年にコリントからエルサレムに向かう時、パウロはアキラ夫妻をエフェソに残して、自分だけがエルサレムとアンティオキアに行き、翌年になってアンティオキアから高地地方を通ってエフェソに下ってきたのでした。アキラ夫妻をエフェソに残したのは、自分が次の働きの場と思い定めていたエフェソに拠点を作ってもらうためであったと見られます。パウロが到着したとき、アキラ夫妻の家にある程度の規模の信徒が集まりを形成していたと考えられます。パウロは、コリントの場合と同じように、おそらくこの夫妻の家に住み、この集会を足場にして活動を開始したのでしょう。エフェソ集会の基礎を築いたのはプリスキラ・アキラ夫妻です。
 パウロがエフェソに到着する前に、この夫妻がアポロに「もっと正確に神の道を教えた」という出来事があったことを、使徒言行録(一八・二四〜二八)が伝えています。アポロは、「アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しい雄弁家」でした。アレクサンドリアは当時ヘレニズム文化の中心地で、ギリシアの学芸がもっとも栄えた大都市でした。そこのユダヤ人共同体は規模も大きく、またギリシア文化や思想の素養も深く、自分たちの宗教であるユダヤ教とその聖典である聖書を周囲のギリシア教養人に伝えることにもっとも熱心なユダヤ人でした。そこから、聖書(旧約聖書)のギリシア語訳である「七十人訳ギリシア語聖書」が生まれ、聖書とギリシア哲学を融合させた偉大な哲学者フィロンが出ます。アポロは、このようなアレクサンドリアで育ったユダヤ人であって、「雄弁家」としてギリシア哲学の素養と、「聖書に詳しい」聖書学者としての訓練を兼ね備えた人物でした。
 アポロがどのようにしてイエスを信じるようになったのか、正確なことは分かりません。アレクサンドリアとエルサレムはユダヤ人の行き来が頻繁でしたから、イエスのことはすぐにアレクサンドリアにも伝えられていたと考えられ、アポロがアレクサンドリアでイエスを信じるようになった可能性もありますが、彼がヨハネのバプテスマをよく知っていたという事実からすると、彼は洗礼者ヨハネの活動を伝え聞いてパレスチナに赴き、そこでヨハネから(または彼の死後、彼の信奉者の共同体で)バプテスマを受け、さらにそこでイエスのことを知ってイエスを信じるようになったと推定する方が自然でしょう。あるいは、イエスがバプテスマを授けておられた期間(ヨハネ三・二二)に、イエスからバプテスマを受け(ヨハネ三・二六は、イエスが洗礼者ヨハネよりも多くの人にバプテスマを授けたと伝えています)、イエスの弟子として教えを受けた可能性もあります。この場合、彼が受けたバプテスマは、まだ使徒たちが施した「(キリストとしての)イエスの名の中にバプテスマされる」ことではなく、イエスが洗礼者ヨハネと同じ意味をもって施しておられたバプテスマですから、「ヨハネのバプテスマ」と言われることになります。

新共同訳は二五節のアポロについての描写を「主の道を受け入れており」と訳していますが、ここは直訳すると「主の道を教えられていた」という表現で、協会訳の「主の道に通じており」の方が原意に近いでしょう。新共同訳は、イエスを主と告白するようになっていたと理解させますが、原意は「神の道をよく教えられていた」、すなわち聖書の神が働かれる仕方について十分な知識があったという意味であると考えられます。なお、アポロについては、拙著『パウロによるキリストの福音U』94頁以下の「アポロ」の項を参照してください。

 このアポロは各地で「イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていた」とされます。「主の道に通じている」(協会訳)聖書学者として、アポロはイエスこそ聖書を成就するメシアであることを、聖書を論拠にして熱く語り、各地のユダヤ人を説得していました。このアポロがエフェソにやって来て、「会堂で大胆に」イエスのことを教え始めます。エフェソでは、パウロよりも先にアポロがユダヤ教の会堂でイエスがメシア・キリストであることを説いたのです。その会堂にプリスキラとアキラが居合わせます。このことは、この段階ではイエスを信じるユダヤ人はユダヤ教徒として安息日ごとに会堂に集まることが普通であったことを示しています。
 その会堂に居合わせたプリスキラとアキラはアポロが語るのを聴き、彼を(おそらく自宅に)招き、「もっと正確に神の道を説明した」とされます。アポロは「聖書に詳しい」、また「主の道に通じている」イエスを信じる聖書学者として、すでにイエスのことについて「正確に教えていた」のですが、彼が語るのを聴いたプリスキラとアキラは、彼の教えにまだ何か足りないものがあることを見抜いて、「もっと正確に」神の道を説明することになります。
 では、アポロの教えに足りないものとは何か、ルカは何も説明していません。ただ、アポロについて「彼はヨハネのバプテスマしか知らなかった」と書かれていることが示唆を与えます。この表現は、ヨハネのバプテスマの他に、アポロがまだ知らなかったもう一つ別のバプテスマがあることを示唆しています。プリスキラとアキラはアポロにこの「もう一つ別のバプテスマ」のことを説明したと考えられます。
 すぐ後に続く段落(使徒一九・一〜七)で、「ヨハネのバプテスマ」を受けたがまだ聖霊を受けていなかった弟子が、パウロの教えを聞いてイエスを信じ、「イエスの名によってバプテスマを受け」、聖霊を受けたことが報告されています。ここで「ヨハネのバプテスマ」と対比されているのは、「イエスの名によるバプテスマ」ではなく、イエスを信じて告白することによって受けた「聖霊のバプテスマ」です。正確に言うと、「ヨハネによる水のバプテスマ」と「復活者キリストによる聖霊のバプテスマ」が対比されているのです(このことについては後に詳しく扱います)。「聖霊のバプテスマ」という表現を使ったかどうかは確認できませんが、プリスキラとアキラは、自分たちがパウロから教えられ、パウロとの協力関係の中で体験し生きている、聖霊による復活者キリストとの交わりという質の信仰を説明したのではないかと推察されます。アポロはすでに(おそらくパレスチナで)地上のイエスの働きや言葉について伝える「イエス伝承」は多く受けていたのでしょうが、プリスキラ・アキラ夫妻との接触によって、パウロ的な聖霊による信仰の次元に目を開かれ、イエス・キリストのことを「ますます霊に燃えて語り、いっそう正確に教えた」と思われます。
 アポロはしばらくエフェソで活動しますが、アカイア州に渡ることを希望します。アポロは巡回教師であったのでしょう。アカイア州に渡るとは、その州都コリントへ行くことを指しています。エフェソの「兄弟たちはアポロを励まし、かの地の弟子たちに彼を歓迎してくれるようにと手紙を書きます」。おそらくその手紙を書いたのは、コリントでパウロと共に伝道活動をして、コリントの兄弟たちによく知られ信頼されていたプリスキラ・アキラ夫妻でしょう。
 コリントに着いたアポロは、その深い聖書知識と熱烈な弁舌によって、「すでに恵みによって信じていた人々」を大いに励ますと同時に、ユダヤ人を説き伏せてイエスの信徒にします。コリントにはすでにパウロの伝道活動によってユダヤ人と異邦人の信徒がいたのですが、パウロが去ってからコリントに来たアポロの活動によって新しく信仰に入った人たちや、またすでに信仰に入っていたがアポロの説教に心酔した人々の中に、「わたしはアポロに属す」と唱える人が現れ、それに対抗してもとからの人が「わたしはパウロに属す」と言って、コリントにはアポロ派とパウロ派ができるに至ります。このことを伝え聞いたパウロは、エフェソから手紙を書いて、分派精神を戒め、キリストにあって一致するように諭します。これが、コリント第一書簡の重要な主題になります。そこでも見ましたように、パウロはアポロを自分に対抗する「偽りの働き人」とはせず、同じ福音のために労する同労者として扱い、深く信頼しています。

パウロとアポロの関係については、拙著『パウロによるキリストの福音U』90頁以下の「パウロとアポロ」を参照してください。

エフェソにおけるパウロの宣教活動

 アポロがエフェソを去ってコリントに向かった後に、パウロは「高地地方を通ってエフェソに下ってきました」(使徒一九・一)。おそらくパウロはプリスキラとアキラ夫妻の家で旅装を解き、そこに住んで宣教活動を開始したと推察されます。パウロは早速、エフェソのユダヤ人会堂に入り、「神の国のことについて大胆に論じ」、ユダヤ人を説得しようとします(使徒一九・八)。パウロは自分を異邦人への使徒であると自覚していますが、決してユダヤ人への宣教を放棄したのではありません。そのことは手紙の中で、パウロがユダヤ人の救いを熱烈に願い祈っていることからも分かります(コリントT九・二〇、ローマ九・一〜五)。ルカも、パウロはどの都市に入ってもまず最初にユダヤ人の会堂に行って福音を語ったと伝えています。テサロニケでも(使徒一七・二)、コリントでも(使徒一八・四)そうでした。
 エフェソでもパウロは三か月にわたって会堂でユダヤ人とそこに集まる「神を敬う」異邦人に、イエスがキリストであることを説きます。ユダヤ教会堂には、ユダヤ人(ユダヤ教徒)だけでなく、ユダヤ教に惹かれた異邦人(異教徒)も集まっていました。その中で、割礼を受けてユダヤ教に改宗するまでには至っていないが聖書の神を崇拝する異邦人は、「神を敬う者」と呼ばれていました。実は、このユダヤ教の会堂に集まる「神を敬う」異邦人たちが、新しいキリスト信仰の担い手として重要な位置を占めることになります。異邦人に福音を宣べ伝えるにも、最初の手がかりはユダヤ教会堂にあったのです。
 ところが、会堂で福音を語って三か月ほど経ったとき、それができなくなります。その事情をルカは次のように伝えています。

 パウロは会堂に入って、三か月間、神の国のことについて大胆に論じ、人々を説得しようとした。しかしある者たちが、かたくなで信じようとはせず、会衆の前でこの道を非難したので、パウロは彼らから離れ、弟子たちをも退かせ、ティラノという人の講堂で毎日論じていた。このようなことが二年も続いたので、アジア州に住む者は、ユダヤ人であれギリシア人であれ、だれもが主の言葉を聞くことになった。(使徒一九・八〜一〇)

 「かたくなで信じようとはせず」と言われている「ある者たち」とは、頑迷なユダヤ教徒であると考えられます。ユダヤ人にとって「十字架につけられたメシア」などということは「つまずき」そのものであり、その上律法順守がもはや救いの道ではなく、イエスに対する信仰だけが救いであるというような告知は、神聖な律法(ユダヤ教)に対する許すことができない冒?でした。それで、彼らは「会衆の前でこの道を非難した」のです。「この道」というのは、イエスをキリストと信じる信仰(福音信仰)を指すルカ特有の表現です。「会衆の前で」非難した、すなわち会堂の集会の場で非難の声を上げたのですから、会堂は騒乱状態に陥り、もはや平穏な礼拝を続けることはできず、会堂司はパウロたちに退去を求めたのでしょう。このように、どの都市でもパウロは先ずユダヤ教会堂で福音を語りますが、ユダヤ人たちの激しい非難によって追い出されています。テサロニケでも、コリントでもそうでした。エフェソも例外ではなかったのです。
 コリントでは、会堂から追い出されたパウロは、「神を敬う」異邦人ティティオ・ユストの家で集会を開き、福音を語り続けることになります。彼の家は会堂の隣にあったので、パウロの活動は会堂のユダヤ人たちを強く刺激し、ついにユダヤ人の一団がパウロを襲い、法廷に引き立てることになります(使徒一八・五〜七、一二)。エフェソでは、パウロは「弟子たち」、すなわちイエスを信じるようになったユダヤ人と「神を敬う異邦人」の一団を引き連れて会堂を離れ、「ティラノの講堂」(直訳)に集まり、そこで毎日福音を語り続けることになります。この講堂は、ティラノという人の所有である講堂か、またはティラノという人にちなんで名付けられた講堂でしょう。エフェソには、他にも「ケルソスの図書館」(ケルソスという名のアジア州総督に捧げられた図書館)というような個人の名を冠した建物があったことが、遺跡の発掘によって確認されています。
 会堂に集まるのはおもにユダヤ人ですが、公共の講堂には様々な宗教の異邦人が多く集まったことでしょう。また、会堂に人が集まるのは週に一度安息日(土曜日)だけですが、ティラノの講堂では「毎日」福音を説くことができるようになります。ある写本(西方系テキスト)によると、パウロは毎日午前一一時から午後四時まで五時間もこの講堂で論じたと伝えられています。エフェソのような暑い地方では、午前一一時には仕事を止めたそうです。パウロは、コリントの場合と同じく、エフェソでもプリスキラとアキラ夫妻の家に住んで、一緒に天幕造りの仕事をして、自分の生活を支えたと推察されます。――ルカは、後にパウロ自身がエフェソの人たちへの別れの訓話でそう言ったと伝えています(使徒二〇・三四)。パウロも一一時に天幕造りの手仕事を止めて、講堂に駆けつけたのでしょう。その時間には労働者たちの聴衆も期待できます。五十歳代のパウロのエネルギッシュな活動ぶりが目に浮かぶようです。このような活動(後に見るように癒しを含む活動)が「二年も続いた」とすると、その評判はエフェソの後背地の広い地域に伝わったことでしょうから、「アジア州に住む者は、ユダヤ人であれギリシア人であれ、だれもが主の言葉を聞くことになった」というルカの報告は、決して誇張だけではないと言えます。

「十字架の言葉」の宣教と癒しのしるし

 エフェソでのパウロの宣教について、ルカは「神の国について大胆に論じ」と言うだけで、その説教の内容まで立ち入っていません。パウロがエフェソで伝えた福音は、少し前にコリントで語った福音と同じであると見てよいはずです。パウロは、アンティオキアを出てガラテヤ、フィリピ、テサロニケ、ベレア、アテネ、コリントと福音を伝えてきましたが、その内容は、パウロ自身がエフェソで書いた手紙に明確に証言されています。その内容は、一言で言うと、「十字架の言葉」となるでしょう。たとえば、ガラテヤの諸集会にあてた手紙では、「あなたがたの目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきりと示されたではないか」(ガラテヤ三・一)と言っています。コリント第一書簡では、「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」(コリントT一・二二〜二三)と言い、さらに「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」(コリントT二・二)とさえ言っています。ガラテヤ書はかなり確実に、コリント第一書簡は確実にエフェソで書かれた書簡ですから、エフェソでのパウロの胸中は「十字架につけられた復活者キリスト」に満たされていたことが推察されます。もちろん、テサロニケ書に見られるような偶像を離れて唯一の神を拝むこととか、キリストの来臨という主題についても、エフェソの異邦人に向かって熱烈に語ったことでしょう。

コリントにおけるパウロの福音宣教について詳しくは、拙著『パウロによるキリストの福音U』第一章「十字架の言葉」を参照してください。また、異邦人に向かって、「救済史的唯一神信仰」を説いたことについては、拙著『パウロによるキリストの福音T』第八章「福音におけるユダヤ教遺産の継承」を参照してください。同じことがエフェソでの宣教についても言えることになります。

 ところで、ルカはエフェソでのパウロの宣教活動については、それまでのテサロニケやベレア、またコリントでの活動については触れてこなかった事実を、かなり詳しく伝えています。それは、「神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた」という事実です(使徒一九・一一)。パウロは、求められるときには病人に手を置いて祈って病気を癒し、悪霊につかれた人にはイエスの名によって悪霊を追い出したことでしょう。しかしそれだけでなく、エフェソでは「彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出て行くほどであった」(使徒一九・一二)と伝えられています。エフェソの人々のパウロに対する熱狂ぶりがうかがえます。
 古代の人々は、神から遣わされた人の体には神の力が宿っていると信じていましたから、その人の体に触れると病気は癒されると信じました。それで、イエスの体に触ろうとして人々が押し迫ったのでした(マルコ三・一〇)。イエスの体に触ることができない長血の女は、イエスの衣の房に触れて癒されたのでした(マルコ五・二五以下)。エフェソで人々は、パウロが行う癒しなどの奇跡を見て、パウロを神から遣わされた使者として迎え、パウロに触れようとして殺到したのでしょう。そして直接触ることができない者は、「彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当て」て祈ると、「病気はいやされ、悪霊どもも出て行く」のでした。これは古代だけのことではありません。現代でも、聖霊の力に溢れた伝道者が手を置いて祈ると病人が癒され、また、その伝道者が手を置いて祈ったハンカチを病人に当てて祈ると癒されるなどの奇跡が起こっています。これは、その人の手など体の一部や衣服に力が宿っているのではなく、神の力に対する信仰が、その人の体や衣服との接触という形で行動に現れるからです。
 このように「神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた」という事実は、パウロ自身の証言によっても確認されます。パウロは自分が行った奇跡について書簡の中で語ることはほとんどありませんが、このエフェソでの伝道活動を終えたすぐ後にコリントで書いたローマ書で、このように言っています。

 「だから、わたしは神に仕えることについては、キリスト・イエスにあって誇りを持っているのです。異邦人を従順に導くために、キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、わたしはあえて語ろうとは思いません。キリストが言葉とわざにおいて、しるしと不思議を現す力によって、御霊の力によって働かれたのです。こうして、わたしはエルサレムから始まり、孤を描いてイリリコン州に至るまで、キリストの福音を満たしてきました」。(ローマ一五・一七〜一九 私訳)

 パウロは自分の伝道活動を、「キリストがわたしを通して働かれたこと」としています。そして、キリストはパウロを通して、「言葉とわざにおいて」働かれました。「言葉において」とは、パウロが福音の言葉、すなわち「十字架の言葉」を宣べ伝えるとき、キリストが「御霊の力によって働かれ」、聴く者に直接「十字架につけられた復活者キリスト」の栄光と奥義を示し、信仰の従順に導かれる働きです。「わざにおいて」とは、パウロの宣教に「しるしと不思議を現す力」が伴い、キリストが「御霊の力によって」病人を癒し悪霊を追い出すなどの奇跡を現される出来事を指しています。そのような奇跡を、パウロはここで「しるし」と呼んでいます。パウロの福音宣教には「しるし」が伴いました。これが、パウロの宣教活動が短期間に大きな成果をあげた理由であることを、わたしたちは見落としてはなりません。ルカがエフェソでのパウロの働きについて報告していることは、パウロ自身の証言によって確認され、その重要性を示しています。
 ルカがエフェソでのパウロの働きについて、とくに「神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた」ことを伝えるのは、ペトロたちの奇跡の働き(使徒三・一〜一〇、五・一二〜一六)との均衡をとるためという動機も考えられます(使徒言行録は、前半のペトロと後半のパウロの描き方に均衡をとることを、著作の構成原理の一つとしているようです)。しかしそれ以上に、会堂や講堂で「神の国」のことを論じ、並行して病人を癒し悪霊を追い出す働きをするパウロの描き方に、「神の国について語り、人々を癒された」イエスの働き(ルカ九・一一)との並行関係を感じます。ここでルカが、パウロ書簡にも使徒言行録にも用例が比較的少ない「神の国」を用いていることからも、福音書を書いたルカがイエスとの並行関係を意識して、このパウロのエフェソ伝道を描いたのではないかと推測させます。
 なお、ルカはエフェソでのパウロの「しるしと不思議を現す力」の働きに伴う出来事として、二つのエピソードを加えています。一つは、ユダヤ人の祈祷師の話です(使徒一九・一三〜一七)。パウロの働きを見て驚いたユダヤ人の祈祷師が、パウロを真似てイエスの名を用いて悪霊を追い出そうとしたところ、かえって悪霊に憑かれた人に襲われ逃げ出したという話です。その出来事を見て、エフェソの人たちは、大いに主イエスの名を崇めるようになったということです。
 もう一つは、魔術の本が焼き捨てられた話です(使徒一九・一八〜二〇)。新しく信仰に入った人たちが、これまでの自分の行いを打ち明け、悔い改めるようになりますが、その中でとくに「魔術」を行っていた者たちが、魔術の本を持ってきて焼き捨てたことが、顕著な出来事として語られています。「魔術」とは異教の呪術的な活動を指していると見られます。このような活動をしていた人たちが回心して信仰に入り、これまで自分たちがしてきた行為が神の御旨に反する行為であることを示され(実際に純真な人を欺くような悪行もあったことでしょう)、自分たちの「魔術」の拠り所としていた経典の類などを持ってきて、皆の前で焼いたというのです。現代と違い、当時は書物は高価でした。焼いた本の値段は「銀貨五万枚」にのぼったとルカは伝えています。このエピソードは、パウロの福音がたんなる思想の問題ではなく、実際に人々の生活と行為を変える力であることを示しています。ルカは、この二つのエピソードの結びとして、「このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった」と書いています。

聖霊によるバプテスマ

 このような二年三か月にわたるパウロの力強い宣教活動の結果、エフェソにはかなりの規模の信徒の群れが形成されたと考えられます。この時期においては、信徒たちは個人の家に集まって、信仰の交わりを進めていました。エフェソでの代表的な例は「アキラとプリスキラの家に集まる集会(エクレーシア)」です(コリントT一六・一九)。他にもこのような「家の集会(エクレーシア)」とか、特定の立場の人たちがグループを形成していたようです。後で(ローマ書講解で)詳しく見ることになりますが、ローマ書一六章(三〜一六節)にある「個人的な挨拶」の人名リストは、当時の《エクレーシア》の状況を垣間見させてくれます。この「挨拶」がローマに宛てられたものかエフェソに宛てられたものかが争われていますが、どちらに宛てられたものにせよ、パウロの時代のローマとかエフェソのような大都市における信徒の姿や集会の構成が見えてきます。それによりますと、ユダヤ人も異邦人も多く含まれ、自由人もいますが奴隷身分の者も多く、男性だけでなく女性も多く、指導的な立場で活動する女性もいたことがうかがえます。エフェソの場合、土地柄から商工業に従事する人が多かったことでしょう。
 このようなグループの一つに信仰上の問題があって、パウロが対処した物語が使徒言行録一九章(一〜七節)に伝えられています。このグループの「何人かの弟子」は、ヨハネのバプテスマしか知らなかったとされています。ルカが「弟子」と呼ぶのはイエスに従う人のことですから、ヨハネのバプテスマしか受けていない人たちがイエスの「弟子」と呼ばれるのはどういう意味であるのか、彼らの出自はどこかなど、議論が絶えません。先に、パウロのエフェソ到着前にアポロがイエスのことを熱心に教えていたことを見ました。このアポロは、プリスキラとアキラに出会うまでは「ヨハネのバプテスマしか知らなかった」ので、この時期のアポロの教えを聴いてイエスの弟子となった人たちが、「ヨハネのバプテスマ」を受け、アポロが去った後もそのまま残っていた可能性も考えられます。また、アポロ自身と同じく、パレスチナでイエスからバプテスマを受けてイエスの弟子となったユダヤ人が、後にエフェソに移住してきた可能性もあります。少なくとも、パウロがエフェソに到着する前に「弟子」となっていた人たちであることを、ルカは強調しています。
 プリスキラとアキラがアポロの教えに足りないものがあることを感じて「もっと正確に神の道を説明した」ように、パウロはこのグループの弟子たちの信仰に問題を感じて、「あなたたちは信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と尋ねます。パウロは、彼らの信仰に聖霊の働きが欠けていることを見たわけです。すると彼らは、「いいえ(受けていません)。わたしたちは聖霊がいますかどうかも聞いていません」(私訳)と答えます。彼らの答えは、聖霊(神の霊)の存在そのものについて何も聞いていないという意味ではなく、聖霊がすでに世に来て、今は人々の中におられるのだということを聞いていないという意味であるとしなければなりません。ヨハネのバプテスマを受けた人たちですから、イスラエルにおける神の霊の存在と働きについてある程度のことは聞いていたはずです。ただ、彼らは終わりの日にはすべての人に聖霊を与えるという神の約束が今や成就しているのだという報知を聞いていなかったのです。
 パウロが彼らに、「では、あなたたちは何の中へバプテスマされたのか」(直訳)と尋ねますと、彼らは「ヨハネのバプテスマの中へ」(直訳)と答えます。それでパウロはバプテスマの意義を説明してこう言います、「ヨハネは悔い改めのバプテスマを授けて、彼の後に来る方の中へと、すなわちイエスの中へ信じるように民に告げたのです」(私訳)。すなわち、洗礼者ヨハネが授けた水のバプテスマはそれだけで意義を全うするものではなく、イエスを信じることによって意義が全うされるのだというのです。ここ(三〜五節)で、「バプテスマされる」という動詞と「信じる」という動詞の両方に、同じ「の中へ」という前置詞が用いられており、両方の動詞がその方(前置詞の目的語)に結ばれ、その方に属する者になることを指していますので、その意味関連を示すために「の中へ」という表現を残して、(不自然な日本語になりますがあえて)直訳しています。

「バプテスマする」という動詞の用法と、「〜の中にバプテスマされる」という表現については、拙著『パウロによるキリストの福音U』202頁以下のコリントT一二章一三節についての講解を参照してください。

 彼らはパウロの言葉を聞いて、「主(キュリオス)イエスの名の中へ」とバプテスマされます。もちろんパウロは、イエスを主《キュリオス》と信じて告白することが救いの道であること、この「主(キュリオス)イエス」は十字架の死によってわたしたちの罪を贖い、復活して御霊のキリストとして生きておられ、信じる者に聖霊を与える方であることを詳しく説いたことでしょう。彼らが「主(キュリオス)イエスの名の中へ」バプテスマされたことは、この「主(キュリオス)イエス」御自身の中へバプテスマされ、十字架・復活の「主(キュリオス)イエス」に合わせられ、その方に属する者になることを告白する行為であったわけです。たんにバプテスマの時に唱える名がヨハネからイエスに変わったというのではありません。
 こうして「主イエスの名の中に」バプテスマされた人たちの上にパウロが手を置いて祈りますと、「彼らの上に聖霊が降り、彼は異言で語り、預言をした」という現象が起こります。聖霊が降ること自体は目に見えません。しかし、それが起こったことの現れとして、異言とか預言という現象が伴います。いつも伴うとは限りませんが、使徒言行録では、聖霊が降ったことが明確に知られる必要のある重要な場合には、いつも異言とか預言という超自然的な現象を伴った出来事として伝えられています。最初はペンテコステの日の聖霊の注ぎです(使徒二章)。その時エルサレムに集まっていたユダヤ人たちは、使徒たちが異言で神を賛美するのを聞いて驚きます。サマリアでペトロとヨハネが信じた人たちの上に手を置いて祈ったとき聖霊が降りました(使徒八章)。そこでは異言とか預言のことは出てきませんが、それを見たシモンが金でその力を買おうとした物語から、そのような目に見える現象が伴っていたことが示されています。次はペトロがコルネリオに福音を語ったときに聖霊が降った出来事です(使徒一〇章)。その時も、周囲の人が「異邦人が異言を語り、神を賛美するのを聞いた」ので驚いたとあります。このようにルカは、「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土、また、地の果てまで」(使徒一・八)福音が広まることを描く著作の構想に従って、まずユダヤ人に、次にサマリア教徒に、さらに「神を敬う」異邦人に、そして最後にここで異邦人への使徒パウロの働きによって異教の代表的都市エフェソで聖霊が降ったことを語ることになります。
 このとき聖霊を受けた人たちは「皆で十二人ほどであった」とされています。この人数は、エフェソにあった洗礼者ヨハネの宗団とするには少なすぎるようです。おそらく、イエスの信徒の中の特殊なグループであったと見られます。この出来事がいつ起こったのかは分かりませんが、パウロ到着前のアポロの活動との関連から、同じように「ヨハネのバプテスマしか知らない」グループがパウロの働きによって聖霊を受けるに至ったことを際だたせるために、ルカがアポロの記事の直後においたものと考えられます。
 聖霊の賜物は福音の本質的な部分です。すなわち、それがなければ福音が福音でなくなるのです。パウロは書簡の中で繰り返し聖霊の働きの重要性を語っていますが、歴史を語るルカは、目に見える出来事を語る形で聖霊の賜物を伴う福音の進展を語るのです。ここでルカが語ろうとしていることは、バプテスマを受けるさいに唱える名がイエスでなければならないということではなく、洗礼者ヨハネが授けた水のバプテスマではなく、復活者キリストが授ける聖霊のバプテスマこそ福音が告知する神の恵みの働きであると言っているのです。ルカは、その著作の第一部(ルカ福音書)でイエスが父の約束として語っておられた聖霊(ルカ一一・五〜一三、二四・四九)が、第二部(使徒言行録)で実際に与えられる出来事を語ることによって、聖霊の賜物が福音の本質的部分であることを指し示しているのです。使徒言行録一九章でのエフェソでの聖霊の降臨は、それを語るルカの一連の物語の最後に位置するものとなります。そして、この一連の聖霊降臨の物語を、「ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられる」(使徒一・五)という標題で始めていることから、これを「聖霊のバプテスマ」と呼んでよいでしょう。

周辺地域への宣教活動

エフェソの周辺諸都市

 エフェソではパウロが二年間も(ユダヤ人の会堂ではなく)公開の「ティラノの講堂」で毎日福音を語る活動を続けたことで、またその間に「神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた」ので、その評判は高まり、救い主としてのイエス・キリストの御名はエフェソだけでなく周辺の諸都市の人々にも伝わっていきます。ルカは、「このようなことが二年も続いたので、アジア州に住む者は、ユダヤ人であれギリシア人であれ、だれもが主の言葉を聞くことになった」と言っています(使徒一九・一〇、なお同二六節も参照)。エフェソがアジア州の州都であり、交通と交易の中心都市であったことから、周辺諸都市の人の往来も頻繁で、周辺諸都市の人がエフェソに来て福音を聞き、そこで信仰に入った人たちが自分の都市に帰って福音を語るという形で、福音が伝えられていったと推察されます。
 しかし、パウロはこのような自然な形での拡大に任せているだけではなく、テモテらの協力者を派遣するなどして積極的に周辺諸都市に伝道の働きを進めたものと考えられます。パウロ自身が出向いたかどうかは確認できません。後で見るように、パウロはコロサイには行っていませんが、コロサイ出身者のエパフラスによってコロサイやその近隣都市のラオデキア、ヒエラポリスに信徒たちの集会が形成されたのは典型的な事例です。
 エーゲ海に面する小アジア西岸部のパウロ時代の地図を見ますと、アジア州の州都であるエフェソの周辺に、スミルナ、ペルガモン、テアテラ、サルディス、フィラデルフィアなどの名が見えます。この五都市にエフェソ自身と(先に出てきた)ラオデキアを加えると、九十年代に成立したと見られるヨハネ黙示録の二章と三章に出てくる「アジア州の七つの集会」に重なります。それに、イグナティオス書簡(二世紀初頭)の宛先として出てくるマグネシアとトラレスもエフェソのごく近くの都市です。ここに名をあげた十一都市の集会は、パウロがエフェソで活動した時期に成立したか、または核になる信徒が活動を始めるなど、その萌芽をもった集会ではないかと考えられます。

ヨハネ黙示録の二章と三章に出てくる「アジア州の七つの集会」がパウロ系の集会(パウロ自身によって形成されたか彼の後継者によって形成され指導されている集会)であるとすると、ヨハネ黙示録の著者とその成立事情についてのこれまでの通念は真剣に再検討されなくてはならなくなります。古代と中世を通してヨハネ黙示録は(ヨハネ福音書と同じく)ゼベダイの子、使徒ヨハネの作であるとされてきましたが、近代になって使徒ヨハネの著作であることは否定され、ヨハネ福音書の著者とは別人とみる人が多くなりました(ヘンゲルは使徒ヨハネではないが同一人と見ています)。それでもなお、黙示録はヨハネ福音書を生み出したヨハネ共同体から出たものであるという見方が通念となっていました。しかし、最近では、黙示録の著者はヨハネよりもパウロの影響をより強く受けているとする説(フィオレンツァ)も出てきています。これまでの通念は再検討を迫られています。なお、ヨハネ共同体は少なくとも後期にはエフェソで活動したと見られますので(この点については拙論『もう一人の弟子の物語――ヨハネ文書の成立をめぐって』を参照)、パウロ系集会とヨハネ共同体とがどのような関係に立っていたのかという問題は、今後の真剣な検討と解明を待つことになります。

コロサイの場合

 エフェソから周辺都市への福音の拡大については、コロサイの場合は文書の資料もあり、比較的確実に事情が分かりますので、その典型的な事例として見ておきましょう。文書の資料とは、この時期に書かれたことが確実と見られるフィレモン書と、少なくとも関連する部分がこの時期の事情を反映していると見られるコロサイ書です。

両書の成立事情についてはそれぞれの書の講解で詳しく扱うことになりますが、フィレモン書はエフェソでの投獄時に書かれたと見られます。コロサイ書はパウロ以後に、パウロの協力者または後継者によって書かれた書であると見ざるをえませんが、個人的状況に触れている箇所はパウロの手紙の断片を用いているなど、何らかの仕方でパウロの状況を反映していると見られます。その部分の個人名は、フィレモン書と重なっています。

 コロサイは、エフェソから東へ二〇〇キロ弱ほどのところにあるリュコス渓谷沿いの都市です。エフェソからメアンデル川沿いに東にさかのぼり、途中から支流リュコス川の渓谷に入って少しさかのぼるとラオデキアがあり、さらに一七キロほど奥に進むとコロサイに至ります。エフェソからは七日ほどの道のりです。ラオデキアの東北一〇キロほどのところにヒエラポリスがあります。このリュコス渓谷三都市の中で、当時はラオデキアが中心都市でした。

この地域の住民について特記すべきは、ラオデキアで起こった反乱にこりたセレウコス朝のアンテオコス三世が、反乱予防のため前三世紀にバビロンから二〇〇〇家族のユダヤ人をこの近隣地域に入植させたので、一世紀にはかなりのユダヤ人人口がこの地域にはあった事実です。このバビロン系ユダヤ人の存在が、この地域での福音伝道の手がかりになり、また同時にコロサイでの「誤った教え」の土壌になったことが推察されます。

 コロサイ書によると、パウロ自身がコロサイで伝道して集会を形成したのではありません。パウロはコロサイの人たちのことを「まだ直接顔を合わせたことのない人たち」と呼んでいます(二・一)。コロサイの人たちはエパフラスから福音を聞いたのでした。コロサイ書(一・六〜八)は、「この福音は、世界中いたるところでそうであるように、あなたたちのところでも、あなたたちが神の恩恵を聞いて真に悟ったその日から、実を結んで、成長しています。それは、わたしたちと共に仕える仲間、愛するエパフラスからあなたたちが学んだ通りです」と言い、エパフラスについて「彼は、あなたたちのためのキリストの忠実な奉仕者です。彼はまた、御霊によるあなたたちの愛をわたしたちに知らせてくれた人です」と言っています。
 エパフラスはコロサイの人です(コロサイ四・一二)。パウロはコロサイへは行っていないのですから、エパフラスはエフェソでパウロの福音に接し回心したと考えられます。その後の頻繁なエフェソとの往復からすると、おそらく彼はリュコス渓谷諸都市の優れた織物を扱う交易にたずさわる活動的な人物ではないかと推察されます。彼は回心後、エフェソでパウロから熱心に学び、故郷のコロサイに帰って福音を伝えます。コロサイのフィレモンとその家族も、おそらくエパフラスを通して福音を聞き、回心したと考えられます。フィレモンの家には集会が成立していますが(フィレモン一〜二節)、その集会もコロサイにおけるエパフラスの働きと指導の下にあったと見られます。エパフラスはコロサイだけでなく、近隣のラオデキアとヒエラポリスでも熱心に伝道し、その地の集会のために労苦をいとわず祈り働いています(コロサイ四・一三)。

フィレモンはエフェソでパウロの宣教に接し回心した可能性もあります。フィレモン書(一九節)の「あなたがあなた自身をわたしに負っている」という言葉は、この意味であるとする見方もありますが、決定的ではなく議論があります。なお、フィレモンの奴隷オネシモがパウロに会うのを助けたのはエパフラスではないかという問題は、後でフィレモン書を扱うときに触れることになります。

 パウロは、まだ訪れたこともなく知人もない新しい地域に福音を伝えることの困難を知っています。それで、コロサイ出身のエパフラスが回心したとき、彼の信仰と熱意を見て、彼にコロサイと近隣地域に福音を伝えることを委託したことは十分考えられます。もちろんエパフラスは主イエスに対する熱意から進んで福音を伝えたのでしょうが、パウロの宣教方針に添う形で、パウロの協力者としてリュコス渓谷地域の宣教に励んだと見られます。また、新しい回心者として常にパウロと接触して指導を仰ぐ必要もあったことでしょう。コロサイの集会の状況を伝え(コロサイ一・四、七)、パウロの指導を受けるために、コロサイとエフェソの間を繰り返し往復してパウロと接触したことでしょう。

コロサイ一・七の「彼はあなたたちのためのキリストの忠実な奉仕者です」とあるところは、有力な写本で「彼はわたしたちのためのキリストの忠実な奉仕者です」と読むものがあります。この場合は、エパフラスは「わたしたちのために」、すなわちパウロたちの代理として働くキリストの奉仕者であるということになります。

 後に見るように、パウロはエフェソで投獄されています。そのときエパフラスも一緒に獄に入れられています(フィレモン二三)。騒乱のときパウロと一緒に逮捕されて投獄された可能性もありますが、投獄されたパウロをたびたび訊ねてきて接触したので、パウロの協力者として疑われ投獄された可能性もあります。後で見るように、エパフラスがオネシモを獄中のパウロのところに連れてきたことが考えられますので、後の可能性の方が高いようです。コロサイ書でパウロは、祈りの人(四・一二)で忠実な働き人エパフラスを深く信頼し、「わたしたちと共に仕える仲間」、「キリストの忠実な奉仕者」と呼んでいます(一・七)。この「共に仕える仲間」というところは、原語では「仲間の奴隷」です。パウロは自分を「キリストの奴隷」と呼んでいますが、協力者を「仲間の奴隷」と呼ぶことは珍しく、エパフラスに対するパウロの深い信頼を示しています。
 コロサイ以外のアジア州の諸集会については資料がなく、詳しいことは分かりませんが、コロサイの場合と同じように、地元出身の回心者の働きと、テモテらパウロの協力者の働きで宣教活動が進められたと想像してもよいでしょう。このようにエフェソでのパウロの宣教活動は周辺諸都市に波及し、この地域をキリストの民とその集会が活発に活動する地域とします。その後のキリスト教の歴史において、エフェソを中心とする小アジアは、シリアと並んで古代キリスト教の揺籃の地となり、多くの指導的人物(教父)を生み出す重要な地域となります。彼らにとって「使徒」とはパウロを指す称号でした。小アジアのキリスト教の土台を据えたのはパウロであると言えます。

ヨハネ共同体も、少し後の時代(一世紀末)にエフェソを中心として活動したと見られますが、その意義やパウロとの関係については、拙論『もう一人の弟子の物語――ヨハネ文書の成立について』の最後の項「ヨハネ文書の正典化」を参照してください。

エフェソでの騒乱と投獄

騒乱

 パウロが二年間も公開の「ティラノの講堂」で毎日福音を語る活動を続けたことと、その間に「神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた」ので、エフェソの市民の熱狂は次第に高まってきたと見られます。その熱狂ぶりは、先に見たように、パウロとの接触を求めて「彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持っていって病人にあてる」とか、パウロがイエスの名で悪霊を追い出すのを真似する祈祷師が出るとか、魔術の本を焼き捨てるなど、使徒言行録(一九・一一〜二〇)に生き生きと描かれていました。
 その熱狂の結果、エフェソに大きな騒乱が起こります。ルカはその騒乱の発生から始め、その成り行きを詳しく物語っています(使徒一九・二三〜四〇)。パウロの福音は、先にテサロニケ書簡で見たように、異邦人に異教の偶像から離れ、天地の創造者である目に見えない唯一の神に帰るように説き勧めるものですから、アルテミス神殿の銀製の模型を作って参詣人に売って利益を得ていた人たちは、エフェソの市民が熱狂してパウロの話を聞きに集まるのを見て、自分たちの事業に対する脅威を感じ、パウロたちに反対する運動を始めます。彼らの中の一人デメテリオ(神殿模型の製造業者)は、職人たちや同業者に呼びかけて大きな集会を開き、パウロたちを非難するアジ演説を行います。煽動されたエフェソの市民たちは、パウロの同行者であるマケドニア人ガイオとアリスタルコを捕らえ、「エフェソ人のアルテミスは偉大なるかな」と叫んで野外劇場になだれ込みます。当時のヘレニズム都市では、円形の野外劇場は演劇の上演だけでなく、市民たちの大きな集会にも用いられていました。
 このような福音の進展にとっての危機と仲間の危険とを見たパウロは、自身でこの劇場に乗り込んで市民に語りかけようとしますが、危険を察した仲間や、パウロに共感を寄せていた市の高官たちから止められます。劇場ではユダヤ人のアレクサンドロという人物が弁明しようとします。彼が何を弁明しようとしたのかは分かりませんが、おそらく偶像を拝まない点では同じであるが、会堂のユダヤ人はパウロ一行とは別であると弁明して、パウロの活動から生じたユダヤ人への非難をかわそうとしたのでしょう。しかし、興奮した群衆に阻まれて語りかけることもできず、集会は喚声と怒号が二時間も続く混乱状態に陥ります。
 そこで、市全体が騒乱状態に陥るのを恐れた市の書記官が登壇して、群衆に平静を保つように訴えます。ローマの支配者は、宗教問題には寛容ですが、騒乱など秩序を乱す行為や出来事にはきわめて敏感で、そのような事態が起こった場合には為政者は重い責任を問われます。書記官は群衆に、不満があるなら正式の法廷に訴えるとか会議に問題を出すとかして解決を図るように説得します。彼の説得は効を奏して、群衆は解散します。こうして、騒乱は収まることになります。

投獄

 ルカはこの騒乱について、パウは騒乱に巻き込まれることなく、外にいて無事だったとしています。そして、「この騒動が収まった後、パウロは弟子たちを呼び集めて励まし、別れを告げてからマケドニア州へと出発した」(使徒二〇・一)と、パウロには何事もなかったかのように書いています。しかし、パウロの手紙にはエフェソでの投獄を示唆する表現が見られます。たとえば、エフェソから書き送った手紙で複数回の投獄に触れていますが(コリントU一一・二三)、フィリピでの投獄の後で他に可能性のあるのはエフェソということになります。「死の宣告を受けた思い」をする「アジア州で被った苦難」もエフェソでの投獄を示唆しています(コリントU一・八〜九)。また、後述するように、獄中から書かれたとされる書簡を子細に検討すると、どうしてもパウロはエフェソで投獄されたとしなければなりません。そうすると、パウロがエフェソで投獄されるような事件とは、このアルテミス神殿をめぐる騒乱以外にはありえないので、パウロはこの事件に巻き込まれて投獄されたと見ざるをえません。
 新約聖書のパウロ書簡集には、パウロが獄中から書いたとされる獄中書簡が四つ収められています。フィリピ書、フィレモン書、コロサイ書、エフェソ書の四つです。ところで、使徒言行録にはパウロの投獄ないし拘留が三回報告されています。フィリピでの投獄(一六章)、エルサレムで逮捕されてからカイサリアに送られて二年間の拘留(二四章)、そしてローマでの拘留生活(二八章)の三回です。近年にいたるまで、パウロの獄中書はローマで書かれたとされてきましたが、近代の聖書学の発展にともない、ローマ説の不自然さが指摘されるようになって、使徒言行録には報告されていないエフェソでの投獄と理解する見方が有力になってきました。フィリピは時期の点から見てありえないことですし、ローマとカイサリアは、獄中書簡が前提としている書簡に現れる人物や土地との頻繁な交流にはあまりにも遠すぎて不自然です。詳細な検討はそれぞれの書簡の講解に委ねなければなりませんが、獄中書簡に登場する人物や土地との関わり方は、エフェソでの投獄を前提にするとき、もっとも自然に理解できます。とくにフィレモン書はエフェソ説の有力な論拠になります。

フィリピ書とフィレモン書については、本書の4章と5章で詳しく扱うことになります。パウロ自身によって書かれたものか、パウロの名によって誰か他の人によって書かれたものかが争われているコロサイ書とエフェソ書の二つは(岩波版新約聖書はこの二つの書簡を「パウロの名による書簡」に入れています)、別の機会に取り上げることにしますが、コロサイ書については、先に見たように、個人名が出てくる部分はパウロの状況を反映していると見られるので、エフェソ説の有力な根拠になります。

 パウロの書簡からはエフェソでの投獄を前提としなければならないとすると、ルカが使徒言行録でエフェソでの投獄を報告していない理由が問題になります。基本的に、ルカの著作には護教的動機が強く働いています。すなわち、「この道」とルカが呼ぶイエス・キリストの信仰は、決してローマの秩序に反するものではないということを弁証しようとする意図があります。それで、このエフェソでの騒乱事件を語るときも、パウロは責任のない局外者として描かれ、市の高官までもパウロに好意的で、市の行政当局の強い指導で騒乱が収まったことだけを報告し、パウロが責任を問われるような投獄という事態を省略したと見ることもできます。フィリピでの投獄も、それが占いによる利益を失った者の告発という不当な理由によるものであることを述べ、投獄が誤りであったことを当局者が認める形で釈放されるという形で描かれています。
 逮捕されたパウロを釈放してもらうために、パウロの仲間たちが必死の努力をしたことは十分推察することができます。この事件からすぐ後に書かれたローマ書(一六・四)で、パウロはプリスキラ・アキラ夫妻について、「この二人は、わたしの命のために自分たちの首を差し出してくれたのです」と言っています。どういう形であるかは分かりませんが、プリスキラ・アキラ夫妻はパウロの命を助けるために自分の命を危険にさらしたという意味です。そうすると、この騒乱の時にパウロを助けるために、二人が命の危険を冒して奔走したことも十分推察されます。

この事件について、パウロの生涯と使徒としての活動を小説風に描いているウォルター・ワンゲリンの「小説聖書」の第三巻「使徒行伝」は、その中でエフェソの騒乱で投獄されたパウロを、プリスカが自分をパウロの身代わりにして、パウロを脱獄させる場面があります。これは小説で、実際にはありそうもない話ですが、このような出来事が実際にあった可能性も否定しきれません。もしそれが事実であれば、キリスト教徒がローマの法律や秩序を破る者でないことを示したいルカが、このような非合法な脱獄を含むエフェソでの入獄について語ることを避けたことも、いっそううなずけることになります。

 無罪放免されたのか、市からの追放という程度の処罰で済んだのかは分かりませんが、パウロはこの事件の後エフェソを発って、マケドニアに向かうことになります。このような事件の後に、エフェソにとどまって活動を続けることはできないはずです。この事件のすぐ後になりますが、パウロはコリントからエルサレムに向かうとき、エフェソには入らないで、「ミレトスからエフェソに人をやって、集会の長老たちを呼び寄せて」、彼らと会っています(使徒二〇・一七)。この事実は、ルカは「旅を急いだ」からだとしていますが、パウロがエフェソからの追放処分を受けていたことを示唆するという理解もできます。

当時のローマの刑罰についての法制では、現代の懲役刑のように刑務所に拘禁することを刑罰とする制度はありませんでした。従って「投獄」とは、判決を待つまでの未決囚としての拘留か、死刑執行を待つ間の拘留かのどちらかでした。その他の刑、たとえば(鉱山などの)労役刑、追放、罰金刑などは、判決が出ると刑はすぐ執行され、獄からは出されました。

エフェソで書かれた手紙

使徒パウロの牧会活動

 先に『パウロによるキリストの福音U』の54頁に、エフェソの地理的位置について次のように書きました。
 「どの聖書にもついているパウロの伝道地図を見ますと、エフェソはパウロの活動圏を示す円の中心に位置していることが分かります。エフェソは、ピシディアのアンティオキア、ガラテヤ、テサロニケ、フィリピ、コリントなど、パウロの設立した諸集会を結ぶ円周の中心の位置にあり、それぞれに三〇〇キロから五〇〇キロの範囲内におさまります。とくに、フィリピやテサロニケやコリントはエーゲ海を挟んで、海運の便もよく、短期間で往復することもできました(片道約二週間)。事実、パウロはエフェソ滞在中にこれらの諸集会と書簡をやりとりしたり、使者を受けたり、協力者を派遣したり、ときには自身で訪問したりして、緊密な連絡を取りながら、諸集会の信仰の確立につとめます。現在残されているパウロの手紙はほとんどエフェソで書かれたか、エフェソとの関わりで書かれたものと言えます」。
 パウロがエフェソに滞在して活動していた期間中、彼がそれまでに設立した各地の諸集会は様々な問題をかかえ、困難に直面していました。集会内部の対立、たとえばユダヤ人信徒と異邦人信徒の対立、指導的立場の個人の名を掲げる分派活動、集会員の間の感情的対立など、さらに集会員の道徳的な問題、「主の晩餐」や霊の賜物の行使など集会活動における無理解や無秩序などで、生まれたばかりのキリストの諸集会は様々な困難に直面していました。その上、内と外からの「間違った教え」によって純粋なキリストの福音が損なわれる怖れがありました。とくに、パウロの福音に批判的な働き人(伝道者)たちが外から働きかけてきて、パウロが使徒であることを疑問視したり、パウロが熱心に進めている募金活動の動機を疑問視したりしました。彼らは異邦人に割礼を求めたり、モーセ律法の順守を求めるなど、パウロがキリストの使徒として宣べ伝えた福音の根底を破壊しかねない危険が迫っている場合もありました。使徒パウロは、それらの集会の設立者として、またその健全な成長と存続に責任を負う者として、書簡を送ったり、テモテらの協力者を派遣したり、ときには自ら訪問したりして、必死に指導し、励まし、警告したりします。
 このような集会指導の働きの中で書かれた書簡が、パウロ書簡集として新約聖書の中に保存され、わたしたちに伝えられています。それらのパウロ書簡は、当時の諸集会が直面していた困難な状況を伝えるだけでなく、それに対処する使徒パウロの言葉や姿勢から、パウロが宣べ伝え、その中に生きていたキリストの福音とはどういう現実であるのかを指し示しており、現在わたしたちがパウロが告知したキリストの福音がどのようなものであるかを追求し理解するための、ほとんど唯一の貴重な資料となっています。各書簡の成立事情と内容は、それぞれの書簡を扱う章に委ねなければなりませんが、ここでエフェソにおけるパウロの働きの重要な一面として書簡の執筆活動を見るために、この期間に書かれた書簡の成立事情を一瞥しておきましょう。
 パウロ書簡の中で一番早く書かれたものはテサロニケ第一書簡です。この書簡の成立事情と内容については、『パウロによるキリストの福音T』で詳しく扱っていますので、ここではそれがエフェソでの活動の期間ではなく、その前にコリントで活動していた時期(おそらく五一年)に書かれたものであることを思い起こすだけにしておきます。
 現在パウロが書いた書簡であることが争われていない七書簡の中で、最後のものはローマ書です。このパウロ書簡の中で最後であり最も重要な書簡は、パウロがエフェソでの働きを終えて、マケドニア経由でコリントに至り、冬の間コリントに三か月滞在して(五五年から五六年にかけての冬)、エルサレム行きの船便を待っている時に書かれました。ローマ書の執筆については、終章の「使徒パウロ最後の日々」で扱うことになります。
 従ってここでは、七書簡の中でこの二書簡を除く五書簡を、エフェソで書かれた書簡として、その執筆事情を一瞥することになります。その五書簡とは、ガラテヤ書、コリント第一書簡、コリント第二書簡、フィリピ書、フィレイモン書の五つです。

パウロの手紙のほとんどがエフェソで書かれたか、エフェソとの関わりで書かれた結果、パウロ書簡の収集である「パウロ書簡集」はエフェソで成立したと考えられます。この問題は、後でフィレモン書を扱うときに詳しく触れることになります。

ガラテヤ書

 ガラテヤ書についてはすでに『パウロによるキリストの福音T』で扱い、その執筆事情については同書134頁以下でやや詳しく触れました。執筆場所としては、エフェソの他にコリントやローマも推定されていますが、やはりエフェソ説がもっとも有力です。ガラテヤ書(一・六)の「こんなにも早く」をどう理解するかが鍵となりますが、パウロがガラテヤ地方に集会を設立したのは四九年と見られるので、五三年のエフェソ到着以後の執筆とすると四年は経っていることになり、不自然な表現となります。しかし、パウロがガラテヤ地方を二回訪れているとすると事情は変わってきます。一回目は第二次伝道旅行の初めに訪れて伝道し、集会(複数)を設立した時です(四九年)。二回目は第三次伝道旅行の初めに小アジアの「高地地方を通って」エフェソに来る途中です(五三年春か夏)。パウロがアンティオキアから目的地のエフェソに行くのに、楽で早い海路をとらずに困難な高地地方を選んだのは、本章第一節の中の「アンティオキアからエフェソへ」(11頁以下)で見たように、ガラテヤ地方をはじめこの地域に先に建てた諸集会を励まし堅くするためでした。

先にもお断りしたように、『パウロによるキリストの福音T』の10頁「使徒パウロの生涯」と題する年表において、「エフェソで約二年活動」という項を「52年〜55年」としているところを、「53年〜55年」と訂正します。

 パウロがあえて困難な旅を選んだのは、ガラテヤ地方などの諸集会を堅くする必要があったからと見なければなりません。すなわち、一回目の訪問と二回目の訪問の間に、異邦人信徒に割礼を要求する「ユダヤ主義者」たちの活動がガラテヤ地方に及んでいて、パウロは改めて福音の真理を語り、キリストにおける恩恵の支配を教えて、割礼を受けてユダヤ教に組み込まれることを避けるように説く必要があったと見られます。その時、ガラテヤ書二章にパウロ自身が書いているエルサレム会議の決定を有力な根拠としたはずです。そうすると、このエルサレム会議が第二次伝道旅行の前にあったとする通説でも説明できますが、第二次伝道旅行の後にあったとするマーフィー=オコゥナーの説の方がさらに適切な説明となります。すなわち、パウロは第二次伝道旅行の後半で、ガラテヤ地方やマケドニア州でのユダヤ主義者の活動を知って、急いでコリントからエルサレムに向かい、ヤコブらと会談し、そのエルサレム会議の決定を携えてガラテヤの諸集会を訪れ、彼らを説得しようとしたと見ると、いっそう自然に理解できます。この時に、エルサレム会議の決定の一つである募金活動を始めたと見ると、コリントI一六・一の「ガラテヤの諸集会に対する募金の指示」もいっそう適切に理解できます。なお、パウロはコリントにいるときはまだユダヤ主義者の活動を知らず、ユダヤ人が起こした争乱でコリント退去を余儀なくされて、(ローマはまだユダヤ人追放令が行われていたので)エフェソでの伝道を志し、プリスキラとアキラ夫妻とエフェソに行ったときに、エフェソでガラテヤでのユダヤ主義者の活動を伝え聞き、驚いてパウロが単身エルサレムに急いだという見方も可能です。
 ところが、パウロがエフェソに到着して間もないころに、ガラテヤの人たちが割礼を受けたという報告が届きます。それでパウロが驚愕して、「こんなにも早く」福音から離れようとするガラテヤの人たちに「涙の書」を書くことになります。パウロのエフェソ到着は、二回目のガラテヤ訪問から数ヶ月以内(あるいは数週間以内)のことですから、この表現はきわめて自然に受け取ることができます。

コリント第一書簡

 パウロがエフェソで書いたことがもっとも確実な書簡がコリント第一書簡です。その執筆地がエフェソであることが、書簡自身(一六・八)に明記されています。この書簡の執筆事情については、前著『パウロによるキリストの福音U』で詳しく扱いましたので、ここでは繰り返さず、執筆の時期についてもう少し検討するに止めます。
 エフェソの騒乱事件の後では、パウロはエフェソで働きを続けることは困難で、直ちにエフェソを離れたと見なければなりません。そうすると、コリントからの三名の使者の報告を受けて、じっくりとあのように長い手紙を書くことができるのは、騒乱事件の前であると考えられます。パウロがこの書簡(一五・三二)で、「エフェソで野獣と戦った」と書いていることは、エフェソでの迫害を比喩的に語っていると考えられますが、それは必ずしもデメテリオとの対決を指すとはかぎりませんので、この書の騒乱事件前の執筆を否定する材料にはならないでしょう。しかも、第二書簡を書くまでに、テモテの派遣と報告(コリントI四・一七、一六・一〇)、自身のコリント訪問(いわゆる「中間訪問」)、また数回の手紙のやりとりがあったことを考慮すると、第一書簡はエフェソ滞在の初期であると見なければなりません。ガラテヤ書とどちらが先であったかは分かりません。
 パウロがこの手紙の最後(一六・五〜九)で、これからのコリント訪問の予定を告げて、「しかし、五旬節(ペンテコステ)まではエフェソに滞在します」と言っているのは、エフェソに到着した五三年ではありえません。その年の春にアンティオキアを出発したパウロが、同じ年の初夏にある五旬節までに「高地地方を通って」エフェソに到着することは困難です。到着できたとしても、すぐに出発のことを予告するのは不自然です。また、五五年には騒乱事件が起こり、パウロはエフェソを離れていますから、前述のようにそれまでにかなりの期間を見るとすれば、五四年の五旬節を指すとしなければなりません。したがってコリント第一書簡の執筆は五三年の末から五四年の初めの頃としなければなりません。

コリント第二書簡

 正典の「コリントの信徒への手紙二」は単一の手紙ではなく、パウロがコリントの集会にあてて書いた数回の手紙が一つに合わせられたものであることが広く認められています。どの部分がどのような機会に書かれたものか、手紙の構成については議論がありますが、ボルンカムの分析が説得的で広く用いられています。青野訳の岩波版もそれに従って五つの手紙に分け、年代的な順序に従って訳しています(アンカー聖書辞典のベッツやNTDのヴェントラントもほぼ同じ)。たしかに、このように分けて、パウロが置かれていた具体的な状況に即して読むと理解しやすいので、本講解でもこの順序に従い、パウロとコリント集会の状況の変化を追いながら本文を講解していきます。それぞれの手紙が書かれた状況については、その都度取り上げますが、最初に五つの手紙が「第二書簡」のどの部分に相当するのかを掲げておきます。「 」内は手紙の特色を示すために仮につけた呼び名です。
  手紙A 「最初の弁明」  二章一四節〜七章四節(六章一四節〜七章一節を除く)
  手紙B 「涙の手紙」   一〇章〜一三章
  手紙C 「和解の手紙」  一章一節〜二章一三節、七章五〜一六節
  手紙D 「募金の手紙T」 八章
  手紙E 「募金の手紙U」 九章
 それぞれの手紙が、いつどのような状況で書かれたのかについては、後でそれぞれの手紙を扱うところで詳しく見ることになりますが、この時期のパウロの執筆活動をまとめるために、概観しておきましょう。
 コリントへ第一書簡を送った後、コリント集会の状況は急激に変わったようです。第一書簡執筆の前後に派遣したテモテが、エフェソに戻ってきてパウロに報告したコリントの状況はパウロを驚かせました。最近巡回してきた伝道者たちがパウロの使徒としての資格を問題にして、公然とパウロを批判し非難しているというのです。その非難の中には、パウロが熱心に進めているエルサレム教団への募金も実はパウロの私腹を肥やすためであるという中傷も含まれていたのです。第一書簡で取り上げていたお互いの間の争い(コリントT一・一一〜一二)とは違い、コリントの集会全体が公然とパウロ批判に傾き、パウロから離れる危険があるというのです。
 コリントでパウロを非難した伝道者たち(「パウロの論敵」と言われる人たち)がどのような立場とか信仰の人たちであったかについては、近年熱い議論が続いています。本講解ではこの議論に深入りすることはできませんので、彼らとの論争においてパウロが触れている箇所で彼らの姿を推察するに止め、ここではその論争に現れているパウロの福音理解に焦点を絞って見ていきたいと思います。ただ一点だけ指摘しておくと、第二書簡の「論敵」は、第一書簡でパウロが論争した相手とは違う人たちであったと考えられます。第二書簡では、「論敵」はパウロの使徒としての資格そのものを問題としており、パウロは自分がキリストの使徒であることを弁証するために力を注がなければなりませんでした。これは第一書簡にはない状況です。彼らは最近外からコリントへ入ってきて、反パウロの活動を始めた「働き人」(伝道者)と考えられます。
 この危険に対処するために、とりあえずパウロは手紙を書きます。それが手紙A「最初の弁明」です。この手紙は元のままの形では残されていませんが、第二書簡の中に組み込まれて伝えられています。すなわち、第二書簡の二章一四節から七章四節の部分です(ただし六章一四節から七章一節は除きます)。もともと独立の手紙として初めの挨拶や結びがあったのでしょうが、他の手紙に組み込まれるにさいして省略され、本体の部分だけが残っていると見られます。この手紙は、第一書簡のしばらく後、おそらく五四年中にエフェソで書かれたものでしょう。この手紙には「キリストの福音の使徒」としてのパウロの姿が生き生きと描かれており、その中に福音の現実が溢れ出ています。
 しかし、この手紙は期待したような成果を上げず、コリントの状況はますます悪くなり、パウロはマケドニア経由で陸路コリントへ行く計画を変更して、(おそらく海路で)急遽コリントへ自らが直接乗り込むことになります。この訪問は使徒言行録では触れられていませんが、パウロ自身のコリント滞在の回数の数え方(コリントU一二・一四、一三・一〜二)からして、最初に福音を携えてコリントで働いた時と、最後に献金を準備してエルサレムに旅立つ前に冬を過ごしたパウロが「三度目」と言っている滞在の間に、「二度目の滞在」がなければならないことになります。
 このごく短い「中間訪問」は、パウロにとって惨めな結果に終わったようで、エフェソに帰ってきてからパウロは自分の使徒職について弁明する激しい調子の手紙を書きます。それが手紙B(一〇〜一三章)です。この手紙が、後でパウロが「わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました」(コリントU二・四)と言っている手紙、いわゆる「涙の手紙」であると考えられます(二・四の「涙の手紙」は一〇〜一三章とは別の手紙であるとする反対説もあります)。
 コリントでの「二度目の滞在」で悲しい思いをして、深く傷ついてエフェソに帰ってきたパウロは、どうにかしてコリント集会の支持を回復しようとして「涙の手紙」を書きます。手紙だけでは十分ではないと感じたパウロは、事態を収拾するために信頼する同労者テトスをコリントに派遣します(テトスが「涙の手紙」を携えてコリントに行ったのかどうかは確定できませんが可能性はあります)。 
 パウロはテトスからの報告を期待と不安の気持ちで待ちわびていたのでしょう。少しでも早く報告に接することができるように、エフェソを出て北に向かい、トロアスでキリストの福音を伝える活動を続けます。トロアスでのパウロの活動は順調に進みますが、コリントからの報告を携えてくることを期待していたテトスがなかなか到着しないので、不安にかられてパウロはトロアスでの働きを途中で切り上げるようにして対岸のマケドニアに渡ります(コリントU二・一二〜一三)。コリントからマケドニア経由でトロアスに向かうことになっているテトスに、一日でも早く会うためです。このような行動に、パウロがコリント集会の問題にどれほど深く心を痛めていたかがうかがわれます。
 マケドニア州に着いたときの状況について、パウロ自身がこう言っています。「マケドニア州に着いたとき、わたしたちの身には、全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです」(コリントU七・五)。外にはパウロの宣教活動の成果を覆そうとする勢力との戦い、内にはコリント集会を、ひいては異邦人伝道の成果を失うのではないかという恐れにより、身には安らぎがなく、ことごとに苦しんでいたのです。
 ところが、テトスが吉報を携えて来ました。コリント集会は今やパウロへの信頼を回復し、これまでの態度を悔い改めたというのです。パウロがテトスと再会したのはマケドニア州のどこであるのかは確定できませんが、おそらくフィリピとかテサロニケというような、パウロが建てた集会がある都市だったのでしょう。パウロはそれまでの不安と恐れが深かっただけに、このテトスがもたらした報せによって受けた喜びは大きく、慰めもまた深いものでした(コリントU七・六〜七)。こうしてパウロはコリント集会との和解を喜ぶ手紙を書きます。それが手紙C「和解の手紙」です。この「和解の手紙」がテトスと再会したマケドニアで書かれたのか、またはエフェソに帰ってから書かれたのか、研究者の説は分かれています。もしエフェソから出てトロアスで働き、マケドニアに渡ったのが騒乱事件で投獄され追放処分にされた結果であれば、テトスと会った後、エフェソに帰ることはできないのですから、この手紙はマケドニアで書かれたことになります。そうすると、エフェソの獄中で書かれたフィリピ書とフィレモン書より後の執筆となり、五五年頃と見てよいでしょう。本書では、手紙C、D、Eはフィリピ書とフィレモン書より後に取り上げます。

この「和解の手紙」は現在の「コリント信徒への手紙U」の一章一節〜二章一三節と七章五節〜一六節、および一三章一一〜一三節の結びの挨拶に保存されていると見られます。現在の「コリント信徒への手紙U」は、この「和解の手紙」を枠として、その中に他の機会に書かれた手紙を組み入れて編集されたものと見られます。二章一三節と七章五節は自然に続いており、それを裂くように「最初の弁明」の手紙が挿入されたのはどういう意図によるのかは説明困難な問題です。ここでは「錯簡」(コーデックスを綴じるときに頁を間違えて綴じること)を推定しなければならないのかもしれません。六章一四節から七章一節については当該箇所で扱います。   

 おそらくこの「和解の手紙」が書かれた前後に、エルサレム教団への献金を集めておくようにという「募金の手紙」(八〜九章)が書かれます。それが手紙DとEです。そこにはもはやあの「涙の手紙」(一〇〜一三章)に見られた激しい感情的対立はなく、穏やかな雰囲気で献金の励ましがなされています。八章と九章が別の手紙であるか、それとも一つの手紙であるかは争われています。いずれにせよ、この「募金の手紙」は、コリント集会との和解が成立した後に書かれていますから、おそらくマケドニアで五五年の終わり頃、越冬のためにコリントに到着する直前に書かれたものと見られます。「和解の手紙」の一部であったと見ることも可能です。いずれにせよ「和解の手紙」の結びとして最後に置かれることになります。

フィリピ書

 先に見たように、パウロはエフェソで投獄されたと見なければなりませんが、その獄中で書かれた手紙の一つがフィリピ書です。フィリピ書を一つの書簡と見る伝統的な見方は、現在でも多くの研究者によって支持されています。しかし、三章一節で「最後に、兄弟たちよ、主にあって喜びなさい」と言った後、二節から始まるユダヤ主義者への激しい非難(三章二節〜四章一節)は、それまでの文と内容も調子も違い、別の機会に書かれた手紙であることを示唆しています。それで、フィリピ書は二つの書簡が集められたものであるという見方がされるようになりました。
 さらに、四章一〇〜二〇節でフィリピからの援助の贈り物を感謝している部分も、もともとは独立した手紙であったと見られるようになり、フィリピ書は三つの手紙が編集されたものであるという見方が、最近では有力になってきています(たとえば岩波版青野訳)。ただ、ユダヤ主義者への非難と贈り物への感謝を主題としたそれぞれ別の手紙があり、それが獄中からの書簡に組み込まれて現在のフィリピ書が構成されたとしても、この三つの手紙の範囲(現在の手紙のどの部分がそれぞれの手紙に属するのかの問題)やその順序については、研究者の間で相違があり、現在も議論が続いています。おそらく贈り物への感謝の手紙とユダヤ主義者に対する警告の手紙は投獄前に書かれたものと考えられます。

フィレモン書

 エフェソで投獄されていたときに、コロサイのフィレモン家の奴隷であるオネシモがパウロを訪ねてきます。自分の不始末で主人フィレモンに損害を与えたので、主人が尊敬している師であるパウロに執り成しを頼みに来たのです。オネシモを獄中のパウロのところに連れてきたのは、おそらくエパフラスであろうと考えられます。オネシモはパウロに溢れるキリストの恩恵の世界に接して、キリストを信じる者となります。パウロは獄中で回心に導いた青年オネシモを見込んで、彼の主人にオネシモを自分の手元に置くことを許してくれるように、獄中から依頼の手紙を書きます。それがフィレモン書です。パウロがこの手紙でフィレモンに何を頼んでいるのか、また、このような個人的な手紙がなぜ新約聖書正典の中に入れられているのかという問題は、この書の講解で詳しく扱うことになりますが、この書の存在はパウロのエフェソでの投獄を示すもっとも確実な根拠です。

パウロ書簡集の成立

 以上エフェソでのパウロの活動を概観してきましたが、エフェソはアジア州の宣教の拠点となっただけでなく、それまでにパウロが設立した他の地域の諸集会への牧会的活動の拠点ともなり、そのための書簡が数多くエフェソで書かれることになります。その書簡は宛先の集会に送られますが、その写しがエフェソに残されたことと推察されます。エフェソを去ってから直後に書かれたローマ書も、パウロが活動拠点と考えているエフェソにその写しが送られたと見るのが自然です。こうして、エフェソはパウロ書簡をもっとも多く保持する土地となります。そしてパウロ没後に、パウロの教えを保持して伝えるために、パウロの書簡を集めて「パウロ書簡集」を収集する動きが出てきたとき、その活動の中心地がエフェソであったことは十分推察することができます。
 パウロの名で書かれたコロサイ書、エフェソ書、テサロニケ第二書簡の三書は、パウロ以後の時代にエフェソを中心とするアジア州で成立したことも確実ですので、パウロ自身が書いたことが確実な以上の七書簡と合わせて、十書簡から成る「パウロ書簡集」がエフェソで一世紀末から二世紀初頭にかけて成立していたと考えられます。牧会書簡(テモテへの手紙TとU、テトスへの手紙の三書簡)はそれより後の成立と見られます。二世紀前半に活躍したマルキオンが過激なパウロ主義者として、パウロ書簡集を自分たちの仲間の間で用いる聖書としたとき、(牧会書簡を含まない)この十書簡をパウロ書簡としています。
 エフェソにおける「パウロ書簡集」の成立については、後でフィレモン書を扱うとき、その「後日物語」として詳しく見ることになります。