市川喜一著作集 > 第8巻 教会の外のキリスト > 第27講

第W部 ローマ書による「新しい人間」 

第三講 神の霊によって生きる人間

律法の下にある人間

キリストの光に照らし出された人間

 ローマ書を書いたパウロという人は、キリストにぶつかり、キリストの光を身いっぱいに受けて、福音を世界に宣べ伝えた使徒です。だからパウロの語る人間の姿には、キリストの光がさんさんと注いでいて、そのキリストの光の中で練られた人間の姿です。それは決してキリストの中にある栄光の姿だけではなく、その光に照らし出された本来の人間の姿、「アダムにある」とパウロがよく言う、あの生まれながらの人間の姿もまた鮮明に描き出されていることになります。
 人間をどう理解するかについては、古来さまざまな宗教が教え、多くの智者賢者が探求して、哲学を構成してきました。わたしたちの身の回りにある仏教もそうであり、特に禅などは深く暝想し、その中で人間の本質をとらえようと努力してきました。しかしわたしたちには、神の霊によって照らし出された人間の姿が、このように使徒パウロの言葉を通して与えられているのですから、これを学び、これを自分というひとりの人間理解に体得していくことは、いかなる哲学や悟りにも優る知恵であると思います。これはパウロの思想を学ぶためではなく、人間というものを客観的に学ぶためでもなく、自分が真実に生きるために、人間として真実な生に達するために学ぶのです。それがなければ、一切のことは無益なことだと思われます。
 すでに見てきたように、すべての生まれながらの人間は神の怒りのもとにあるということを、パウロはローマ書一章十八節から三章二十節までで描き、そしてそれを五章十二節から十四節、七章五節などに要約しています。アダムにあってすべての人は罪の支配の下にある、その結果死の支配のもとにいる、ということをわたしたちは見てきました。

 「というのは、わたしたちが肉にあった時には、律法による罪の欲情が、死のために実を結ばせようとして、わたしたちの肢体のうちに働いていた」。(ローマ書七・五)

 パウロはこう言っていましたが、今度は自分の体験として、実はこういう体験をしたということで、アダムにある人間の姿を一人称で述べます。それが七章七節から七章の終わりまでの内容になります。この部分は大きく分けて七節から十三節までと、十四節以下の部分に分けられます。どちらも一人称で、「わたしは」という形で語られていますが、前半は皆過去形で語られており、こういうことを経験したという過去における体験を語っています。それに対して後半十四節以下は現在形であり、いま自分はこうであるということを語っています。

 「それでは、わたしたちは、なんと言おうか。律法は罪なのか。断じてそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。しかるに、罪は戒めによって機会を捕らえ、わたしの内に働いて、あらゆるむさぼりを起こさせた。すなわち律法がなかったら、罪は死んでいるのである。わたしはかっては、律法なしに生きていたが、戒めが来るに及んで、罪は生き返り、わたしは死んだ。そして生命に導くべき戒めそのものが、かえってわたしを死に導いて行くことがわかった。なぜなら、罪は戒めによって機会を捕らえ、わたしを欺き、戒めによってわたしを殺したからである。このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである。では、善なるものが、わたしにとって死となったのか。断じてそうではない。それはむしろ、罪の罪たることが現れるための、罪のしわざである。すなわち、罪は、戒めによって、はなはだしく悪性なものとなるために、善なるものによってわたしを死に至らせたのである」。(ローマ書七・七〜十三)

 いままでパウロが律法というものをとりあげるときに、その律法の支配下にあるということは恩寵の支配下にあるということと対立して、人間が神の怒りのもとにあって罪に定められ、死に定められているという世界の姿であると語っていました。それで律法というのは罪や死の仲間のような悪いもののように感じられて、律法は罪なのかという反論が起こってきます。それに対してパウロは断じてそうではないと言います。律法は神からのものであって、聖なるものであり、善なるものである。しかしこの聖なる、善なる律法が自分にとって死をもたらすという結果を生んでいるところに、生まれながらの人間を支配している罪というものの力の悪質さがあらわになっているとパウロは言うのです。
 こういう受けとりかたも、実はパウロの内面がキリストの光によって照らし出されているからはっきりできるのです。パウロという人は、フィリピ人への手紙にもあるように、ファリサイ人として律法に熱心なときには確信をもってそれに励んでいました。ところが、そういう確信がいかに人を欺くものであるかということを、パウロは明確に知らされることになります。キリストの光が射すときに、このような律法の行為がかえってその人の傲慢、神に対する高ぶりをますます深くして、その人を死へと追いやっていくということをパウロは知らされたのです。
 世間の人と話しをしていると、自分がいかに道徳的かという言葉は使わないけれども、自分はちゃんとした生活をし、ちゃんとした考えをもち、立派な行為をして人を援け、良い業をしているということを自信をもって語る人がよくあります。そのような人は、その立派さがかえって自分を死に追いやっているなどということは毛頭考え至らないものです。自分はこれだけ立派に生活しているのだから自分は正しいという自信だけがあります。しかし、自分は正しいというこの自信こそ、実は神の前に立つ時にいちばん嫌われるものなのです。そういう意味で、世間からつまはじきされていたあの取税人のほうが、神の前に顔も上げることができない者と自覚して、ただ神の憐れみによってのみ生きていくことができるという砕かれた心を持っていました。そういう砕かれた心こそ、神がいちばん喜ばれるものなのです。ファリサイ人としてのパウロは、自分の義しさの自信のゆえに神に対して深い罪に陥り、そしてその結果魂は死んでいくということになったのです。そのことをパウロは自分の告白として述べています。

 「しかるに、罪は戒めによって機会を捕らえ、わたしのうちに働いて、あらゆるむさぼりを起こさせた。すなわち、律法がなかったら、罪は死んでいるのである。わたしはかっては、律法なしに生きていたが、戒めが来るに及んで、罪は生き返り、わたしは死んだ」。(ローマ書七・八〜一〇)

 律法がなかったら、律法に従っているからわたしは正しいという高ぶりもまたなかったでしょう。もっと無邪気に神との交流の中に生きることができたかもしれません。ところが律法が来たために、自分はこれで正しいという高ぶりが強くなっていき、罪はその本性を現していくのです。その結果魂は死んでしまうことになります。不思議なことに、本来人を導いて生命に至らせるために与えられている律法が、かえって人を傲慢で頑(かたく)なな魂にして死に至らせてしまうのです。ここに、罪というものの質がいかに神に反するものであるか、その悪質さが顕(あら)わになっているのです。パウロは律法を頼りにして生きようとした自分の体験から、罪が律法を足掛かりにして自分をこのような頑(かたく)なさへと陥れたと告白しています。この言葉の解釈というか、パウロが正確に何を言おうとしたかについてはじつに様々な議論がなされていますが、要するに、律法に出会ったパウロの体験を語ることで、罪というものの本性と、キリストにあるという恩寵の外にいる人間がどういう結果になるのかということを改めて明確にしてくれているのです。

人間本性の矛盾

 十四節以下は動詞は現在形になり、現在の自分のことを語っています。

 「わたしたちは、律法は霊的なものであると知っている。しかし、わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである。わたしは自分のしていることがわからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎むことをしているからである」。(ローマ書七・一四〜一五)

 律法は正しいものであり、霊的なものです。それにもかかわらず、こういう結果になるのは、わたしが肉に属する者であって、罪の支配下に奴隷のように従わせられている結果、このような結末になってしまうのです。肉に属する者は、生まれながらの本性として、神の生命の質とは反したものになっているのです。どうしてそうなったのかというと、聖書の啓示によれば、アダムの神への背きがすべての人間の背きを代表しており、それが人間本性になってしまっているということです。個々の行為というのは、悪かったと思って悔い改めれば済むかもしれない。しかし人間の性質として、それがずっと繰り返し続くと、それがその人の性格になってしまうものです。アダムが神から禁じられていた善悪を知る木の実を取って食べたことは、自ら神になろうとする傲慢の行為であったが、それはただ一つの行為であり、それはまた悔い改めることができたかもしれない。しかし人類そのものの在り方を始めから現在に至るまで見るとき、もうそれは個々の行為ではなくなっています。人類そのものの本性、性質になってしまっている。そういう状態が肉に属する者の状態であり、その結果、罪という神に背く力の支配下に置かれてしまってどうにもならない状態になっています。肉に属する者というのは、「自分の欲することを行わず、自分の憎むことを行う」のです。自分は善を欲しているのだけれども、善を行うことができないという矛盾です。

 「わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている」。
(ローマ書七・一八〜一九)

 パウロはキリストの光を既に知っているのですが、その光によって外側の自分、アダムにある自分の姿というものがよく見えてきます。確かに人間は善が何であるかを知り、欲しています。ところが実際の人間の生活と行いは、欲している善ではなくて、かえってこれは自分としてはすべきではないと思っているような、憎んでいることを行ってしまっています。こういうことが生まれながらの人間の本性になってしまっています。そういう状態にあることを肉に属するとか、罪の下にいるとか、あるいはさらに肢体に存在する罪の法則の中にとりこになっているとか言い、さまざまな表現でパウロはこの人間存在の矛盾を語ることになるのです。
 肢体というのは人間の手足とか肉体のことですが、この肉体のなかに罪の法則が存在してわたしをとりこにしている、と言っています。そうすると、肉体を動かしている法則、例えば食べたいというのは肉体の必然的な要求であり、そのほか肉体が要求する自然の要求に従うことが、罪の法則に囚われていることかという疑問が起こってきます。しかし、そういうことはありえません。人間としての本性的な欲求に従うことが即ち罪であるならば、人間は存在しえません。食べることや、眠ることや、男女の営みをすることが罪であるならば、人間は生き続けることができません。ところが、パウロが「肢体に存在する罪の法則」と言うときには、そういう人間の本来の欲望に従うことが、あくまでも自分のためにそれを満たすことだけが原理になって、そのために神の生命の質である愛、他者への思いやり、いたわりというものを無視してでも自分の欲求の充足に走ってしまう、そういう本能的な行動原理を罪と言っているのです。そういう本能的な欲求には何ら神の欲し給うところに従わせる力は無い。肉に属する人間はどうしても、自分の内にある欲求に従うことを基本原理として生きるから、理性では神の求め給う律法が善であるということを認めながらも、実際にすることは自分の欲求の充足を第一にしてしまいます。パウロはそのことを法則という言葉で表しているのです。

 「すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」。(ローマ書七・二二〜二四)

 このように生まれながらの人間は神から離れているために、その存在が死に支配され、このからだも死に定められてしまっています。そういうからだを背負ってわたしたちは生きているのです。「なんというみじめな人間なのだろう。だれがこの死のからだから、わたしを救ってくれるだろう」という叫びは、生まれながらの人間の奥底から起こってくる叫びです。この叫びが神に聞かれ、イエス・キリストによって解決が与えられることになるのです。

 「わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである」。(ローマ書七・二五)

 この呻きを述べたパウロは、この解決がキリストにおいて与えられているということを知っているので、その神のわざを賛美し、もう一度自分の姿に戻って、改めて要約しています。こういう人間の矛盾した姿というのは、キリストの光に照らし出されて非常に明確になってきます。キリストの光を受けるまでは、そういう罪の律法に仕えているという事実がありながら、本人はそれを十分に自覚していないのです。丁度病気が自覚されて、始めて処置や治療が行われるように、本人が自分の病気を自覚しないで、これで当たり前だと思っている限り、治療は始まりません。キリストにあるという場がなかったら、生まれながらの人間のままだけという世界では、人間存在のみじめさや矛盾といったものが深刻に照らし出されません。その結果、それで良い、人間とはこういうものだというその枠内でしか人間の問題も考えられないし、解決も出てきません。しかし、ひとたびキリストの光に照らし出されると、生まれながらの人間というのはいかに深く神への不従順の中にいるか、このままでは本当に死の支配の中で滅びてしまうことが見えてきます。
 このローマ書の中の、「わたし」とは一体だれかということがいつも大問題になるのですが、直接的にはパウロを指しますが、パウロはなぜ自分の体験として語るのかというと、パウロは自分が律法に出会ったときの体験と、現在の自分のキリストの光を見せられている姿とを差し出すことによって、人間そのものの姿、人類そのものの姿を描写しているのです。だから、これはパウロの告白という形をとりながら、実はキリストの光に照らし出されたパウロの人間論ということになっています。このように人間の呻きを照らし出すキリストの光は、同時にわたしたちを救う神の力でもあるのです。いつものようにパウロはどういうしくみで、こういう矛盾した人間が救われるのかということを丁寧に描写しないで、突然に別の世界が目の前に開けてくるように、人間の救いを語ります。。

御霊による解放

御霊による罪と死の支配からの解放

 「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである」。
(ローマ書八・一〜二)

 この最初の言葉の「こういうわけで」は、軽い言葉で「さて」というくらいの意味で、「さて今や」という感じです。キリストが復活されて、神の支配が新しい形で地上に臨んだ今は、キリストにあって今までと全く違った法則が働いているということをパウロは示しています。これは人の計画でだんだんと世の中が良くなるというようなことであれば説明ができるが、そうではない。神が約束に基づいて、終わりの時ついに、救い主キリストをこの世に送って、この方の十字架によってわたしたちの罪の贖いをなし、死の支配とは別の新しい支配、神の支配が直接人間を支配するという新しい時代をもたらされたのです。そのキリストにあって今やこういう事態が始まっているということをパウロは突如述べます。この転換こそ福音の要めの点です。
 「今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない」。いままでパウロが述べたアダムにある人間の姿は皆同じです。わたしたちも同じです。生まれながらの人間の本性はいつも同じであり、変わりません。そういう罪に定められた人間でありながら、もしその人がキリストにあるならば、復活されたイエスを信じ、その中に自分を置くならば、矛盾した人間であるにもかかわらず、神はもうその人を断罪されない。なぜなら、「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放した」からです。
 「アダムにある」という場所においては罪と死の法則が人間を支配していて、いくら努力しても逃れられない奴隷の状態にあります。ところが「キリストにあって」は恩寵が支配していて、神が無条件に注いでくださる恩寵によって、「キリストにある」という場には新しいエネルギーが働いているのです。そのエネルギー、力は神の生命です。具体的には、キリストにある者には、神は御自身の御霊を注ぎ、御霊をもって働かれるというかたちでそのエネルギーは働きます。キリストにおいては生命の御霊、神の生命そのものである御霊が働くのです。わたしたちはこの世に生まれたときからアダムにある人間の本性を背負っていますが、そのわたしたちがキリストの福音を聞いて、復活されたキリストを信じてその中に自分を投げ入れ、キリストの中に働く法則に自分を委ねる。そうすると神は無条件にその恩寵によって約束の御霊を与え、御霊によってその人の内に新しいわざをなしてくださいます。御霊には固有の働き方というものがあります。それが御霊の法則というものです。わたしたちがこの御霊の法則の中にいるときに、わたしたちを捕らえていた罪と死の法則からすでに解き放たれているのです。
 キリストにある者も、外なる旧い人においてはアダムにあるが、アダムにある者を支配している法則から解放されて、今は別の法則、生命の御霊の法則の中で生きています。人間はそのどちらの法則に身を委ねるか、人間である限り自由が残されている。だからパウロは繰り返し、肉に従わないで、御霊に従って歩くように勧告するのです。

肉と霊

 「律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げてくださった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである」。(ローマ書八・三〜四)

 アダムにある旧い人間の特色は、パウロが肉と呼んでいる性質です。肉は本性的に神に反する自己中心の性質であるから、いくら神の聖なる律法がきても、律法は本来の目的、すなわち神が願っておられたような人間の姿を形成することができませんでした。そのできなかったことを、神御自身がなしてくださったのです。それは、キリストにおいて肉にある罪の責任を処理した上で、こんどはキリストにある者の中に御自身の霊を、御霊を送って、この御霊によって人間が神の欲し給う姿を実現することができるようにしてくださったのです。この神が欲し給う姿ということが、律法の要求ということです。本来神が求めておられたところを、御霊の力によって人間が実現することができるようにしてくださったのです。
 ここでキリストにあって賜る霊と、人間の生まれながらの本性、肉との対比が主題になっています。人間は本来は肉に従って生きる者である。それがあまりもろに出ると人間の社会が成り立たないので、法律とか道徳とかいうものが枠をはめて、肉の願いがあまりもろに出ないようにコントロールして、なんとか人間が一緒に生きていくことができるようにしているのですが、その中身まで探ってみれば、結局は旧い人間の我欲のぶつかりあいの世界です。ところが、復活されたキリストに属する者には、神御自身の霊を与えて、全く違う原理で生きるようにしてくださっているのです。

 「なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。 肉の思いは死であるが、霊の思いはいのちと平安とである。なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。」。(ローマ書八・五〜七)

 ここで生まれながらの本性、肉に従って生きる人間と、キリストにあって受けた神の御霊、霊に従って生きる人間との姿が見事に対比されています。たしかにわたしたちは生まれながらの人間としては、肉に属する者であるけれども、もしわたしたちがキリストの福音を信じて、その結果神の御霊を受けてそれを内に宿しているなら、もうわたしたちはこの肉の次元にいるのではなく、霊の次元にいるのです。もしも神からの霊、キリストの霊をもたない人がいるなら、その人はどんなに教会生活が長く、聖書の知識に通じていようとも、ほんとうはキリストに属する者ではない、とパウロは言っています。これは現代の教会にとって非常に重大な宣言です。本当に人をキリストに属する者にするのは、その人の内に与えられ、宿っている神の御霊なのです。

キリストを復活させた方の御霊

 「肉にある者は、神を喜ばせることができない。しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。もしイエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう」。
(ローマ書八・八〜一一)

 今回の講義では人間を「アダムにある人間」と「キリストにある人間」という二つの面から見てきました。「アダムにある人間」とは生まれながらのままの本性的な人間のことですが、「キリストにある人間」は信仰によってキリストに結ばれて生きる人間です。そしてここで、「キリストに属する人間」とは実質的には「キリストの霊を持つ」人間であることが明白に語られています。ここで「神の霊が内に宿っている」、「キリストの霊を持っている」、「キリストが内におられる」という表現が同じ一つの事実を表すのに用いられていることが注目されます。神がキリストにおいて決定的に御自身を啓示された今、神の霊はキリストの霊として信じる者の中に宿られます。そしてキリストの霊が内に宿ることはキリスト御自身が内におられることになります。この事実がなければ、外はどのようにキリスト教的な生活をしていようと、その人は「キリストにある人間」ではないことになります。ここで語られている事柄とは無縁の世界の人です。
 現実の人間はみな「アダムにある人間」であって、神からの離反という罪のために死ぬべきからだの中にあり、死を超える力を内に持っていません。そのような現実の中に神の霊、キリストの霊が宿ってくださるのです。その霊によって現実にキリストに結ばれて一つにされている者は、キリストの義をもって神に受け入れられ、神のいのちを生きるのです。死の現実のただ中に、死を超える神の生命が生き始めるのです。それは復活の生命です。神はすでにその霊をもってイエスを死人の中から復活させました。イエスを復活させた方の霊が信じる者の中に働いているのですから、その方はわたしたちの死に定められたからだをも生かして復活に至らせてくださることを信じることができるのです。
 十一節の言葉は、理解の仕方が様々考えられますが、もしもわたしたちが神の霊を宿し、その霊に従って生きているならば、その霊はイエスを復活させた霊であるから、わたしたちの死ぬべきからだをも生かしてくださる、とパウロは言っています。この死ぬべきからだを生かすということが、いわゆる復活を指すのか、あるいはそれ以前のからだに対する神の力強い働きを指すのかは問題ですが、いずれにしてもつきつめていけば復活に至らざるをえないと思います。わたしたちのこの弱いからだは御霊によって生きている限り、御霊の力がこの死ぬべきからだに働いて、その働きをなすのにふさわしく強めたり、癒したりすると考えることができます。

神の子として生きる人間

御霊に従って生きる責任

 「それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは果たすべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。なぜなら、もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬほかはないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう」。
(ローマ書八・一二〜一三)

 人間は生まれてきた以上、自分の生きざまに対して責任があります。普通には人間の生きざまはたいてい「肉」の範囲内のこと、すなわち人間の生まれながらの本性を完成しようとするものです。キリストに属する者はそういう責任はありません。これだけの学問や教養を積まなければならないという責任も、こういう主義に生きなければならないという責任もありません。わたしたちキリストにある者に与えられている責任はただ一つ、御霊を与えてくださった方に対して、御霊に従って生きるという責任だけです。
 もし生まれながらの本性の範囲内で充実した立派な人生を全うしても、その人間本性からは死を超える生命は出てこないのですから、結局は一切が死で終わることになります。真実の生命、死を超える生命に生きるためには、神の御霊の命を生きるようにしなければなりません。御霊に従って生きることによって、御霊に対立するからだの働きを克服していくことが必要です。「からだの働きを殺す」というのは、食欲や性欲や睡眠欲などの人間の本来の欲望を殺すという意味ではありません。神は他者への思い遣りや慈愛でもって生きていくように求めておられるので、そういうからだの中にある欲求が自分本位の欲望として現れようとするのを、御霊に従って生きることによって克服していくことです。そのように御霊に従って生きる者が神の子と呼ばれるのです。

子たる身分を授ける霊

 「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは『アッバ、父よ』と呼ぶのである」。(ローマ書八・一四〜一五)

 子というのは親と同じ質の生命に生きる者のことです。先に見たように、人間の生まれながらの本性は神の法を満たすことはできません。御霊に従うときにはじめて、神の法を満たすことができます。それは、神がこのように命じておられるから、自分がそれをするというのではなくて、内にある御霊がそれを願わせ、それを行わせる力となっているのです。すなわち、キリストにある者は、この法を与えられた方と同じ質の生命をもっているのだから、自分の内にある生命そのものが法になっているのです。そこに自由があります。「子は自由である」のです。
 法とか規範が外から与えられる限り、何らかの意味でわたしたちを拘束するものです。ところがもし、わたしたちの中から発するものが法そのものであるならば、わたしたちはもはや外から何の支配も拘束も受けません。内から発する力だけに導かれて生きるようになります。これが神の子の自由です。奴隷は自分の意志に反して、外からの命令に従って行動しなければなりません。神の霊をもたず、肉に従って生きていながら、しかも神の法を厳しく実行しようとすればするほど、外から拘束されているという状態は強くなります。イスラエルはそういう状態に陥っていました。しかし今はキリストにあって新しい支配が始まっているのです。御霊によって内からの力をもって神の法を満たす事態が始まっています。それが神の子が生きる現実です。
 キリストにある者は御霊によって「アッバ、父よ」と、子が親を信頼する以上の信頼をもって、神に向かって祈り、叫びます。そうしないでおれない姿に、彼が子として生きていることが現れています。こうして御霊もこのような祈りに生きる者が神の子であることを証ししてくださるのです。

神の相続人

 「もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである」。(ローマ書八・一七)

 キリストは神の最終的な資産を既に受け継がれました。それがすなわち復活です。神は最終的に、自分が造られた人間を御自身の栄光に与らせることを目的としておられます。その神の栄光に与った人間の姿が、復活した人間です。イエスお一人が初穂としてこの栄光に与られました。朽つべき身体を脱ぎ捨てて、新しい霊のからだを受けて復活されたのです。これは、終わりのときに現される神の総資産をすでに受け継がれたことを意味します。
 よくイエスの説教の中にも、「地を継ぐ」という表現が出てきますが、あれは旧約の伝統的な概念です。むかしイスラエルの民がカナンの地に入ったときに、各部族は「おまえにはこの土地を与える」という約束を受け、約束どおりにその土地を受け継ぎました。それは一つの型であって、神が終わりの日に与えると約束された最終的な栄光を神の民が受け継ぐことを指し示しているのです。その約束の中身は復活です。復活のからだをもって人間が神の栄光に与るという事態です。それをキリストはまず受け継がれたのです。キリストに属する者は、地上でキリストと一体の者として扱われ、キリストの苦難と辱めを受けていますが、それはキリストとの共同相続人として同じ資産、すなわち復活の栄光を一緒に受け継ぐ者であることと表裏一体のことなのです。

神の子の希望

やがて現される栄光

 「わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。被造物は、実に切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる」。
(ローマ書八・一八〜一九)

 ここで「現される」という動詞、「出現」という名詞が使われています。これは《アポカリュプトー》という動詞、または《アポカリュプシス》という名詞ですが、これは隠れていたものが現れるという意味ですから、わたしはこの意味を明確にするために「顕現」という言葉を使ったほうが良いと思います。「やがてわたしたちに現されようとする栄光」とは「神の子の顕現」と同じことです。神の子であるという現実はすでに始まっているけれども、現在はこの本性的な身体の中に隠されています。神の子が顕現するというのは具体的には復活であり、キリストに属する者が「霊の身体」を与えられて、本当の姿が十全に現れ出ることです。霊の身体を与えられて復活するときに、復活されたキリストと同じ次元の者になるのですから、そのとき始めてわたしたちは復活されたキリストと顔と顔を合わせて相まみえることになります。
 このことは言葉を換えれば、今はわたしたちから離れておられるキリストがそのときにわたしたちのところに来てくださるのだとも理解されます。こういう角度から表現したものがキリストの「パルーシア」(来臨)です。「パルーシア」というのは本来王などの権威のある者がある場所に臨むときなどに用いる言葉です。キリストは十字架につけられ世界から取り去られたが、やがて全世界を支配する王としてこの世界に臨んでくださる。これが「来臨」という言葉の意味です。それに対して「顕現」という言葉がキリストに関して使われるときは、キリストはいまは復活して天に上げられ、人の目には隠されているが、そのキリストがやがてその権威を顕(あら)わにして世界に臨まれる時が来る、これが「顕現」です。こういう出来事を教会の用語では「再臨」といいます。再臨という言葉自体は新約聖書にはありません。顕現とか来臨とかいう出来事が、ひとたびナザレ人イエスとしてこの地上に現れ給うたキリストを前提として表現されると、二度目の来臨になるということで「再臨」という言葉が使われるようになりました。。
 パウロは福音の非常に基本的なことを述べているこの箇所で、このキリストの「来臨」に触れていません。どうしてこんな大切な真理に触れないのか。それは、パウロはあくまで人間に即して福音の真理を語っているので、人間の側からキリストの再臨の出来事を見ているからです。神の子が顕現するということは、神の子の立場から見ればキリストに出会うことなのです。わたしたちはいま神の子として神の生命を内に宿していますが、それは土に属する死の身体の中に隠されています。それが覆いが取り除かれて現れる時がくる。やがて新しい霊の身体を与えられるときに、栄光の姿がもはや隠れることなく、顕わな形で現れてくる。その時は復活されたキリストと同じ次元の存在ですから、キリストと会うことになります。
 このように人間の側からキリストの来臨が語られています。この時は単にわたしたちの個人的な栄光の顕現の時ではなく、その時には全宇宙が神の子たちの栄光にふさわしく、神の栄光を映す状態に変えられます。全宇宙がその時を呻きながら待ち望んでいるのです。

宇宙的なうめき

 「なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである」。(ローマ書八・二〇〜二一)

 この自然界は目に見える美しさだけでなく、その背後に深い呻きをもっているとパウロは感じています。人間が「この死の身体から誰が救ってくれるだろうか」と自分の在り方について矛盾を感じているのと同じように、この宇宙の存在もまた、死の身体の中に閉じ込められているような呻きをしているのです。これもまた自分の意志でそうなっているのではなく、「服従させた者」によります。その「服従させた者」とは、その原因となった者という意味では、人間であると考えられます。人間が神に背いて生命を失い、死の支配に陥ったために、人間に委ねられているこの宇宙もまた死の支配に陥ってしまったのです。人間は開発した原子力を自分達の主義や欲望のために貯えていますが、これがもし使われれば、宇宙は人間の住みかとしては存在できなくなります。このように、人間のために宇宙は滅びのなわめ、死の暗闇の中に呻かざるを得ないような状況にあることが顕になってきています。だから自然界や宇宙が本来造られた栄光の姿に回復するためには、人間自身が栄光の姿で現れなくてはなりません。宇宙も人間が神の子として栄光のうちに現れる日を待ち望んでいるのです。人間が神の子として栄化されるならば、その支配下にある宇宙もまた神から造られたあの素晴らしい美しさの中で人間に仕え、人間の住まいとして栄光を与えられることになるのです。

 「実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる」。
(ローマ書八・二二〜二三)

 人間は死の身体から解放されることを待ち望んで呻いています。キリストにある者はそれを明確に理解しますが、外の人たちも実は心の内で、自覚しないままでそういう呻きをもっているのです。人間の矛盾というものを感じて、誰がこういう矛盾から、死すべき状態から解放してくれるだろうと魂の深いところで呻いているのです。その人間の呻きと一緒になって、自然界、宇宙もまた共に呻いています。その中にあって「御霊の最初の実を持っているわたしたち」キリスト者は、明確にその呻きの内容を知っています。そして「心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわちからだのあがなわれることを待ち望んでいる」のです。
 先に、御霊に導かれている者は神の子であると言いましたが、それは「誰が神の子であるか」の問題でした。ここで「子たる身分を授けられること」の内容が明らかにされます。「子たる身分」とは実にこの朽ちるべき身体に代えて朽ちることのない「霊の身体」を与えられ、復活した者として神の栄光に与る身分のことです。「神の子の身分」とはこれ以下のものではありません。今はなお、この古い人間本性の中に隠されているけれども、聖霊によってすでに「神の子の身分」はわたしたちの中に来ています。「御霊のはじめの実を持っている」わたしたちは、復活によってその身分が顕現することを待ち望んでいるのです。神の子の希望はこれ以下のものではありません。

救いの結果としての希望

 「わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうしてなお望む人があろうか。もしわたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである」。(ローマ書八・二四〜二五)

 先に見たように、「望みによって救われている」という訳は問題です。ここは「わたしたちは救われて、この望みを抱いている」と理解すべきです。その望みの内容は復活です。「復活」という事実は隠されている将来、「目に見えない」希望です。「見えない」というのは、すべての人間的理解を超えているということです。ふつう人間は自分が理解できる範囲内のことしか望むことはできませんが、そのような希望は死のこちら側だけの地上の希望にすぎません。わたしたちは死の向こう側の「見ない」ことを望んでいるのです。復活の希望は、人間に理解可能な根拠をあげて説明したり納得させることはできません。ただ神の約束とその背後にある神の信実だけに基づいて、内なる御霊の証に励まされ、人間的には何の根拠もない希望を人生の目標として生きているのです。「救われている」というのは、こういう「望みに生きる」生き方に結果するのです。
 時間がなくなったので、以下のところは簡単に触れて、終わります。このように人間的な根拠を持たない希望を人生の目標として生きる者は、全く別の価値観をもつこの世においては様々の困難に直面し、忍耐を尽くして生きることになります(二五節)。それだけでなく、自分の内面においても、ともすれば生まれながらの本性に引きずられやすい「弱いわたしたち」は、御霊の導きに従って「からだの働きを殺し」たり、「見えない」望みに生きることが困難に感じられる時があります。しかし心配することはありません。御霊ご自身が内にあって神の御旨にかなう執り成しをしてくださり、御旨に従って生きる力を与えて助けてくださるからです(二六〜二七節)。
 神の御計画はキリストを長子として、あらかじめ定められた者たちをキリストの像に完成することです。神は御旨をかならず成し遂げられます。神はその業を現実に着々と進めておられます。それで、将来の栄光の成就をも含めて、「神はあらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである」と、すでに為された業として一気に語られることになります(二八〜三〇節)。
 キリストにある者は知っています。この神の業を妨げるものはもはや何もありません。御子キリストはすでにわたしたちのために死に、復活して神の右に座し、わたしたちのために執り成して下さっています。このキリストにおける神の愛からわたしたちを引き離すものは何もない。神がわたしたちの味方です。わたしたちはキリストにあって、「わたしたちは勝ちえて余りがある」と勝利の凱歌をあげます(三一〜三九節)。

むすび

 今回は人間の救済を主題としているローマ書一〜八章を三回にわたって講じましたが、その際一貫して、使徒パウロが人間を「アダムにある」という場と「キリストにある」という場の対比において見ていることを理解の鍵としてきました。パウロ自身の言葉で要約すれば、「アダムにあってすべての人が死ぬように、キリストにあってすべての人が生かされるのである」となります(コリント人への第一の手紙一五・二二)。
 これがパウロの救済論の基本的な枠組みです。アダムがすべての生まれながらの人間を代表する頭(かしら)であるように、キリストは復活によって終わりの日に栄光の中に完成する人類の頭(かしら)となられたのです。「アダムにあって」、すなわち生まれながらの本性のままの人間はすべて死ぬのが現実であるのと同じく、「キリストにあって」、すなわち信仰によって復活者キリストと結ばれて生きる人間はすべて、神の生命に生きるのです。この「アダムにあって死ぬ」という事実と、「キリストにあって生きる」という事実がどのような内容であるのかが、このローマ書の箇所(一〜八章)に詳しく展開されることになるのです。
 前半(五章一一節まで)では、「アダムにあってすべての人は」、神の民であるユダヤ人を含めてすべて、神の怒りの下にあることが明らかにされ(一・一八〜三・二〇)、ただ信仰によってキリストに結びつけられることにより、キリストの中に成し遂げられた神の贖いの業に与り義とされることが示されます(三・二一〜五・一一)。「キリストにある」という場の外では、人間はすべて断罪されているのであるから、人をキリストに結びつける信仰だけが義とされる道であることが示されることになります。
 後半(五章一二節以下)では、信仰によってキリストと結びつけられた人間がどのような現実に生きるのかが語られます。まずここでアダムとキリストが、それぞれ古いアイオーンと新しいアイオーンとにおいて、全人類を代表する頭(かしら)であるという救済の基本的な枠組みが提示されます(五・一二〜二一)。続いて、「アダムにある」人間が律法の支配下にあって死に至る罪の僕になっている姿と対照して、「キリストにある」者は、神の恩恵の支配の下にあって罪に死に神に生きるものであることが語られ、「キリストに合わせられて生きる」奥義が、バプテスマや奴隷や結婚の比喩を用いて明らかにされます(六・一〜七・六)。最後にもう一度「アダムにある」人間の矛盾と悲惨が呻きをもって直視された後(七・七〜二五)、「キリストにあって」神の御霊によって解放され、御霊によって神の子とされて生きる人間の現実と希望が描かれます(八・一〜三〇)。こうしてキリストにある勝利の凱歌に至るのです(八・三一〜三九)。
 今やキリストにあって「新しい人間」が誕生しました。新しい人類が創造されたのです。

 「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなったのである」。(コリントU 五・一七)

(天旅 1988年6号、7号)