市川喜一著作集 > 第8巻 教会の外のキリスト > 第11講

第U部 神の民の歩み

1 神の賜物

賜物の約束

神の呼びかけとしての福音

 わたしたちはここで「キリストの福音」を宣べ伝えています。それは二千年ほど前、ユダヤ人たちが十字架につけて殺したひとりの同国人、ナザレ人イエスが死人の中より復活して天にあげられ、全世界の主とされ、すべての人の救い主となられたという報知です。この復活して今も生きたもう方をキリストと言います。福音とはこのキリストを宣べ伝える言葉です。
 この福音を聞いても、多くの人たちは無関心に通り過ぎて行きます。死人が復活するなんて信じられない、仮にそれが事実であったとしても、今の自分に何の関わりがあるのか、わたしは忙しいんだ、仕事や生活の厳しい現実が迫っている、そんなおとぎ話のようなものに関わっている暇はない、と心につぶやいて通り過ぎて行きます。
 待ってください。そんなに急いでどこへ行くのでしょうか。立ち止まって、福音の呼びかけの声に耳を傾けてください。この福音には大きな約束が伴っているのです。「福音を信じ、イエス・キリストのもとに来なさい。そうすれば聖霊という神の賜物を受ける」という約束です。福音は言葉です。しかし、それは二千年前の歴史上の事実を伝える情報の言葉ではありません。情報は人間が自分の利益のために、自分の判断で自由に取捨選択して利用することができます。福音は情報ではなく、愛する者への呼びかけの言葉なのです。福音は、あなたを存在させている方からの愛の呼びかけの声です。しかもその呼びかけは、人間にとって最も必要で重要なものを与えようという「大いなる喜びの音信」なのです。

神の賜物を知らない

 昔、預言者イザヤはこう叫びました。
 「さあ、かわいている者はみな水にきたれ。金のない者もきたれ。来て買い求めて食べよ。
 あなたがたは来て、金を出さずに、ただで葡萄酒と乳とを買い求めよ。
 なぜ、糧にもならないもののために金を費やし、飽きることもできぬもののために労するのか。
 わたしによく聞き従え。そうすれば、良い物を食べることができ、
   最も豊かな食物で自分を楽しませることができる。
 耳を傾け、わたしに来て聞け。そうすれば、あなたがたは生きることができる」。
(イザヤ書 五五章一〜三節)

 神は預言者を通してすべての人々に呼びかけておられるのです、「わたしの賜物を受けよ」と。わたしたちを存在させている方が、最も良い物を無代価で与えようと呼びかけておられるのです。ところが、わたしたちは神の賜物のことを理解せず、富とか地位とか、命の糧にはならぬ物を求めて苦労し、それが得られないと言って神を恨み、手にしてみたら案外空しいものであったと失望しているのです。
 イエスはサマリヤの女に言われました、「もしあなたが神の賜物のことを知り、また、『水を飲ませてくれ』と言った者が誰であるかを知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」(ヨハネ福音書四章一〇節)。世は神の賜物とは何であるかを知らず、またそれを誰に求めるべきかを知らず、空しい物のために労し、疲れ果てているのです。
 そしてさらに悪いことには、多くの場合、教会までも神の賜物のことを知らず、求めて来る人々にキリスト教的思想や行為への諸要求(戒律、律法)だけを与えて、神が信じる者に無代価、無条件で聖霊を与えてくださるのだという約束を語れなくなっているのです。

聖霊の賜物

父の約束

 エルサレムの神殿で大きな祭りがあり、大勢の人々が様々な願いをもってお参りに来ていました。その祭りの終りの大事な日に、イエスは群衆の前に立って、叫んで言われました、

 「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。これは、イエスを信じる人々が受ける御霊を指して言われたのです(ヨハネ福音書七章三七〜三九節)。

 わたしたちも、様々な欲望が渦巻く大都会の雑踏の中に立って叫んでいるのです、「だれでも魂に渇きをもつ者、悩み疲れて命に飢えている者は来なさい。この福音を信じ、復活して今も生きたもうイエスのもとに来なさい。そうすれば、聖霊という神の賜物を受けます。この聖霊こそ、人の生きる力、喜び、愛、希望の源泉、死にさえ打ち勝つ生命なのです」。
 神とはわたしたちを存在させている方のことです。わたしたち人間の父です。わたしたちも自分に子供ができて親になりますと、その子をこの世に存在させた者として責任を感じ、その子が生きていくのに必要な物を用意し、自分が与えうる最善のものを与えようとします。神もわたしたちに最善のものを与えようとしておられるのです。それは神御自身の霊、聖霊です。聖霊を与えることは神のみ旨であり、「父の約束」なのです。
 イエスはこう言っておられます、

 「求めよ、そうすれば与えられるであろう。捜せ、そうすれば見出すであろう。門をたたけ、そうすればあけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見出し、門をたたく者はあけてもらえるからである。あなたがたのうちで父である者は、その子が魚を求めるのに、魚の代りにへびを与えるだろうか。卵を求めるのに、さそりを与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めてくる者に聖霊を下さらないことがあろうか」(ルカ福音書一一章九〜一三節)。

恩恵の賜物

 「求めよ」と呼びかけ、「そうすれば与えられる」と約束し、その根拠として「すべて求める者は得るからである」とイエスは断言される。これは驚くべき言葉です。この世では、どれだけ懸命に求めても得られないのが普通です。値打ちのあるものほど代価は高く、条件は厳しいものです。ところが、神の御霊という最高のものが、すべて求める者に与えられるというのです。ここには何の条件もありません。全く無条件の世界です。
 どうして「すべて求める者は得る」というような絶対的な言い方ができるのでしょうか。それはイエスが神の恩恵の世界、無条件・絶対の世界に生き、そこから語っておられるからです。「天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」という世界です(マタイ福音書五章四五節)。
 この世は報酬の世界です。一定の働きや資格に対して、それに相当する報酬が与えられます。ところが、神が人に良き物を与えられるのは、それを受けるにふさわしい資格や功績が人にあるからではありません。神の霊を受けるにふさわしい清さは誰も持ちえません。それは賜物です。すなわち、受ける資格のない者に、何の働きもない者に、無代価で与えられるものです。それは神の恩恵の世界です。

神のいのちの世界

十字架と聖霊

 わたしたちは、資格がないどころか、神への反逆者であり、この根元的な罪のために死んでいる者なのです。神はこのようなわたしたちに御自身の命の御霊を与えて、神の命に生きる者にするために、罪の根を絶ち、罪の支配を終わらせる大手術をしてくださったのです。それがキリストの十字架です。罪なき神の御子キリストが、わたしたちすべての者の罪を負って、裁きを受け、十字架上に死なれたのです。これはキリストを信じ、彼と結ばれる者がその罪を赦され、約束の聖霊を受けることができるようになるためです。わたしたちが無代価で聖霊を受けるためには、神の御子の十字架が必要だったのです。聖霊の賜物を拒むことは、キリストの十字架を無駄にすることです。
 わたしの罪のために十字架され、復活して今生きたもうキリスト、この方こそ命の世界に入る門です。キリストの十字架が自分の立場や資格、価値や主張を粉砕してしまう時、その向う側に、聖霊による神の生命の豊かな世界が展開するのです。

御霊による生命

 聖霊を受ける場合や体験は様々です。しかし、聖霊の本質的な働きはキリストを示すことです。聖霊を受ける時、復活されたキリストの栄光に圧倒されます。十字架の深い奥義にひれ伏し、神の愛の迫りに魂は捕えられます。聖霊を受けた魂は、磁性を帯びた鉄片がいつも北極を指すように、キリストを慕い求め、キリストと共にいないではおられないようになります。信仰生活はもはや義務の世界ではなく、内から溢れる生命の表現となります。
 聖霊はわたしたちの内なる生命となって、現実の生活に様々の良い実をもたらしてくださいますが、今日はその中のただ一つだけを取り上げます。聖霊はイエスを死人の中から復活させた方の霊ですから、この霊を宿す時は、復活という人の思いでは信じられないことが現実的になります。復活されたイエスが今も生きておられることが確かな現実となってきます。そして、わたしたちを復活させるという神の約束は真実であって、その復活の希望に自分の現実の人生を賭けて生きることができます。このことにより、聖霊がわたしたちの内にもたらしてくださった生命は、死に打ち勝つ質の生命、すなわち永遠の生命であることを知ります。

 「罪の支払う報酬は死である。しかし、神の賜物は、わたしたちの主イエス・キリストにおける永遠のいのちである」。(ローマ人への手紙 六章二三節)
(アレーテイア 1号 1986年)