市川喜一著作集 > 第7巻 マタイによるメシア・イエスの物語 > 第38講

第四節 十字架につけられるメシア

はじめに

 マタイによるメシア・イエスの物語もいよいよ最後の局面を迎えます。イエスの十字架上の死と三日目の復活です。この物語において、イエスの十字架上の死については、マタイはほぼマルコに従っていますが、復活の物語においてはかなりマルコと違っています。今回も、マルコと重なっている部分は『マルコ福音書講解』に委ねて、マタイの物語の特色に重点を置きながら、マタイによるメシア・イエスの物語の結末をなす部分を見ていくことにします。

 十字架刑の歴史とその実際の処刑方法などについては、『マルコ福音書講解U』88「十字架」を参照してください。

ゴルゴタへの道(27・27〜32)

 ローマ総督ピラトは、群衆の前で手を洗ってイエスの死に責任はないと表明しながら、「鞭打ってから十字架につけるために」イエスを処刑役の兵士たちに引き渡します(二七・二六)。ローマの兵士たちは、総督官邸の中庭に連れて行き、十字架刑で処刑される囚人を扱う通例通りに、イエスを激しく鞭打ち、徹底的になぶりものにします。そのさい、イエスは「ユダヤ人の王」を僭称するローマへの叛徒として処刑されるので、イエスを王に見立てて侮辱するという行為が加わります。兵士たちは「イエスの着ている物をはぎとり、赤い外套を着せ、茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、『ユダヤ人の王、万歳』と言って侮辱」します。さらに「唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭を叩き続け」ます(二七・二七〜三〇)。この箇所はほとんどマルコと同じです。強いて違いを捜すと、マルコが「紫の服を着せ」としているところを、マタイは「赤い外套を着せ」としているぐらいです。これはどちらもローマの兵士が用いる深紅色のマントを指しているのでしょう。一言も発せず黙って侮辱を受けておられるイエスの姿を語るとき、マタイは「(わたしは)打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さず、嘲りと唾を受けた」というイザヤ(五〇・六)の預言を思い浮かべていたことでしょう。
 兵士たちはイエスを存分になぶりものにして侮辱した後、「外套を脱がせ、元の服を着せ、十字架につけるために(イエスを)引いて」行きます(二七・三一)。死刑囚は、兵士に四方を囲まれ、罪状書きの札を首につるされ、自分がつけられる十字架の横木を背負って刑場まで歩かされます。夜を徹しての裁判と、直前の激しい鞭打ちのため、極度に衰弱しておられたのでしょう、イエスは途中で倒れます。そのとき「シモンという名前のキレネ人に出会ったので、(兵士たちは彼に)イエスの十字架を無理に担がせ」ます(二七・三二)。このシモンというキレネ(キュレネまたはクレネとも呼ばれるユダヤ人居住者が多い北アフリカの大都市)出身のユダヤ人は、おそらく過越祭のためにエルサレムに巡礼に来ていたのでしょう。マルコは「アレキサンドルとルフォスの父シモン」と二人の息子の名を上げていますが、マタイは息子の名を省略しています。マルコが福音書を書いた地域と時代には、二人の息子は教団の中でよく知られた人物だったので、この伝承の確かさを示すために名を上げたのでしょう。しかし、マタイの地域と時代には知られていないので、息子の名を上げる意味はなくなっていたと考えられます。
 こうして、イエスは処刑の場所である「ゴルゴタというところ、すなわち『されこうべの場所』」に着きます(二七・三三)。当時の処刑は、見せしめにするため街道沿いの目立つ場所で行われました。エルサレムの城門を出た街道沿いに頭蓋骨のような形をした小高い丘があって、そこで十字架刑がよく行われたのでしょう。イエスはその「ゴルゴタ」で十字架につけられます。

 ピラトの裁判が行われたとされるアントニア要塞跡と、ゴルゴタの地に建てられたとされる聖墳墓教会を結ぶ街路が「ウィア・ドロロサ」(ラテン語で悲しみの道)と呼ばれ、現在巡礼者がイエスの受難を偲ぶ場所になっていること、またゴルゴタの位置については、『マルコ福音書講解U』88「十字架」を参照してください。

十字架刑(27・33〜44)

 処刑の場所であるゴルゴタに着いたとき、執行役の兵士たちはイエスに「苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで飲もうとはされなかった」(二七・三三〜三四)と、マタイは伝えています(マルコでは「イエスはお受けにならなかった」)。そして、兵士たちがイエスの手を横木に釘付けにし、その横木を縦木に沿って引き上げて固定し、イエスの足首を縦木に釘付けるという残酷な作業を、「彼らはイエスを十字架につけると」という(分詞形の)ごく短い句で述べて、「くじを引いてその服を分け合い、そこに座って見張りをしていた」(二七・三五〜三六)と、彼らの行動を描きます。囚人の衣服を刑吏が取るのはローマの習慣であったようですが、すでにマルコ(あるいはマルコが用いた受難物語伝承)はこれをほとんど詩編(七十人訳ギリシャ語聖書の詩編二二・一八)の言葉をそのまま用いて描いています。マタイもすこし短い形で詩編の言葉を用いて描き、イエスの十字架が聖書の預言通りに起こっていることを強調します。
 マルコ(一五・二五)には「イエスを十字架につけたのは、朝の九時であった」という文がありますが、マタイは(そしてルカも)この時刻の表現を省略しています。ヨハネ福音書(一九・一四)によると、ピラトの判決は正午ごろですから、イエスが十字架につけられたのは正午よりも後になります。イエスはその日の夕方までには(マルコでは午後三時に)絶命しておられるのですから、ピラトが不審に思うほど短時間で絶命されたことになります(マルコ一五・四四)。ピラトの不審からすると、正午より後に十字架につけられたとするヨハネ福音書の伝承の方が正しい可能性があります。マタイはこの伝承を知っていて、マルコの時刻を採用しなかったのかもしれません。

 マタイとルカの両方がマルコの「朝の九時」という時刻の表現を省略しているのですから、『マルコ福音書講解U』(291頁)の一五章二五節についての文を訂正しなければなりません。「マルコを初め共観福音書が午前九時とする」を「マルコが午前九時とする」と、また、「共観福音書では六時間ほどになる」を「マルコでは六時間ほどになる」と訂正します。ただし、マタイとルカがヨハネの伝承にある「正午より後」という時刻を採用しているわけではありません。マタイもルカも、十字架につけられてからある程度の時間が経った後、「昼の一二時に全地は暗くなり、それが三時まで続いた」というマルコ(一五・三三)の時刻にそのまま従っています(二七・四五)。したがって、マタイとルカはイエスが十字架につけられた時刻を正午より前にしていることになります。

 処刑者の頭より上の縦木に、処刑の理由を示す「罪状札」が打ちつけられます。その罪状札には「これはユダヤ人の王イエスである」と書かれていたとマタイは伝えています(二七・三七、なおマルコでは「ユダヤ人の王」だけ、ルカは「これはユダヤ人の王」としています)。これは、イエスが「ユダヤ人の王」であると称してローマへの反逆を企てた叛徒として処刑されたことを公示するものです。ヨハネ福音書(一九・二〇)は、この「ユダヤ人の王」という罪状書きがヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていたと伝えています。マタイにはこの記事はありませんが、これを否定する記事もありません。ヘブライ語は神の選民ユダヤ人の宗教言語、ラテン語は世界の政治的支配者であるローマ人の公用語、ギリシア語は当時の文化世界の共通語でした。メシア・キリストであるイエスの死は、この三つの世界が重なるところで起こった出来事です。この三つの世界はそれぞれ、十字架の上に死なれたイエスこそが自分たちの世界のまことの王であることを知らなければならないのです。処刑の理由としてピラト自身が書いたこの「罪状書き」(ヨハネ一九・一九、二二)は、逆説的にイエスの十字架の世界史的意義を告知しているのです。
 ここで初めて「イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた」(二七・三八)ことが出てきます。「強盗」というのは、先に見たように、たんなる物取り強盗の類ではなく、ローマへの武力反抗を試みる叛徒です。ローマ人は属州民(被支配民族)や奴隷の叛徒を数人まとめて十字架刑で処刑する習慣があったようです。十字架刑は見せしめのため人通りの多い街道沿いの処刑場で行われたので、「そこを通りかかった人々は、頭を振りながら、イエスをののしった」(二七・三九)のです。「頭を振りながら」という表現には、詩編二二編八節が響いています。ここでも受難物語伝承が、イエスの出来事は旧約聖書の預言を成就するものであるという視点で形成され、語り伝えられていたことがうかがわれます。
 彼らは「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」と言ってイエスをののしります(二七・四〇)。そして同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒にイエスを侮辱して、「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」(二七・四一〜四三)と言います。この侮辱の言葉は、イスラエルの王であり神の子であるメシアは異教の支配者を撃ち破り、イスラエルを解放する者でなければならない、異教の支配者に処刑されるような者はメシアではない、というユダヤ教神学から出ています。「神に頼っている神の子であるなら、神に救ってもらえ」という言葉は詩編二二編九節を響かせています。この「お前が神の子ならば」という語りかけは、荒野の誘惑のときのサタンの言葉を思い起こさせます。イエスはすでにゲツセマネで、神の十二軍団を送っていただいて受難を免れるという誘惑を退けて、十字架の苦しみを父の御心として受け入れておられます。同じ誘惑をサタンは祭司長たちの口を通して最後の瞬間まで続けるのです。
 イエスは、十字架の上で言葉には言い表せない苦痛に耐えながら、この侮辱をお受けになります。マタイはとくに「祭司長たち、律法学者たち、長老たち」がこのように侮辱したと書いています。実際の処刑の現場に、このような階層の人たちがどれほど居合わせたのかは分かりませんが、マタイはこのように書いて、イスラエルを代表する人たち(最高法院を構成する人たち)がイエスを侮辱したことを強調するのです。これは、現在マタイの宗団と対立するユダヤ教会堂が「十字架につけられたメシア・イエス」を侮辱し続けている姿勢を、彼らの代表者の姿で語っているのです。
 彼らは「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう」と言っています。この言葉は、「十字架につけられたメシア」はユダヤ人には最大のつまずきであることを物語っています。イエスは実際には十字架から降りることなく、十字架の上で絶命されます。このイエスを福音は救済者キリストとして宣べ伝えるのです。イエスは、神の御旨に従い、十字架から降りないで死なれたからこそ、罪人を救う救済者となられたのです。ところが、イエスをキリストとする者の中でも、「十字架につけられたキリスト」をつまずきとする人たちは、十字架上に死んだのはキリストではなく仮の姿で現れた者に過ぎないとして(仮現論)、なんとかキリストを十字架から降ろそうとするのです。これは「十字架につけられた神の子」をののしった祭司長たちの立場と変わらないことになります。
 さらに、「一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった」(二七・四四)と伝えられています。この「強盗たち」もローマへの反逆の罪で処刑されることになった過激派ユダヤ人であったのでしょう。志破れて処刑されることになった無念さから、イエスのように神の力に満ちた指導者が反ローマ運動に立ち上がらず、むざむざと十字架上に処刑されるようになったことをののしったと思われます。彼らも「同じように」、十字架から降りて見せてこそ神の子メシアであるにふさわしいと考えているのです。

 ルカ福音書(二三・三九〜四三)はここを、二人の中の一人が「あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言ったのに対して、イエスが「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒にパラダイスにいる」と言われた、という劇的な場面にしています。この場面については別著『キリスト信仰の諸相』の第四部「希望の諸相」第二講を参照してください。

イエスの死(27・45〜56)

 このように十字架につけられたイエスが絶命されるところを、マタイは基本的にはマルコに従って叙述を進めていきます。「昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」(二七・四五)のです。この全地をおおう暗闇は、預言者たちが終わりの日に神が世界を裁かれるときに起こると預言していた暗闇です。それは世界に対する神の終末的な審判を象徴する暗闇です。預言者アモス(八・九)は、「その日が来ると、わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に大地を闇とする」と主は言われる、と叫んでいます。この神の裁きの暗闇の中で、イエスは大声で叫ばれます、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と(二七・四六)。
 これは詩編二二編の冒頭の言葉です。マタイも(マルコと同じように)この聖書のヘブライ語をギリシア語で、「これは『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」と説明しています(二七・四六)。イエスが最後にこのような神を恨む言葉と受け取られかねない言葉を発せられたことを弁護しようとして、様々な解釈が行われてきました。マルコを知っているはずのルカが、この言葉を発せられた記事を省略して、代わりに、イエスは大声で「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と叫んで息を引き取られたとしているのも、このような動機からだと見られます(ルカ二三・四四〜四六)。ルカはイエスの死を立派な殉教者の死として描くのです。
 また、この言葉は詩編二二編の冒頭の句であることから、イエスは最初の句を唱えることで詩編二二編全体を祈られたのだという説明がなされます。ユダヤでは文書などの全体を最初の一行で代表させる習慣がありました。たしかに、詩編二二編は人からも神からも見捨てられたという悲痛な叫びで始まっていますが、終わりには神への信頼と賛美になっています。それで、イエスは最初の句を唱えることで、詩編二二編全体が示している神への信頼を叫ぼうとされたのだという解釈です。しかし、この解釈はゲツセマネの祈りを無意味にします。イエスはゲツセマネで神の裁きという「怒りの杯」を突きつけられて苦悶されたのです。いまその杯を十字架の上で、神の裁きの暗闇の中で飲み干しておられるのです。父と親しい交わりに生きてこられた子であるイエスが、いま人間の罪に対する神の裁きによって見捨てられた者として、地獄の苦悩を味わっておられるのです。父も子と共にあって苦しんでおられるのです。世を救うために愛する子を裁きに引き渡した父として苦しんでおられるのです。この御父と御子の苦しみこそ、背く人間に対する神の限りない愛の現れなのです(詳しくは『マルコ福音書講解U』83「ゲツセマネの祈り」を参照)。
 ところで、マルコの「エロイ、エロイ」という神への呼びかけの言葉を、マタイは「エリ、エリ」と書き換えています。マルコは当時の日常語であったアラム語の発音で伝えていますが、マタイはそれを聖書のヘブライ語そのままを引用する形で書いているのです。おそらくマルコは十字架の傍でイエスの叫びを聴いた女性たちの伝えた言葉を語り伝えたアラム語の伝承を用いたのでしょう。マタイは日常聖書に親しんでいる学者として、聖書のヘブライ語の表現をそのまま用いたと見られますが、同時に周囲の者たちがこの叫び声をエリヤを呼んでいると聞き違えたという次節の記事との続き具合をよくするためであったことも考えられます。「エロイ」という発音ではエリヤの名との取り違えは不自然になるからです。
 当時ユダヤ人の間には、義人の苦難にさいしてエリヤが天から助けに来てくれるという信仰がありました。イエスの叫びをエリヤの助けを呼び求めているのだと取り違えた周囲の者たちの一人が、「走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒につけて、イエスに飲ませよう」とします(二七・四八)。マタイはここに詩編六九編二二節の成就を見ていたのでしょう。すると「他の者たち」が「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言います(二七・四九)。ここはマルコと少し違います。マルコ(一五・三六)では、この言葉はイエスに酸いぶどう酒を飲ませようとした者が言ったことになっています。マルコでは、槍で突いたり足を折るなどして処刑を完了しようとした者たちを押し止めて、一人の者が「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言って、イエスをもう少し生かしておくために、気付け用に「酸いぶどう酒」を飲ませようとしたことになります(「酸いぶどう酒」《オクソス》というのは、ローマ兵が元気を回復するために用いた、水と酢と卵を混ぜ合わせた飲み物を指すと見られます)。マタイではイエスの叫びを聞いた一人の者が、死にいく者に与える最後の飲み物を与えようとしたのを、他の者たちが押し止めてこう言ったことになります。いずれにしても、イエスはこのぶどう酒を受けることなく、「再び大声で叫び、息を引き取られた」のです(二七・五〇)。マルコは単純に「息絶えた」と書いていますが、マタイは「霊を注ぎ出された」、あるいは「霊を引き渡された」という表現を用いています。
 その時、「神殿の垂れ幕(聖所と至聖所を隔てる垂れ幕)が上から下まで真っ二つに裂け」ます。この点はマルコと同じですが、マタイはその後にマルコにはない記事を入れます。「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた」(二七・五一〜五三)。「神殿の垂れ幕が裂けた」こと自体すでにエルサレム神殿で神を礼拝する時代が終わったことを象徴していますが(『マルコ福音書講解U』の当該箇所参照)、マタイはさらに預言書や黙示思想文書で終末時に起こるとされていた出来事が起こったことを書き加えて、イエスの十字架上の死が終末の到来をもたらす出来事であることを強調するのです。
 神が裁きを成し遂げられる終わりの日には、地は震い動き(エレミヤ一〇・一〇など)、大地は裂け(イザヤ二四・一九など)、死者は生き返る(エゼキエル三七章)と、すでに預言者たちは語っていました。そして、さらに後の時代の黙示思想文書は、終わりの日には神に属する聖徒たちが死者の中から(墓の中から)復活することを待ち望んでいました(ダニエル一二・二、イザヤ二六・一九、ラテン語エズラ記七・三二、その他エチオピア語エノク書など)。当時の敬虔なユダヤ教徒は、終わりの日に死者が復活することを信じ、死者の復活が最初に起こるとされていた聖都エルサレムを望むオリーヴ山の山腹に墓を持つことを願ったのです。イエスの復活顕現を体験した最初の弟子たちは、イエスの復活によってこのような終わりの日が到来し、死者の復活が始まっていることを体験しているのだと理解し、確信したのです。マタイがここに書きとどめている章句(二七・五一〜五三)は、このもっとも初期の弟子たちの理解と確信の痕跡を保存していると見られます(エレミアス)。

 マタイだけにあるこの章句(二七・五一〜五三)は問題が多く議論が絶えません。「聖徒たち」とは誰を指すのか、ペトロT三・一九〜二〇に見られるようなキリストの陰府への降下との関連はどうか、など困難な問題があります。しかし、「眠りに入った聖徒たち」、「からだ」、「起こされる」、「(人々に)見られる、現れる」など、(コリントT一五章に見られるように)初期の教団が復活信仰を語るときに用いた用語が多く用いられていることは、この章句が初期の教団の復活信仰を響かせていることをうかがわせます。ただ「彼の復活の後」という句(「彼らの復活の後」と読む写本も僅かながらあります)は、イエスよりも先に復活した人たちがいるのは、イエスを最初の復活者(初穂)とする福音の告知に合わないので、修正のために後から加えられた句であると理解する方がよいでしょう。すなわち、たしかに聖徒たちは復活したのであるが、それはイエスの死の時ではなく、「彼(イエス)の復活の後」であったとするのです。

 マタイはイエスの死の場面を、「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、『本当に、この人は神の子だった』と言った」(二七・五四)という一節で締め括ります。これは、マルコ(一五・三九)が「イエスがこのように息を引き取られたのを見て」こう言ったとしているのと少し違います。マルコでは、百人隊長はあくまでイエスの姿だけを見てこう言ったのです。すなわち、異邦人の百人隊長は十字架上に死ぬもっとも卑しい姿のイエスに神の子として本質を認めたのです。マルコはこの告白を「神の子イエス・キリストの福音」の締め括りとしているのです。それに対してマタイでは、「地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ」こう告白したとしています。マタイは、イエスの死にさいして起こったこのような終末的な出来事(五一〜五三節)をもって、イエスが神の子であることのしるしとするのです。そして、十字架上に死ぬイエスを神の子と信じるように世に呼びかけるのです。
 イエスが十字架につけられて死なれたとき、その場所に弟子たちはいませんでした。ゲツセマネでイエスが逮捕されたとき、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」のです(二六・五六)。そこにいてイエスの最後を見届けたのは女性たちだけでした。マタイは「またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である」(二七・五五)と伝えています。この女性たちは、イエスがガリラヤで活動しておられたとき、「自分の持ち物を出し合って、(イエスと弟子たちの)一行に奉仕していた」(ルカ八・二〜三)女性たちです。イエスの福音告知活動も裏でこのような女性たちの奉仕に支えられていたのです。彼女らは、イエスが意を決してエルサレムに上られるとき、愛の直感から悲劇を予感して最後までイエスに従おうとしてついてきました。男性の弟子たちがエルサレムでは栄光の座に座ることだけを考えていたのに対して、女性たちはイエスの死の苦しみを共にしようとしてついてきたのです。この対照は、ベタニアで香油を注いだ女性の記事によく出ています。
 続いてマタイは「その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた」(二七・五六)と三人の女性の名をあげています。この三人の中の二人は後に、イエスが葬られた墓の場所を見届け(二七・六一)、週の初めの日の朝に墓を見に行って、墓が空であることを見つけた最初の証人となるので(二八・一)、イエスの復活証言においてきわめて重要な位置を占めることになります。とくにマグダラのマリアは、復活されたイエスが最初に姿を現された人物として重要で(マルコ一六・九、ヨハネ二〇・一一〜一八)、どの場面でもいつも最初に名が上げられています。

 この三人の女性は初期の教団で著名な女性であったのでしょう。マグダラのマリアについては『マルコ福音書講解U』の90「マルコ福音書の結び」330頁以下を参照してください。「ヤコブとヨセフの母マリア」は、ヨハネ(一九・二五)との比較から、クロパの妻マリアであると推定されます。「ゼベダイの子らの母」は、「十二人」の中の「ゼベダイの子ら」であるヤコブとヨハネの母ということで、教団にはよく知られていたと考えられます。マルコ(一五・四〇)があげている三人の女性の名との比較から、この「ゼベダイの子らの母」の名はサロメであったと推定されます。このサロメはトマス福音書を含む(グノーシス系の)新約外典によく出てきます。また、ヨハネ福音書(一九・二五)だけがイエスの母マリアがそこに居たことを伝えていますが、そこに母マリアと一緒にいた「(イエスの)母の姉妹」は、マタイのこの箇所と突き合わせると「ゼベダイの子らの母」に相当するので、イエスと「ゼベダイの子ら」(ヤコブとヨハネ)は従兄弟にあたることになります。