市川喜一著作集 > 第7巻 マタイによるメシア・イエスの物語 > 第21講

第二節 天の国のたとえ

「からし種」と「パン種」のたとえ(13・31〜33)

 「毒麦」のたとえに続いて、マタイは「天の国は何々に似ている」とか「天の国は次のようにたとえられる」という句で始まる五つの「天の国のたとえ」を置いています。たとえが置かれている位置からすると、初めの二つ(からし種のたとえとパン種のたとえ)は、毒麦のたとえと共に、群衆に向かって語られたことになりますが、後の三つのたとえ(畑に隠された宝、真珠を見つけた商人、投げ網)は、「群衆を後に残して家にお入りになった」イエスが、毒麦のたとえの説明の後に、弟子たちだけに語られたことになります(三六節参照)。しかし、イエスが弟子たちだけに語られたとする状況の説明(一〇節と三六節)は、たとえの説明(およびたとえで話す理由を語る部分)について言われているのであって、たとえそのものはいつも群衆に向かって語られていると見るべきであると考えられます。マタイも「イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった」(三四節)と明言しています。

 イエスがたとえを用いて語られたことを、マタイらしく預言の成就であるとして旧約聖書を引用していますが(三五節)、これは詩編七八編二節のかなり自由な引用です。最初期の教団では、ダビデも預言者として扱われていました(使徒二・三〇)。

 マタイはマルコの「からし種」のたとえをほぼそのまま用いています。このたとえは、種のときの小ささと成長したときの大きさが対照されているたとえです。種のときは目に見えないような小さいものが、畑に蒔かれて成長すると、空の鳥が来て枝に巣を作るほど大きな木になるという、初めの小ささと終わりの大きさが驚きをもって対照されているのです。小さい始まりの中に大きな終わりが含まれ、すでに実在していることが語られています。神の支配も同じように、今はイエス一人の小さい姿の中に隠されて来ているが、それはやがて世界を覆う現実になることが語られているのです。「隠されているもので顕れないものはない」という原理をたとえで語ったものです。

 「からし種」のたとえについては、『マルコ福音書講解T』の当該箇所(「からし種の譬」四章三〇〜三二節)の講解を参照してください。

 マタイは「からし種」のたとえに「パン種」のたとえを続けます。この二つのたとえはすでに「語録資料Q」に一組のたとえとして伝えられていたと見られます。「パン種」のたとえも、「からし種」のたとえと同じく、小さい始まりが大きな終わりに結果することを印象深く語るたとえです。一握りの僅かなパン種が、三サトン(約四〇リター)もの練り粉に混ぜられると、発酵したとき全体を膨らませて大きなかたまりとなります。そのように神の支配は今は小さな現実でも、やがては大きな世界を変容させるのです。
 ところで旧約聖書では、空の鳥が巣を作るほどの枝を張った大きな木は、広い世界を覆い多くの臣下を養う巨大な帝国を象徴するたとえです(エゼキエル三一章、ダニエル四章)。また、粉全体を発酵させるパン種は、過越祭のハガダ(解釈書)によれば、悪意と邪悪の象徴でした(コリントT五・六〜八参照)。内村先生もこのような解釈をとっておられます。ところがイエスは大胆に、この二つのたとえを悪の力の比喩としてではなく、神の支配を語る比喩として用いておられるのです。イエスのたとえには、たとえば借用証を書き替えさせる不正な管理人を賞めるというように、常識的な道徳や思想をひっくりかえすような意外な表現もあることを考えると、このように大木やパン種が「神の国」の比喩として用いられていることも驚くにはあたりません。また、イエスのたとえを聴く庶民には、このような旧約聖書の背景を考慮に入れて解釈するというようなことはなく、この二つのたとえが語る小さな始まりと大きな終わりの対照を、驚きをもって聴いて納得したことでしょう。その時すでに聴衆は、「隠されているもので顕れないものはない」という神の国の真理に捉えられているのです。

「隠された宝」のたとえ(13・41〜50)

 マタイはたとえ集の終わりに三つの「天の国」のたとえを並べています。この三つのたとえは、「天の国」(「神の国」または「神の支配」のマタイ的表現)は今は隠された姿で来ているというモティーフを扱い、その隠されている「天の国」に対する全存在の投入を求めるのです。
 最初のたとえでは、「天の国」は畑に隠された宝にたとえられています(四四節)。あるいはむしろ、宝が隠されている畑を全財産を売り払って買った人の行為と喜びが「天の国」だと言えます。このたとえで畑は、宝との対照で無価値の荒れ地を象徴しているのでしょう。自分が所有する全財産を売り払って無価値な荒れ地を買う行為は愚かさの極みですが、その荒れ地に宝が隠されていることを知っている人には喜びです。自分が持っている能力でこの世の栄誉とか繁栄を獲得する道を捨てて、キリストに生きるために苦難と恥の生涯を選び取ることは愚かさの極みですが、今は苦難の現実の中に隠されているキリストこそ神の国そのものであり、神のいのち、永遠のいのちであることを知る者にとっては、そうせざるをえない道であり、喜びの道であるのです。
 イエスはご自分の中に隠されて来ている聖霊の現実に生き抜くために十字架の道を歩まれました。イエスの復活以後は、復活者キリストとしてのイエスを知ることが「宝」となりました。パウロはこう言っています。「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです」(フィリピ三・八)。ここに、全財産を投げ出して、宝が隠されている荒れ地を買った人の実例があります。それ以後、このように宝を得るために苦難の生涯に自分を投げ出した人たちが連綿と続き、そのような人たちの中に「天の国」が保持され伝えられてきたのです。
 「真珠を見つけた商人」のたとえ(四五〜四六節)も、先の「畑に隠された宝」と一対で、意味は同じです。現在では養殖技術が進んで真珠はありふれた装飾品になりましたが、古代では真珠は宝石の中でも至上の価値のあるものでした。あの神秘な輝きを見せる真珠は、深海の奥に隠されており、その一粒を見つけることはきわめて稀な幸運でした。深海に真珠を「探す」ことは命がけの事業でした。それで真珠はきわめて「高価な」宝石であったのです。このたとえの商人はたまたま市場で人目につかないでいた「高価な真珠」を見つけたのかもしれませんが、「真珠」にはもともと「人の目に隠されている尊い宝」というイメージがあります。それでこの真珠のたとえも、先の「畑に隠された宝」のたとえと同じく、隠された現実である神の国、隠されている至高の価値のために、自分をすべて投げ入れる人の姿を語るたとえになります(四五〜四六節)。
 最後の「投げ網」のたとえ(四七〜五〇節)は、一見「隠されている神の国」というモティーフは見当たらないようですが、「世の終わり」には正しい者と悪い者が厳しく選別されることを語ることで、現在の「世」においてはまだ選別されずに隠されている「義人たち」の中に、どのような犠牲を払っても留まるように教えているのです。マタイにとって最後に「父の国で太陽のように輝く」のは「義人たち」です(四三節)。「御国の子ら」は「義人たち」(新共同訳は「正しい人々」と訳している)のことです。ここにもマタイ独自の「義」の強調が見られます。

天の国のことを学んだ学者(13・51〜52)

 マタイは「たとえ集」の最後に、マタイ独自の記事(五一〜五二節)を置いて締め括ります。「あなたがたは、これらのことがみな分かったか」という問いに、弟子たちは「分かりました」と答えています。弟子たちは「天の国の秘密を悟ることが許されている」(一一節)のですから、イエスが語られたたとえの意味を悟って、神の御旨の奥義を理解している者とされます。この弟子の姿は、弟子たちの無理解を強調するマルコの描き方と対照的です。
 さらにマタイは、イエスの弟子として「天の国の秘密を悟ることが許されている」学者は、「自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」というたとえを付け加えます。当時「学者」というのは、ユダヤ教律法に通暁している学者のことです。マタイはイエスを信じないユダヤ教律法学者を激しく非難していますが、イエスの弟子となった律法学者は「新しいものと古いもの」を判断し、その関係を理解し、両者を正しく提示することができる真の「学者」であるとしているのです。おそらくマタイ自身ユダヤ教律法に通暁している律法学者であるか、その素養のある人物であって、そのような「学者」がイエスの弟子となることによって「新しいものと古いもの」を判断し、イエスの信徒を導かねばならないとしていると見られます。この言葉は、初期のユダヤ人の間の信仰運動とマタイ自身の体質を示しているように思われます。
 「学者」をこのように理解しますと、「新しいものと古いもの」というのはモーセ律法によって与えられていた「古い啓示」と、イエス・キリストによって与えられた「新しい啓示」を指すことになります。その「新しいもの」によって「古いもの」を判断して、両方を正しい関係で提示する者こそ真の「学者」であって、イエス・キリストの民はこのような「学者」に耳を傾けなければならないと主張しているのです。たとえば、マタイが「山上の説教」で「対立命題」という形で、イエスの言葉がモーセ律法を成就完成するものであるとして提示するとき、マタイは「天の国のことを学んだ学者」として行動しているのです。
 このたとえにおける「新しいものと古いもの」は、このように理解するのが順当と考えられますが、「学者」をユダヤ教律法の学者に限定せず、広く御霊によって知恵と知識の賜物を与えられている者とすれば、「古いもの」とは伝承されたままのイエスの言葉を指し、「新しいもの」とは御霊による新しい理解の仕方を指すと見ることもできます。たとえば伝承された「投げ網」や「刈り入れ」のような終末的な裁きを語るたとえを、マタイは自分の置かれている状況に即して「毒麦」のたとえとし、新しい使信を語らせていると見ることもできます。マタイは伝承されたイエスの語録に、自分たちが置かれている状況に即して、新しい意義づけを与えて福音書を書いているのです。