市川喜一著作集 > 第7巻 マタイによるメシア・イエスの物語 > 第16講

第三節 イエスを受け入れる者と拒む者

平和でなく剣を(10・34〜39)

 イエスを告白する者と否認する者は、終わりの日に神の前で峻別されるだけでなく、地上でも激しく対立し敵対せざるをえません。その敵対関係をイエスは「剣」という象徴で語られます。

 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」(一〇・三四)。

 マタイはこの「わたしは敵対させるために来たのである」という言葉に、預言者ミカ(七・六)の「人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。(こうして、)自分の家族の者が敵となる」という言葉を続けて、イエスが来られたことによって起こる対立が家族の絆をも超えるものであることを語る文を構成します(一〇・三五〜三六)。
 イエスに所属する者とイエスを拒む者は一緒に歩むことはできないのです。それは、イエスを告白するか否認するかが神の前に人を二分することの当然の結果です。神との関わりはあらゆる人間関係に優先するからです。イエスが普通の人間であるならば、これほどの僭越・傲慢はありません。イエスを一人の人間としか見ないユダヤ人たちは、このような主張をするイエスを憎み、ついには殺しました。この言葉は、イエスとはいったい誰かという問いを突きつけているのです。
 親子の情愛は人間を結びつけるもっとも強い絆です。しかし、イエスとの結びつきはそれよりも優先されなければならないのです。ここ(一〇・三二〜三三)で主張されているように、イエスとの結びつきが神との関わりを決定するのであれば、それはいかなる人間関係よりも優先されなければなりません。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」(一〇・三七)と言われるのは当然になります。
 この要求は多くの場合、家族の絆を破壊するものとして、福音に対する激しい反発を招きました。しかし、福音告知の場では、古い伝統的宗教の中に生きている家族から反対されたからといってイエスへの告白を放棄するようでは、信仰は成り立ちません。福音がこの要求をもっていなければ、福音が世界に広がることはありえなかったのです。家族が生きる伝統的な宗教の中で窒息し立ち枯れてしまわざるをえません。福音が世界のすべての人に、すなわち、どの宗教の人にも神のいのちを与える使信であるかぎり、福音は伝統宗教の世界に投じられた「剣」である他はないのです。
 最近の日本では、カルト的な宗教が青年を家族から引き離して隔離された世界へ引き込むことが多く、信仰と家族の関係が社会問題になっています。このような場合と、福音書の「自分の家族の者が敵となる」という言葉はどう違うのでしょうか。
 たしかに家族の絆よりも信仰を優先させる点では同じです。しかし、その信仰の質が違います。カルト的宗教では、信徒を家族から引き離して閉鎖された教団に閉じ込めます。教団は教祖や特殊な儀礼を絶対化しているので社会から隔離されており、その中に閉じ込められた信徒は家族からも社会からも隔離される結果になります。それに対して、福音は信じる者を血縁や伝統宗教の拘束から解放し、開かれた人間関係へと導き入れるのです。「開かれた人間関係」とは、人と人との結びつきがもはや特定の宗教・慣習とか国家・民族とか部族・氏族のような血縁というような枠の中に閉ざされないで、人間同士であるからというだけの根拠で形成される関係です。父の無条件の慈愛に基づく福音は、人を人として無条件に愛する力であるからです。福音が家族に投じられた「剣」であるのは、一人一人をこのような「開かれた人間関係」へと解き放つためです。
 したがって、この剣で解き放たれた個人は、家族や社会から隔離されるのではなく、別の原理で人間関係を形成すべく家族や社会の中に帰ってきます。家族や社会がその個人を受け入れる限り、家族や社会は新しい人間関係形成の原理を受け入れることになります。もしその家族や社会が伝統的な枠に固執して「開かれた人間関係」を拒否するならば、迫害が起こらざるをえませんが、それによって生じる苦しみは、この「開かれた人間関係」を生み出すための産みの苦しみとなるのです。
 「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言ったペトロに、イエスはこう言っておられます。「はっきり言っておく。わたしのため、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」(マルコ一〇・二九〜三〇)。来るべき世で永遠の命を受け継ぐだけでなく、この世でも捨てた家族を百倍にされて受けることになるというのです。このお言葉は、ここで述べたように、いったん捨てた家族も社会も、「開かれた人間関係」という新しい原理で、以前にもまして豊かに受け取ることを指していると理解できます。
 しかし、福音告知の最前線では迫害は避けられません。福音が剣として世を切り分けている場では、イエスを告白する者たちは、その対立から生じる軋轢の中で、苦しみを受ける側にならざるをえません。現実の勢力関係からではなく、原理上そうならざるをえないのです。イエスの弟子はイエスの無抵抗愛敵の原理に立つのに対して、イエスを否認するこの世は力による支配の原理に立っているからです。イエスは弟子たちに、御自身が歩まれた苦難の道を歩む覚悟を求められます。
 「また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」(一〇・三八〜三九)。
 マタイとその共同体は、そして世々のキリスト者は、イエスの弟子として師イエスが苦難の道を歩み、十字架の死をとげられたことを知っています。「弟子は師にまさるものではない」のです。「弟子は師のようになれば十分である」のです。イエスが十字架の死を通って復活の命に達しられたように、弟子も自分の十字架を担い、イエスの告白のために命を失うことを通して永遠の命に達するのです。これは、自己否定を通して真の生命に達するという宗教的真理の表現であるだけでなく、マタイの状況では文字通りの意味で語られていた言葉であることを見落としてはなりません。

イエスを受け入れる者(10・40〜11・1)

 イエスは弟子たちを派遣するにあたって、最後に使者としての資格を確認されます。使者は派遣する者の名代です。すなわち、弟子たちはイエスの名代として、イエスを代理しているのです。それで、「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れる」ことになるのです。そして、「わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」と続きます(一〇・四〇)。これはたいへんな宣言です。マタイは、イエスこそ神から遣わされた方であるから、イエスを受け入れることは神を受け入れること、イエスを拒むことは神を拒むことであると宣言しているのです。
 イエスが神から遣わされた方として地上に来られた今は、自分の人生に神を受け入れるのは、特定の宗教に入って特定の儀礼にあずかったり、深い知恵を獲得したり、高い道徳水準に達することによるのではなく、イエスを受け入れ、イエスと共に歩むことによるのです。そして、イエスを受け入れるのは、イエスが遣わされた使者を受け入れることでなされます。弟子の派遣は、神・イエス・使者・世界という派遣の系列を顕わにする出来事であり、派遣説教はそれが世界が神に連なるようになるための神の行為であることを明らかにしています。イエスの使者である「使徒」が(使者も使徒もギリシャ語では《アポストロス》)、信仰の成立にとってどのような位置を占めるのかがここで語られているのです。わたしたちは、イエスの使者である使徒たちの証言(それが新約聖書)によってイエスを受け入れ、イエスを受け入れることで神を受け入れているのです。
 イエスの使者を受け入れる者が受ける報いについて、次のように語られます。「預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(一〇・四一〜四二)。
 預言者と正しい者についての文はマタイ独自のもので、おそらくイエスの弟子を受け入れる者が受ける報いを説明するために、マタイが付け加えたものでしょう。「預言者と同じ報い」とか「正しい者と同じ報い」と繰り返されているのは、イエスの弟子を受け入れる者は「イエスの弟子と同じ報いを受ける」ことを言うためです。信じる者は使徒たちに賜っているのと同じ霊的現実に入っていけるのです。

三層の重なり(10・1〜11・1)

 マタイは「派遣説教」を、「イエスは十二人の弟子に指図を与え終わると、そこを去り、方々の町で教え、宣教された」(一一・一)という文で結びます。指図は与えられましたが、弟子たちは福音告知に出かけていません。イエスが方々の町で福音告知されたと語られるだけです。これは「派遣説教」が特定の出来事を描くものではなく、福音告知に派遣される者の心構え一般を説く「語録集」であることを示しています。
 この語録集には、ここで見てきたように、二つの層が重なっています。すなわち、イエスの時代の出来事を語る層と、マタイの時代の状況で語る層です。この二つの層の間には五十年ほどの歴史が横たわっており、二つの時代の状況はかなり違ってきています。しかし、マタイは、「弟子は師のようになれば、それで十分である」として、イエスだけを自分たちの従うべき原型とし、現在の状況の中でイエスだけに語らせようとします。五十年の歴史は透明になって、二つの層は重なり合います。違った状況から生じる相違はそのままに、その重なりからイエスとその弟子の姿が浮かび上がります。
 マタイとわたしたちの間には二千年に近いキリスト教の歴史が横たわり、状況もおおいに違ってきています。しかし、わたしたちもマタイがしたように、この二つの層の重なりである福音書にわたしたちの現在を重ね、その間に横たわる歴史を透過して、三層の重なりの中に師イエスの姿を見、弟子であるわたしたちの在り方を追求すべきです。三層を重ねるとは、三枚の透明のシートを重ねるようにすることですが、それぞれの時代の状況の違いから、三枚の画像ははみ出す部分が出てきます。しかし、重なる部分は本質的な姿を浮かび上がらせます。
 三枚の画像の重なる姿とは、福音告知の最前線におけるイエスの弟子の姿です。そして、この最前線においてこそ福音の本質がもっとも濃厚かつ明瞭に現れてくるのです。わたしは若い頃、農学を専攻する信仰の友から「周縁効果」という譬を聞いたことを忘れることができません。溶液を濾紙に落とすと、溶液は円形に拡散していきますが、その周縁において濃度が高く活発であり、中心部は希薄になるということです。福音においても、迫害と戦う福音告知の最前線において福音の質がもっとも明瞭に現れていると言えます。その意味で「派遣説教」は、「山上の説教」とは違う視点からですが、福音の本質を指し示す重要な語録集であると言えます。