市川喜一著作集 > 第7巻 マタイによるメシア・イエスの物語 > 第15講

第二節 迫害に対する覚悟

迫害される弟子(10・16〜25)

 このように「語録資料Q」の伝承に忠実に、地上のイエスが「十二人」の弟子たちを福音告知に派遣されるさいの状況を再現したマタイは、その「十二人」を原型として、今福音告知に出ていこうとしている自分たちに対する主の説教を、「語録資料Q」やマルコ福音書の終末預言や独自資料を駆使して構成します(一〇・一六〜四二)。マタイはそれらの資料の中に、今自分たちを福音告知に送り出される主の声を聴いて、それをまとめているのです。その部分は「見よ、わたし(強調)はあなたがたを遣わす」(一六節)という荘重な宣言で始まります。
 派遣される弟子に第一に求められるのは、迫害に対する覚悟です(一〇・一六〜二五)。イエスが弟子たちを世界に派遣されるのは、「狼の群れに羊を送り込むようなもの」であるから、派遣される弟子は「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」と勧告されます。派遣する主に対して、また使命に対しては鳩のように素直でありながら、この世の策略からくる試練や誘惑に対しては、蛇のように賢明かつ機敏に対処しなさいという意味でしょう。この世はけっしてあなたがたの使信を素直に受け入れないで、敵意をもって対するのだから、「人々を警戒しなさい」と警告されます。
 ここでマタイは、この世からの迫害が「地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれる」というユダヤ教内部での迫害だけでなく、「総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる」と言って、異邦の諸民族の中での迫害も視野に入れています(一〇・一七〜一八)。このことは、マタイがもはや、その働きの対象がイスラエルに限定されていたイエスの時代ではなく、異邦の諸民族に福音を宣べ伝えるべく遣わされている自分たちの時代の視点で書いていることを示しています。
 この段落(一〇・一六〜二三)は、マルコ福音書の「小黙示録」の一部(マルコ一三・九〜一三)をそのまま引用し、前後にマタイ独自の語録(一六節と二三節)をつけて構成されています。この事実はマタイが、マルコと同じく、自分たちの福音告知活動を終末時の苦難を担うものと意義づけていることを示しています(その意義については『マルコ福音書講解』の当該箇所を参照)。
 神の終末審判が行われる前に、悔い改めの告知が全世界に宣べ伝えられ、神の恵みの証がすべての民の前に立てられなければならないのです。イエスの弟子たちが迫害されて法廷に立たされるのは、その証のためです。「引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である」(一九〜二〇節)。イエスの名のゆえに苦難を受ける場こそ、神の霊がもっとも力強く働くのです。迫害の場は、神が世界に証を立てられる場であり、弟子はその聖霊の器となるのです。
 また、終末時に世界を襲う災害や患難の中で、とくに自然の人間関係の崩壊が迫害との関連で取り上げられ、「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで(すなわち、死に至るまで)耐え忍ぶ者は救われる」(二一〜二二節)と言われます。
 最後の「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る」(二三節)という言葉は、わたしたちを再び地上のイエスが「十二人」を派遣される状況に引き戻します。前述のように、地上のイエスはイスラエルだけを視野にいれておられたので、神の支配の到来が切迫していることを「あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに人の子は来る」と表現されたわけです。マタイはこの語録をここに置くことで、五節から始まる「十二人」への派遣説教をここまで続かせていることになります。しかし同時に、マルコ福音書の終末預言をそのまま引用することによって、異邦諸民族に福音が伝えられている復活以後のマルコやマタイの状況に身を置いて書いています。ここにも福音書の二重性が露呈しています。すなわち、地上のイエスを語る伝承を用いて復活者キリストの福音を告知するという二重性です(福音書の二重性については『マルコ福音書講解』の終章「福音書の二重性」を参照)。
 おそらくマタイは、自分たちの状況はイエスの時代と違ってきていることを十分自覚していたと考えられます。それでもなお、現状と矛盾するような言葉もあえて伝えているのは、イエスの弟子として師の精神を継承することがもっとも重要だとして、師の姿をできるだけ忠実に伝えようとしたからだと考えられます。そのことをマタイは、「弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である」(一〇・二四〜二五a)という語録で表現します。この言葉に、イエスに対するマタイの思いが凝縮しているように、わたしは感じます。
 この語録は、ルカ福音書(六・四〇)では、弟子は師に習い、師を目標として修業すべきであるという意味で用いられており、ヨハネ福音書(一三・一六〜一七)でも同じ意味で出てきます。ところが、マタイはこの語録を、師が迫害されたのだから弟子も迫害を覚悟すべきであるという意味で用います。その意味で用いられていることは、すぐ後に「家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう」(一〇・二五b)という言葉が続いていることから明らかです。ヨハネ福音書にもこの意味で用いている箇所(一五・二〇)があります。
 マタイはイエスが十字架につけられて殺された事実を知っています。このイエスの弟子として生きる者は、師と同じ最後をも覚悟すべきことを暗に求めているのです。その上で、「恐れるな」という次の段落が続くのです。

恐れず言い表せ(10・26〜33)

 それで、続く「人々を恐れてはならない」と説き勧める段落(一〇・二六〜三一)の中心は、「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな、むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(二八節)という言葉にあります。
 ここで「体を殺しても、魂を殺すことのできない者ども」というのはイエスの弟子を迫害する人間たちを指すことは明らかですが、「魂も体も地獄で滅ぼすことのできる者」とは、新共同訳もそうしているように、神を指すと理解するのが順当でしょう。後に続く言葉(二九〜三一節)もそう理解するように促しています。二羽一アサリオン(現在の生活実感では五百円硬貨一枚くらい)で売られている雀さえ、神の許しがなければその一羽が地に落ちる(死ぬ)こともないのだから、たくさんの雀よりはるかにまさっているあなたがたの生死は、「あなたがたの父」がどれほど深い関心をもって見守っておられることであろうか。あなたがたの父は「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数える」ほどすべてを知っておられるのだから、その方に自分の生死を委ねるように、と説き勧めます。

 「地獄」《ゲヘナ》については、『マルコ福音書講解T』の九章四三〜四八節の講解(391頁)を参照してください。

 ところで、この「恐れるな」という言葉(二八〜三一節)は、「明るみで言いなさい」という言葉(二六〜二七節)と「人々の前でわたしを言い表しなさい」という言葉(三二〜三三節)で前後を囲まれています。すなわち、この一段(二六〜三三節)は、派遣される弟子たちに「恐れずに言い表せ」と説いているのです。「言い表す」ことこそ、弟子の使命であるのです。

 新共同訳は三二〜三三節を別の段落に区切っていますが、二六〜三三節は一つの主題を扱う一つの段落と見るべきでしょう。NTDや岩波版佐藤訳もそうしています。

 「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」(二六節)という言葉は、マルコでは現在隠された形で到来している「神の国」はかならず顕わな現実になるという終末論的な文脈で用いられています(『マルコ福音書講解T』の四章の講解を参照)。もともとイエスがこの《マーシャール》(比喩、謎、格言)を用いられたのはこの意味であったと考えられますが、マタイはそれをまったく違った文脈で用います。すなわち、「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい」(二七節)という、隠れたところで秘かにイエスから弟子に伝えられた「神の国」の奥義を人々の前で公に宣べ伝えよという福音告知命令の前置きとして用いています。なお、ルカ(一二・一〜二)はこの二つの言葉を、偽善を戒めるというまた違った文脈、違った意味で用いています。
 こうして死をも恐れることなく言い表すことを求められているのは、イエスを言い表すことです。
 「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う」(一〇・三二〜三三)。

 新共同訳は「認める、告白する、言い表す」《ホモロゲオー》という動詞を「自分をその仲間であると言い表す」と説明的に訳し、「拒む」という動詞も「知らないと言う」と解説的に訳しています。「わたしも言い表す」と「わたしも知らないと言う」は未来形で、終末審判が語られています。「だれでも人々の前で言い表す者」は直接法(事実を語る形)の動詞であるのに対して、「知らないと言う者」は接続法の形(事実でないことを仮定して語る形)になっています。マタイは、イエスを拒むようなことはないはずだが、もし拒むようなことがあれば、という気持ちで書いたのでしょう。なお、マタイでは「わたしも言い表す」となっていますが、マルコとルカの並行箇所では「人の子も言い表す」となっており、これが元の形であると考えられます。二三節の「人の子は来る」も含め、マタイにおける「人の子」の扱い方については、別の機会にまとめて取り扱う予定です。

 迫害され命を脅かされるような状況で、死をも恐れずイエスを告白する者はイエスと共に神の国に受け入れられ永遠のいのちに至り、迫害に屈してイエスを拒む者は父と共におられるイエスから拒まれて神の国に入ることができないと、励ましと警告が与えられているのです。
 地上のイエスが十二人を派遣されたときは、「神の支配が迫っている」という告知を信じるかどうかが問われていました。ところが、ここではイエスを受け入れるかどうかだけが問われています。また、地上のイエスによる派遣の場合には、使信の拒否はあっても使者に対する迫害は言及されていませんでした。ところが、ここではイエスを告白する者に対する命を脅かすような迫害が前提されています。状況がすっかり変わっていることがうかがわれます。マタイが福音書を書いたときには、まさにイエスを受け入れるか拒むかという一点が、命がけで争われていたのでした。
 ここではまだイエスを認めるか否認するかだけが問題になっています。イエスをどのような方として告白するのかということは問題になっていません。実はそれが最大の問題なのですが、マタイの物語ではその問題は一六章になってはじめて取り上げられるので、ここではまだイエスを認めるかどうかという形で物語られることになります。