第七節 負債と赦し
決算の日
「父よ、わたしたちの負債を赦してください、
わたしたちも、わたしたちに負債のある者を赦しましたように」。
「負債」は決算を前提としています。決算の時、負債の責任が問われます。そして、いま決算の時が迫っているのです。
人間は自分で存在しているのではありません。わたしを存在させている方がおられるのです。その方から「どのように生きたか」と問われるならば、それに答えなければならない立場にあるのです。この「答えなければならない立場」のことを「責任」と言います。英語でもドイツ語でも「責任」という語はそういう意味の語です。
人間は神に対して責任を負う存在であることを、イエスは「決算」をたとえとして語っておられます。主人の財産の運営を委ねられた者は「会計報告(決算書)」を主人に提出しなければなりません(ルカ一六・二)。「神の支配」は王がその家臣と決算するようなものです(マタイ一八・二三)。財産を僕たちに委ねて旅に出た主人は、帰ってきて僕たちと「決算をする」のです(マタイ二五・一九)。神の支配が到来する時は、神がすべての人と決算をされる日です。その日、各人は生涯における行為だけでなく、言葉や心の思いまで神の前に「決算書を提出する」ことになります(マタイ一二・三六)。
決算の時は迫っています。二重の意味で迫っています。第一に、神が全世界を裁かれる日が迫っているからです。稲妻がひらめき渡るように、その日は思いもかけない時に突如世界に臨むのです(マタイ二四・二七、ルカ一七・二四)。第二に、わたしがいつ死ぬかもわからないからです。明日かもしれないという意味で、わたしが生涯の決算をする日が迫っています。
わたしは自分の決算書が厖大な赤字であることを知っています。返済不能です。ところが、自分の負債は自分で返すことができると考えている人々がいます。ファリサイ派の人たちはそう考えました。多くの宗教もそう教えます。そのような人たちは「罪」が何であるかを知らないのです。彼らは罪を個々の行為の次元で見ています。神の戒めにかなう行為は義であり、違反する行為は罪であるから、罪の行為を少なくし、もしあっても義の行為を多くして、それで清算すれば神に受け入れられる決算書を出すことができると考えるのです。しかし、罪とは人間の行為で清算できるようなものではありません。それは人間の在り方そのものです。
人間は傲慢にも自ら存在しているものとし、自分を存在させている方を不要とし、魂の奥底でその方を憎んでいるのです。人間は本性的にこのような在り方をしているので、道徳とか宗教の規範にかなう行為も、神の恩恵を不要とし、戒めを守れない他者を蔑むという傲慢を増し加えるだけになります。この傲慢こそ、神がもっとも忌み嫌われる罪なのです。
イエスは、戒めを守る行為によって「義とされる」のではないことを教えるために、つぎのようなたとえを語られました。
「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています』。ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください』。言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。(ルカ一八・一〇〜一四)
決算において「義とされる」のは、戒めにかなう行為を何一つ挙げることをせず、ただ神の憐れみに自分を委ねた徴税人なのです。人が神を父として交わりをもつことができるのは、神が無条件に罪を赦してくださる場、恩恵の場だけです。イエスが「わたしたちの負債を赦してください」と祈るように教えられるのは、決算の日を目前にして、わたしたちが神に義とされる唯一の場である恩恵の場に自分を置くように教えておられるのです。
恩恵の場での祈り
ところで、この「わたしたちの負債を赦してください」という祈りには、「わたしたちも自分に負債のある者を赦しましたように」という句が続きます。この句は、わたしたちがこの世で実際に他人を赦したことを、自分が(決算の時に)赦されるための条件にしているように見えます。はたしてそうでしょうか。この句は何を意味するのでしょうか。
わたしたちの当惑を見越しているかのように、マタイは「主の祈り」の直後に、念を押すようにこの句についての解説を付け加えます。
「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」。(一四〜一五節)
このお言葉はルカにはありませんから、おそらく「語録資料Q」には含まれていなかったのでしょう。しかし、これと同じお言葉がマルコにあります。マルコは「主の祈り」は伝えていませんが、祈りについてイエスが教えられたことを次のようにまとめています。
「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。[もし赦さないなら、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちをお赦しにならない]」。(マルコ一一・二四〜二六、[ ]内は一部写本の異読)
このまとめは、祈りについてのイエスの教えでは、祈り求めるものはすべて既に得られたと信じることと、人を赦すことによって父から赦される場で祈ることの二点が、もっとも重要なこととして弟子たちに印象づけられていたことを示しています。
宗教とは祈りです。祈りによって神と関わる人間の営みです。祈りが成り立つためには、神と人とのよい関係がなければなりません。それで、多くの宗教は神に受け入れられるように戒律を守って清い者になるように求めたり、献げ物をして神に喜ばれるように求めます。それに対して、イエスは自分の清さとか献げ物は一切求められません。ただ、神の赦しだけが神と人との関わりを可能にするのです。イエスは、神の赦しの場で祈ることができるように、人を赦すことだけを求められるのです。
ここに上げたお言葉はみな、まずわたしたちが人を赦すことによって初めて父の赦しを受けられるような印象を与えます。しかし、事実は逆です。父が先にわたしたちを赦し受け入れてくださっているから、わたしたちも赦すことができるのです。繰り返し見ましたように、イエスが宣べ伝えられた「神の支配」とは「恩恵の支配」のことです。父はその愛のゆえに、背く者も無条件に赦して受け入れてくださっているのです。その上で、「父が慈愛深いように、あなたがたも慈愛深い者でありなさい」と、わたしたちも隣人を無条件で受け入れて愛することを求められるのです。「赦す」というのは、このような敵を愛する愛の具体的な姿なのです。恩恵の場に生きる者、すなわち、赦されて生きる者は、他者をも赦して生きるほかはないのです。もしわたしたちが人を赦さないならば、わたしたちは自ら神の恩恵の支配を否定することになるのです。自分で自分を恩恵の場から追い出すのです。
この消息をイエスは「仲間を赦さない家来」のたとえ(マタイ一八・二一〜三五)で実に的確に語られました。自分と妻子と全資産を売っても返済できない厖大な負債のある家来が哀願するので、王は彼を憐れみ、負債を免じてやりました。ところが、その家来は僅かの金額を貸している仲間に出会い、彼に負債を返すように要求し、その仲間が赦しを乞うのを聞き入れず、彼を訴え獄に入れたのです。この家来は先に王の赦しを受けているのです。だから仲間を赦すべきなのです。ところが、仲間を赦さなかったことによって、王の憐れみの場から自分を追い出してしまったのです。
このように、自分が父の恩恵の場にいる者であることを自覚する者には、「わたしたちも自分に負債のある者を赦しましたように」という句は、自分が父から赦しを受けるための条件ではなく、自分が父の恩恵の場に留まっていること、その場にしか生きられない者であることの告白となります。もしこの句を付けることができないのであれば、「わたしの負債を赦してください」という祈りは、誰もが持つ単なる願望となり、たしかな根拠は何もないものになります。この句こそ、恩恵の場に生きるイエスの弟子の祈りの独自性を示すものです。
そして、いまキリストにある者は、十字架の場でこの祈りを祈ります。キリストの十字架によって無条件に赦されているという恩恵の場に生きる者として、人を赦すことによって恩恵の場にとどまり、来るべき決算の時にも恩恵によって(すなわち、赦されることによって)栄光に与ることができるように待ち望んでいます。この祈りにも、終末が現在に突入してきているというイエスの「神の国」独自の終末論、そして「キリストにある」という場の独特の終末論の姿がよく現されています。
なお、マタイは「わたしたちも赦しましたように」と、動詞の時制はすでに行われた動作を示すアオリスト形を用いているのに対して、ルカは「赦しますから」と現在形を用いています。この形では、「わたしたちも赦しておりますから」という意味になり、また「(これから)赦していきますから」という意味にもなりますので、マタイの断定的な表現がもつ緊張を和らげる結果になります。表現は理解しやすい方に変えられる傾向があるという原則からしますと、マタイの方が「語録資料Q」の元の形を保持しているのではないかと推定されます。