第三節 殺すな
「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない」。
(五章 二一〜二六節)
怒り・罵りへの裁き
「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている」。(二一節)
「殺すな」という命令はモーセの「十戒」の中の一つで、もっとも基本的な神の戒めです。これは人間にとって根本律であって、どの民族の宗教でも、どの国の法律でも、この戒めを根本に据えないものはありません。この根本律を犯す者は、「裁きを受けて」その民から排除されるのです。そのことはイスラエルの律法ではこう規定されていました。「人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる」。(出エジプト記二一・一二)
過失によって人を殺した者については、被害者の近親者による「血の復讐」から守るために、「逃れの町」の制度が定められていました(民数記三五・九〜二九)。しかし、故意の殺人者は「殺害者」として必ず処刑されなければなりませんでした(民数記三五・一六〜一九)。これがモーセ律法の定めです。「しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」。(二二節a)
それに対して、イエスは「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」と言われます。故意に人を殺す者だけでなく、兄弟に「腹を立てる」者はだれでも「裁きを受ける」のです。この場合の「裁きを受ける」は、刑法の判決処刑ではなく、神の裁きによって神の民から断たれることです。人を殺す者が神の民から断たれるのは、すでにモーセ律法も明確にしています。今イエスはモーセ律法を超える別の「神の支配」を宣言されるのです。人を殺す者だけでなく、兄弟に「腹を立てる」者も同様に、神の民から断たれると宣言されるのです。この箇所(二二〜二四節)には「兄弟」という用語が繰り返し使われています。この語はすでに旧約聖書とユダヤ教において、普通の肉親の兄弟より広い範囲の人間関係を指すのに用いられています。共通の先祖から出た子孫として、同じ部族の者が「兄弟」と呼ばれ、されに広くイスラエルに属する者がこの語で呼ばれています。それでこの語は、イスラエルの民の内部という限度内ではありますが、広く「隣人」の意味でも用いられるようになっていました。また、イスラエルの中に特定の信条を持つ宗団が形成されたときには、「兄弟たち」という複数形は同じ信仰の仲間を指し、「兄弟」は同じ信仰共同体の構成員を指す場合もありました。エッセネ派の死海文書も、「兄弟」という語を自分たちの共同体のメンバーを指す用語として使っています。マタイが資料として用いた「語録資料Q」も、仲間を「兄弟」と呼んでいます。
このように旧約聖書やユダヤ教の「兄弟」という用語に親しんできたユダヤ人信徒たちは、イエスが自分の言葉を聴いて従う者を自分の「兄弟」と呼ばれた(マルコ三・三一〜三五)こともあって、イエスを信じる仲間を自然に「兄弟」と呼び合ったと考えられます。そして、多くの異邦人がイエスを信じる交わりに入ってきたとき、この語はユダヤ人という民族の枠を超えて、同じ信仰に生きる仲間、すなわちキリスト教共同体の構成員を広く指す用語になっていったのでした。パウロはその手紙の中で、信仰の仲間に呼びかける時もっぱらこの「兄弟」という語を用いています。「兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」。(二二節b)
「ばか」と「愚か者」という罵りの言葉を、原語に遡って違いを詮索し、罪深さの程度の違いを考えることは意味がないでしょう。両方とも相手に対する侮蔑の心から出る言葉であって、それを発する者の心の傲慢を暴露しています。このような罵りの言葉は、相手の価値と存在を認めない独りよがりの高慢に他なりません。このような傲慢は、事情によっては相手を抹殺する非人間的な行動にもなるのです。このような傲慢は恩恵の支配とは両立しません。厳しく排除されざるをえません。その排除の厳しさが「最高法院に引き渡される」とか「火の地獄に投げ込まれる」という表現になります。恩恵の場での和解
「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい」。(二三〜二四節)
この語録はマルコにも「語録資料Q」にもなく、マタイだけが持っていた特殊資料から採られたものです。神殿祭儀が前提されていることから、これは七十年より前に遡る古い伝承であることがうかがわれます。さらに、意表を突くような具体的な語り方は、イエスの口から出た言葉であることを感じさせます。
この文は「だから」という語で先行する「対立命題」と結び付けられています。兄弟に対して怒りの心をもって対することが裁きをうけるのですから、兄弟といつもよい関係を維持していなくてはなりません。関係が悪化して、兄弟に対して怒り立腹するような状況では、神に受け入れられることはできないからです。「あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない」。(二五〜二六節)
兄弟と「仲直り」をするようにとのお言葉に引き寄せられて、マタイは訴える者と「和解」するようにとのお言葉を続けます。しかし、このお言葉は本来終末的な最後の審判を前にして、それまでに神との和解をするように呼びかける宣教の言葉であったと考えられます。「クァドランス」というのはローマの青銅貨で、現在の日本の通貨でいえば百円玉くらいの価値の少額硬貨です。「最後の一クァドランスを返すまで」獄から出ることができないというのは、人間が罪の責任を自分でとらなければならない時の、神の裁きの厳しさを表現しています。「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧められておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい」。(コリントU五・一八〜二〇)
この二五〜二六節の言葉は「語録資料Q」に含まれており、ルカはそれを時代の徴を見分け、時をわきまえるようにとのお言葉の直後に置いて、明らかに終末的な審判の告知と和解の勧めの言葉としています(ルカ一二・五四〜五九)。これが「語録資料Q」での本来の文脈であったと見られます。マタイはこの和解の勧めの言葉をこの位置に置くことによって、供え物よりも先に兄弟と仲直りをする必要性を根拠づけ、さらに強調する言葉とするのです。