市川喜一著作集 > 第5巻 神の信に生きる > 第26講

Y 主の祈り

第七講 目を覚まして祈れ

試みの日

 「父よ、わたしたちを試練に陥らせず、悪しき者から救い出してください」。

 「神の支配」顕現の日が迫っている。聖霊によって「アッバ、父よ」と祈る神の子は、その聖霊によって「神の支配」の現実を身に宿すだけに、それだけ強くその顕現の日が差し迫っていることを実感している(第三講)。神の子は、神に敵対するこの世界の中で、「父よ、あなたの支配が到来しますように」という緊迫した祈りの中に生きている。
 しかし、昔から預言者たちによって語られていたように、神の大いなる栄光が顕れる前には、大きな患難が地に臨む。「神の支配」は世界がだんだんとよくなって実現するというようなものではない。「神の支配」が切迫すればするほど敵対する力との戦いは激しくなり、ついに神の力がその戦いに打ち勝って到来するのである。その戦いにおいて神の民は敵の激しい攻撃にさらされ、多くの苦難に直面する。これは避けられない。イエスもその日の前には多くの誘惑、迫害、苦難があることを語っておられる(マルコ一三章)。またパウロも「わたしたちが神の国にはいるのには、多くの苦難を経なければならない」と言っている(使徒行伝一四・二二)。
 これらの終わりの日の苦難は神の民にとって試練であり、また誘惑でもある。これらの苦難は神の民の信仰が本物であるかどうかを試し、本物の信仰であればますますそれを鍛えていく。同時にその苦難を避けようとして信仰を捨て、神との交わりから引き離すように誘惑する。この祈りにおいて、ふつう「試み」と訳されている《ペイラスモス》という語の意味には、このように試練と誘惑という二つの面がある。試練と誘惑は表裏一体である。
 イエスの生涯は始めから終わりまで《ペイラスモス》(試練・誘惑)にさらされていた。イエスはヨルダン川でバプテスマをお受けになった時、聖霊の注ぎにより「神の子」としての啓示と「主の僕」としての使命をお受けになったのであるが、その後ただちに荒野に導かれてサタンの「試み」に遭われた。それはイエスを神から与えられた使命から逸らせようとする誘惑であり、イエスが神の子として神を信じることを貫き通すかどうかを試す試練であった。イエスが直面された《ペイラスモス》は荒野の四十日だけではない。その活動の全期間にわたってサタンは激しくイエスを試みたのである。時にはイエスを王としようとする民衆の声を通して、時には「しるし」を求めたり律法違反を批判するパリサイ人や学者の議論を通して、また時には受難の道を歩もうとされるイエスを諌める弟子の声を通して、サタンは絶えずイエスを試みつづけたのであった。そして最後の、おそらく最大の試練はゲッセマネであろう。その場面には《ペイラスモス》に関連した用語は用いられていないが、イエスの内面において「主の僕」としての道を全うしようとされるイエスとそれを妨げようとするサタンとの最も激しい戦いが行われたと推察される。イエスは死ぬほど苦しみもだえ、汗が血のしたたりのように地に落ちた、と伝えられている。
 イエスは「試練」を知るかたであった。「主ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練の中にある者を助けることができるのである」(ヘブル二・一八)。イエスは人間がこの地上で神の子として生きていこうとする時、どのような試練と誘惑が来るかをよくご存じであった。そしてそれに打ち勝って命の道を歩むためには、ひたすら神の御力に依り縋って、自分を父の慈愛と信実に委ねるほかはないことを、この祈りによって教えておられるのである。
 この祈りは「試練に遭わせないでください」と祈っているのではない。試練・誘惑が来ることは避けられない。この祈りの動詞は「引き入れないでください」という意味である。試練・誘惑に直面した時、それに引き入れられ、引き込まれ、その中に陥って屈伏してしまうことがないようにと祈っているのである。病気とか、生活苦とか、仕事や事業の上の苦しみとか、また人間関係のもつれとか、人生において誰もが経験する苦しみも、神の子にとっては信仰から引き離そうとする誘惑になり、神に委ねきるかどうかを試みる試練になる。その意味では人生全体が誘惑の期間であり、試練の場である。そのような試練・誘惑に陥って屈伏してしまうことがないように、神の子は切に父に祈るのである。したがって生活に必要なパンを求める祈りも、病気の癒しを願う祈りも、仕事や対人関係の苦しみの解決を求める祈りも、この「主の祈り」の最後の祈りの中に含まれることになる。人間の本性は弱い。サタンの巧妙な誘惑や激しい試練に直面するとき、人間は自分の力でそれに立ち向かい、それを克服していくほど強くない。それができるのは神の力だけである。祈りによって自分を神に委ねる以外に、命の道を全うすることはできない。

目を覚ましていなさい

 「父よ、わたしたちを試練に陥らせず、悪しき者から救い出してください」。

 ゲッセマネでイエスは連れていかれた三人の弟子たちに「わたしと一緒に目を覚ましていなさい」と求められた。ところが、イエスが死ぬほどの苦悩の中で祈っておられる間に、弟子たちは眠ってしまっていた。そこでイエスは彼らに言われた、「あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目を覚ましていることができなかったのか。誘惑《ペイラスモス》に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は熱していても、肉は弱いのである」(マタイ二六・四〇〜四一私訳)。イエスは霊の世界で神の御旨の奥義と御国の栄光を見ておられただけでなく、人間の現実をも精確に見通しておられた。霊において熱烈に神の国の到来を祈り求める神の子も、肉(人間本性)においてはサタンの誘惑・試練に対してまことに弱い者であることをよくご存じであった。そのように弱い人間がなすべきことはいつも目を覚まして祈っていることである。
 「目を覚ましている」とは、今は神の支配の到来が差し迫っている時であることを自覚していること、すなわち「今の時をわきまえている」ことである。イエスは、家の主人がいつ帰ってくるかわからないから目を覚ましておれ、と繰り返し警告しておられる(マルコ一三・三二〜三七)。目を覚ましているためには、聖霊による祈りに生きることが必要である。信仰が観念化して神との交わりが希薄になると霊は眠ってしまう。霊が眠りに陥ると、人は霊の次元の事柄に無感覚になっていくが、その無感覚の第一のしるしは終末の切迫感が無くなることである。そして、福音においては終末的希望はキリストに属する者の復活に集中しているので、自分が霊のからだを与えられて死人の中から復活するという希望が現実味を失って空虚な言葉だけになっていくことが、霊が眠ってしまっている第一のしるしとなる。
 神の子に対するサタンの試練と誘惑は、迫害や騒乱や災害というような患難の形でやって来るとは限らない。そういう形であれば比較的たやすくそれがサタンからの試みであることを見抜くことができる。現代ではむしろサタンは神の子の霊を、世界の繁栄の幻想の中に、また日常生活の安逸の中に眠り込ませようとする。このような形での誘惑を見破って対抗することは難しい。ここでこそ終わりの日の切迫に目覚めていて、「悪しき者の誘惑に陥らせず、その策略から救い出してください」と切に祈っている必要がある。
 この祈りの後半の「悪しき者」と訳した語は、ここで用いられている所有格では同じ形をしているので、男性名詞とも中性名詞とも理解できる。中性名詞とすると、抽象的な「悪」または「悪しき状況」という意味になるが、イエスの宣教内容また聖書全体の背景からすると、すべての試練や誘惑の背後には悪の霊の存在が前提されているので、やはりサタンを指す男性名詞として「悪しき者」とするべきであろう。霊なる神との関わりが現実的になればなるほど、神に敵対する霊サタンの働きも現実的になり、実感をもって語られるようになる。天国(神の国・神の支配)が現実的になればなるほど、その欠如態としての地獄も現実的に実感されるのである。
 神の霊によって生きる神の子が直面する戦いは、血肉に対するものではなく、天上にいる悪の霊に対するものである。サタンの策略に対抗して立ちうるためには、神の武具を身につけ、神の力によらなければならないが、それにはいつも目を覚ましていて御霊によって祈ることが何よりも大切である(エペソ六・一〇〜一八)。今は「悪しき日」である。栄光の日が迫れば迫るほど、「悪しき日」を支配する「悪しき者」の働きも激しくなり、神の民は多くの試練・誘惑にさらされることになるであろう。それがどのような形で来るのかわからない。しかし、怖れることはない。「神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである」(コリントT一〇・一三)。
 主イエスは悪しき日に生きる弟子たちに、「父よ、わたしたちを悪しき者から救い出してください」との祈りによって、一切を父の慈愛と信実に委ねるように教えておられる。父は自分に依り頼んでくる子を、かならず「悪しき者」の試練・誘惑から救い出してくださるからである。それができるのは神だけであることを知っておられるからである。

絶えず祈れ

 ここまでに見てきたように、「主の祈り」後半の「わたしたち」に関わる三つの祈りは、極めて強い終末の迫りの場での祈りであることがわかる。「神の支配」顕現の日が迫っている。その日を目前にして、わたしたちはまず、その日に自分を生かす糧を今日いただくことを求めないではおれない。また、その日に負債を赦されて栄光にあずかることができるように、今赦しの場に自分を投げ入れて祈らないではおれない。さらに、その日の前に臨む大きな試練の火の中で信仰を全うすることができるように、父の御力に縋らないではおれない。このような祈りを身を以て祈る者こそ、真実に終末の場に生きる者である。 
 「主の祈り」後半三つの祈りにはイエスの「神の国」宣教の独自性がよく表れている。たしかに、前半三つの祈りもイエス御自身の祈りとして、その内容は先に見たように(第二〜四講)、イエスが受けておられる啓示に基づく独自のものであるが、表現は当時のアラム語の「カディシュ」の祈りとほぼ同じである。「主の名が聖とされ、主の支配が到来するように」という祈りはすべてのユダヤ人の祈りであった。彼らにおいては、ひたすら未来の事として待ち望まれていたものが、イエスにおいては聖霊によって現に来ており、その現実から将来の顕現が祈り求められている、という点が根本的に異なっているのであるが、表現はほぼ同じであるので言葉遣いだけからは区別はできない。ところが、後半の「わたしたち」の祈り、とくにパンの祈りと負債の祈りにおいて、イエスの独自性がはっきりしてくる。そこでは差し迫った将来として待ち望まれている終末が、祈る者の現実の中に入って来ている。来るべき世の命をもたらす聖霊が今日生きるのに不可欠の糧として祈り求められている。かの日の決算に負債が赦されることを祈り求める者は、いま現実に恩恵の場にいることが求められている。そして、現在の患難はかの日の栄光に至る途上の体験として父に委ねられている。

結語

 さて、初め(第一講)に述べたように、この「主の祈り」は弟子たちが「わたしたちにも祈ることを教えてください」と求めたのに対して、イエスが応えられたものであった。その際、これはイエス御自身の祈りであるとしてこの講解を始めたのであるが、今その内容がどのようなものであるかを本講全体を通して見てきたわけである。主イエスは御自身このような祈りに生き、また弟子たちにこのような祈りに生きるように教えておられるのである。口先で唱える言葉を教えておられるのではない。この祈りに全存在・全人生を懸けて生きることを求めておられるのである。この祈りに生きる者が真実にイエスの弟子である。
 すでに講解の中で何回も触れたように、このように祈れと教えられても、生まれながらの人間はこのような祈りを心の奥底からの願いとして生きることは不可能である。人間は本性的に自分のことを求めるものである。人はイエスの内にあって働いていたのと同じ神の霊を受けてその霊によって祈る時はじめて、この祈りを全身・全生涯をかけて祈ることができるようになる。この神の御霊は、わたしたちの罪のために十字架され、三日目に復活して、天にあるもの地にあるものすべての主(キュリオス)と立てられたイエス・キリストを信じ、このかたに結ばれて生きる者に、恩恵として賜るのである。神の御霊、聖霊こそ人間に神の子たる身分を授ける霊であり、この霊によって初めてわたしたちは「アッバ、父よ」と祈ることができるようになる(ローマ八・一四〜一六)。そして聖霊による「アッバ!」の叫びは、父に全存在を投入して祈る子の祈りであり、その中に本講で見てきた「主の祈り」の全内容が含まれている。神の御霊によって生きる神の子は、別のものを求めてとうとうと流れる世界の流れに抗して、また自分の中にある人間本性の反抗と戦いながら、この祈りをもって生きる。神の子は御霊によって、この祈りをもって生涯を貫かないではおれないようにされているのである。
 今、世界は危機的な状況にある。人間に栄光をもたらすはずの知識や情報や技術の高度な発達がかえって危機を加速するという矛盾の中で、信仰と無関係の人たちからも、文明の破局とか世界の終末とかが語られるような状況になっている。どうしてこんなことになったのか、実にさまざまな議論が行われ、混沌としている。その中で、イエスが祈られ、世に教えられたこの小さい祈りが、暗夜の燈火のように、根本的な問題がどこにあるのか、その所在を照らし出している。
 「主の祈り」は、人間の魂の方向が根本的に間違っていることを示している。「主の祈り」は、人間の奥底の願いが、本来目指すべき方向とは全く逆の方向を向いていることを暴露する。人間は本来この祈りが教えているように、自分の存在の根源たるかたに向かい、そのかたの栄光、そのかたの支配、そのかたの意志の実現を求めて生きなければならないのに、現実の人間は自分の手の業の栄光、自分の力の支配、自分の意志の実現ばかりを追求している。魂の方向が全く逆になってしまっているのである。
 さらに「主の祈り」は、人間がいる場所が根本的に間違っていることを示している。世界はその創造者たるかたの裁きという終末に直面しているのに、時《カイロス》を見分けることができず、自分たちの時がいつまでも続くかのように錯覚している。終末の場にいながら、その事実に気づいていない。また、神のあわれみの場にいなければならないのに、傲慢にも自分の価値で立とうとして、自分をあわれみの場、恩恵の場から追い出している。「主の祈り」は、人間がいるべき場を間違えていることを暴露する。
 世界的な危機の中で、わずかの数の主の民がこの祈りに生きても何の役に立つのであろうかと考えてはならない。主は弟子たちにこの祈りを祈り続けるように求めておられる。からし種のように小さくても、この祈りを祈りぬく民が地上に絶えないかぎり、その声は人々の魂に響きわたり、人間が本来おるべき場を指し示し、魂が向かうべき方向を示し続けるであろう。その祈りの声が一人から一人へ波及していき、すべての人がその向かっている方向を根本的に改めて、本来おるべき場に立ち帰ってくるのでなければ、人間の救いはない。この祈りが人類の祈りになる時、神の国はその栄光の中に顕れるであろう。この祈りを担うキリストの民の責任はまことに重いのである。
(天旅 一九八七年7号)